レイが武器屋に馴染みがなかったよう、エドガーもまた、文具店には用がない。それでもここはさほど高級店ではない、とレイは言った。 「僕の収入でも買える程度、だ」 それが文具としてどの程度なのかエドガーには見当もつかない。先ほど武器屋でレイも同じ思いをしていたのか、と思うとどことなく楽しかったが。 「ほら、ここには色んなものがあるだろう?」 レイが店内を指し示す。レイの指の先には紙があり、筆記具がある。他にもエドガーには用途の知れない様々な道具。種々扱っているからこそ、高級店ではないのだ、とレイは言った。 「高いものだと紙は紙で専門店があるからな。御前様がお使いになるようなものは、そういう店の方からお屋敷に届けに来る」 さっぱりだ、とエドガーは両手を上げて降参だ。それにまたレイがちらりと笑った。自分の領域とも言える場所にいて、レイは楽しげだ。そのせいで幾分常よりくつろいでいるらしい。 「紙の良し悪しなんざ、見当もつかないな」 「そういうものか?」 「普通だろ」 「だが、お前は――」 言いかけたレイが黙る。ばつが悪そうにうつむくから、エドガーには続きがわかった。気にするな、と軽く背を叩けば、唇を噛みしめた気配。 「俺は生まれた階級こそあれだけどな。どっちかって言ったら最下級層の育ちだぜ? わかるかっての」 からりと明るく言ってみせた。演技がいるような言葉ではなかったはずなのに、そんなに気にされると何か気にしないといけないような気分になってしまう。 「すまない――」 「いやな、俺は全然気にしてないんだぞ? なんであんたがそんなに気にするよ?」 「だが」 「レイ、この話はもうおしまい。せっかくの楽しいお出かけだろ?」 茶化して言うエドガーにレイが思わず、といった様子で吹き出した。それからそれでいいのか、と問うような眼差し。エドガーははっきりとうなずいて見せた。 「でもな、モーガン。別に楽しいお出かけ、ではないと思う」 「そうか? 俺はけっこう楽しいぜ?」 「楽しくない、とは言っていない。ただ、なんと言うか――」 「あぁ、約束して、待ち合わせしてってわけじゃないってか? ほんと意外なところで意外な言葉を聞くもんだ」 そんなエドガーにレイは冷え冷えとした眼差し。それでもほんのりと目が和んでいる。感情などないに違いない、と思っていた書記室での彼と同一人物とは思えない。それにくらくらとしているのだから我ながら始末に負えない、内心で思ったエドガーの口許に小さな笑みが浮かんで消えた。 レイはエドガーを放っておくことに決めたらしい。店内を見てまわっている。自分の収入で買える程度、とは言っても見境なしに買えるようなものでもない。欲しいものと財布の中身とあれこれ考えているのだろう。そんなレイに店員が商品の紹介をしたり説明をしたり。エドガーの方は付き添いだ、とわかっているのか店員の方もかまいつけはしなかった。 それをエドガーは眺めるともなしに眺めている。武器屋とはずいぶん佇まいが違うな、などと言わずもがなのことを考えつつ。ここは静かだった。武器屋は誰かが大声で話している、というわけではないのにどことなく騒がしい。けれどここは正反対に、こうして話し声が聞こえていても、静かだ。それも居心地の悪いそれではなく、どこかほっとするような。 「モーガン」 呼ばれてレイに近寄る。あちらとこちら、二種類の紙のどちらがいいか考えあぐねているらしい。意見を求められてもなにをどう答えればいいものか。 「そう考えなくていい。ただ――好みでいいんだ」 肩をすくめたエドガーにレイはそんなことを言う。まるでお前の好きな方の紙を買いたい、とでも言われたかのよう。胸の奥が弾んで、慌てて顔を引き締める。 「強いて言えば……そっち、かな。なんか触ると気持ちよさそうだ」 汚してはいけない、と思うからエドガーは触れてはいない。が、触ったならばどんな感触がするのだろう、と思うような質感の紙だった。 「なるほど。新鮮な評価だ。だったらこちらにしようかな」 小首をかしげてレイは結局、本当にそれを求めた。エドガーはと言えば気づかれないように四苦八苦しているというのに、お前の選択はよかった、などと言っては笑っている。困ったものだった。 「それ、なにに使うんだ?」 だからせめて仕事に関係する話でもさせておかないと危なくてかなわなかった。本当ならば、二人きりでいる今、そんな話はしたくない。それでも。 「練習だ。さっき言っただろう?」 「それにしちゃ綺麗な紙だからな」 「まぁ……少し、奮発したかな。たまにはいい紙に書きたいし」 わずかに視線が泳ぐ。お前に興味を持っている、そう言われたかのようでエドガーこそ言葉を失う。わざとらしく聞こえないよう心掛けたけれどどう考えても不自然な咳払い。それをレイが小さく笑った。 「いや、たとえばな! いい紙があったら、何を書くんだろうとかな。というか、あれだ。あんた、夢とかってあるのか」 「夢?」 「あれがやりたいとか、これがしてみたいとか」 仮にあったとしても、叶わないだろう夢。侯爵家の使用人では夢など持ちようがない。持ったとしても、叶うはずがない。 「それでも、たまに戯言語るってのも、いいだろ?」 覗き込んだエドガーにレイは瞬きをしていた。そんな風に考えたことはなかったに違いない。それからほんのりと口許がほころんでいった。 「そうだな……。筆写が、したいかな」 「筆写? そりゃいつもの仕事だろ」 「そうじゃない。自分のためにだけ、気に入った紙に、好きなことを書いてみたい。文才はないから……そうだな。古今の詩を写してみたいかな」 そう言ってレイはエドガーを見上げた。こんな馬鹿なことを言う自分を笑うのだろうとばかりに。エドガーは確かに笑っていた。しかしレイが思うようなそれではなく、甘く微笑んでいた。 「……なにを。いや、その。だから」 「レイ?」 「違う! そうじゃなくて、だったらお前はどうなんだろうって思っただけだ。僕だけ語らせて、ずるいじゃないか」 慌て出したレイの姿にエドガーの目が丸くなる。なにを急にそんな態度に出たのか、さっぱりだった。それでも目に楽しい姿だ、とは思う。 「そう言われてもなぁ」 「言えよ、ずるいだろう」 「だから、夢って言うようなもんがないんだって。せいぜい楽して暮らしたいなぁくらいだな」 「――夢がないにもほどがあるぞ」 「って言うけどな。こっちは生まれてこの方、命がけで稼いでるんだぜ? そろそろ楽させろよって思うもんだ」 からからと笑うからこそ、つらかった日々が際立つような声。レイはそれをどう感じたのか、痛ましそうな顔だけは、しなかった。エドガーを侮辱するとばかりに。 「確かに、楽な生活というのは現実的な夢、とも言えるかな」 「だろ?」 にやりと笑ってエドガーは天を仰いだ。あえて、言わなかった。いまがそうだとは。侯爵家の武術指南役ならば、常日頃から命がけにはならない。収入は安定しているし、その上レイもいる。最後だけは口にできないけれど、充実した日々だ、とエドガーは思っていた。 「どっか周ってから帰るか?」 それでも、帰らなければならない。こうしてこのまま二人でいられればいいのに。そんなことを思うのに、屋敷には帰らなければならない。内心で慨嘆していたエドガーの耳に届くかどうかのかすかな音。レイの溜息に聞こえた。まるでレイも同じことを考えていたかのような。エドガーが見やったときには、もういつもの彼だったけれど。 「あぁ……そうだな」 うなずいたレイが強張った。なにを見かけたのか、とエドガーは振り返る。そして思いもかけない人物。一歩引いて目礼をした。 「やあ、エドガー。――お前がエドガーと親しげにしているとはな。どういうことなんだろうな?」 取り巻きを引き連れたチャールズの棘のような言葉。すくんだレイが声もなく震えている気配。それなのに彼は微動だにしていない。 「誤解です、チャールズ卿。偶然出くわしただけですよ。無視するのもおかしなものでしょう?」 ただそれだけのことだ、とエドガーは芝居っ気もたっぷりに両手を広げて見せる。それにチャールズはにこやかにうなずき、けれどレイには厳しい目。 「さて、説明してもらおうかな、レイラ?」 今度こそ、本当にレイが身を震わせた。眼差しを大地に落とし、万が一にもエドガーを頼ってしまわないようこらえている気配。そのレイを見つめ、チャールズに視線を移し、エドガーは驚いていた。 「おや、エドガーは知らなかったかい? それの本当の名は、レイラ、というのさ。父上は優しいからな、それにレイと名乗るのをお許しだがね」 鼻で笑って肩をすくめるチャールズに、取り巻きどもがくすくすと笑う。いずれもレイを嘲笑しているのだけは間違いなかった。 「女の名なのだから、女らしくしたらどうなんだ、レイラ? お前がどうするのが正しい振る舞いか、教えてやっただろう?」 ちらりとチャールズはエドガーを見やり、レイを見る。まるでそこにエドガーがいる。彼が見ている、と教えでもするかのように。 「――はい、若君様。仰せの通りに」 従順に。従順の上にも従順に。往来だというのに膝をつき、レイはチャールズの指先にくちづけた。震える唇が、自分に触れていたあの唇がチャールズに触れる。まるで下僕のような礼節を求められているだけ。それでも沸きあがるもの。 けれどエドガーは息を飲む。沸々と滾る怒りをこらえられたのは、レイの目に薄く張った涙のおかげ。あるいはそのせい。 「エドガーも、こんなものにかまうんじゃない。我が身の穢れになるだけさ。そうだろう?」 わざわざレイに聞かせようと同意を求められていた。指南役であることがこんなにも今はありがたい。エドガーは従順を求められる地位ではない。ただ礼儀ばかり、目礼をした。 「ついて来い、レイラ。躾をし直さなくてはいけないな」 言い様にチャールズは背を返す。取り巻きどもがわっと馬を引いてきた。その後ろに小走りに従うレイ。振り返りもしなかった。振り返れなかったのだと、そう思いたいエドガーはただ、立ち尽くすだけ。 |