そわそわしながら待っていた。昼間レイが書類に忍ばせた紙片。逢い引きのための秘密の伝言。レイから自分のところに訪れる、そう言ってきたのは初めてで、どことなく浮ついた気分になってしまう。 「馬鹿か、俺は」 なにをこんなに浮かれているのか、と思ってしまう。ただ体の相性がいつになくいい遊び相手が来る、それだけだ。 何度も心に言って、それなのにうろうろと室内を歩きまわっている己の足。内心での呟きと裏腹に浮かび続けるもう一つの言葉。早く来ないか、いまに来るか。 「あぁ、もう!」 苛々として自分の頬を叩いた。そんな自分の姿にまた馬鹿らしさが募る。別に恋人同士と言うわけではない。決してない。それなのに、心待ちにでもしているような、そんな自分が手に負えない。 「……惚れた?」 あえて呟いてみる。違うな、とすぐに否定できた自分にほっとして、ほっとする自分にまた苛つく。本当に、もうどうにもできなかった。 諦めて居間の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと外を見つめる。もう日は暮れていた。いつレイが来てもおかしくはない。 「早く――」 来ないかな。呟きそうになって慌てて止めた。が、自分の心の耳には聞こえてしまう、何を考えたのかがはっきりと。長い溜息をつき、座ったばかりなのに立ち上がっては茶を淹れた。 日常的にエドガーは飲酒をしない。食事と共に葡萄酒の小瓶を空けることはあるけれど、そのようなものは水代わりだ。日が暮れてから、のんびりと酒を飲む、ということが一人でいる限りはあまりなかった。 「さんざっぱら飲んだからな……」 傭兵時代に、酒は一生分飲んだ気がしていた。訓練と戦闘の間はずっと飲むか寝るかしていた、そんな気がするほど飲んだ。 そのせいでもないだろうに、いまはほとんど飲まない。武術指南役という堅い職がそれをさせているのかもしれない。万が一の時にへべれけでは職を失う。 「ま、命の危険がないってのはいいけどな」 傭兵時代は死と背中合わせの毎日だった。少なくとも今は、一歩間違えただけで死ぬ、ということだけはない。それを安堵と言うべきかぬるま湯のような生活と言うべきかはエドガーにはわからない。ただ、ほっとはしている。 「こねぇなぁ」 また、呟いてしまった。自分の頭を殴りつけ、とっくに冷めた茶をすする。そう言えば世話になっていた傭兵隊の隊長はこんな茶が好きだったな、と思い出すともなく思い出しつつ。ただレイから目をそむけていたいだけとは、ぼんやりと気づいていた。 レイはまだ来ない。普段ならばもう訪れている時間をとっくに過ぎ、抱き合ったままとろとろと眠っているような時間。何度か茶を淹れ直し、なにを律儀に待っているのかと自分を笑う。来ないならば来ないで別にかまわない。寝てしまおうか。思うけれど、たぶん動けないだろうとも思った。 夜半を過ぎ、ずいぶんと風が強くなってきていた。黙って待っているのも馬鹿らしい。エドガーは兵法書を読んでいた。何度となく読んでいるけれど、何度読んでもいいものだ。いつも新しい発見がある。それだけ未熟な己を発見するのもまた楽しい。そのエドガーがふと目を上げた。 「……遅くなった」 きしむ扉の音。フードを深くかぶったいつもどおりのレイがそこに。無言で立ち上がったエドガーにレイが身をすくめる。 「――すまない」 震える小声で詫びていた。怒っている、そう思っているらしかった、彼は。違う、と言いたくてもエドガーは口を開けない。なぜかわからず、けれど一言も口にできない。だから黙って抱きしめた。 「あ……」 戸惑いのような、歓喜。レイの唇から漏れてしまった声。その声にこそ、エドガーは身を震わせる。嬉しかった。 「ごめん、モーガン」 見上げてくるのを許さず胸の中に抱き込んだ。そのままでいいと、詫びなど要らないと。伝えたくて、伝わらなくて。伝えたい自分の気持ちすら、わからなくて。 「もっと早く――」 「気にするな。どうせ俺も用があった」 「……用?」 「ちょっと調べものをな。実はさっき戻ったところだ。あんたが来てるんじゃないかって気が気じゃなかったんだけどな。ちょうどよかったぜ」 嘘を。レイが小声で呟いた。エドガー自身、自分は何をほざいているのだ、と思ったほど。わずかに天井を仰いでしまった。 「お前は……優しいんだな」 囁きのような独り言。エドガーは聞かなかったふりをする。代わりに、というわけでもないけれど、フードを脱がせた黒髪に顔を埋めた。ふわりとよい匂いが漂ってくる。どこかで知った香り、と思ったときには思い出している。菫館で会っていたころ、レイが身につけていた香り。レイは自分と会うのに、装いを凝らしてきたのか、さりげなく。そう思うと身の置き所がなくなりそうだった。 「――その前に、尋ねたいことがあるんだが。いいか?」 ゆっくりとレイが見上げてきた。濡れて光る夜色の眼差し。エドガーはその瞼にくちづけをする。闇色を透かした瞼はほんのりと青ざめていた。 「お前は……騎士だったんだな」 ためらいの口調にエドガーは首をかしげる。気にするようなことだろうか、ふと思い、たいていは気にすることかと思いなおす。 「まぁ。たかが世襲騎士だけどな」 騎士叙任を受ける――実際には合法ではあるけれどただ名乗っているだけ――権利がある、それだけの家柄だった。エドガーも都合がいいときには、騎士の位を利用する。それだけのもの。 「なぜ、使用人に?」 聞いていいことだったら。そんな含みが感じられるレイの声にエドガーは微笑む。そんなに気を使うな、言う代わりにくちづけた。 「モーガン」 はぐらかしたわけではない、思ったときにはうろたえていた。なぜか妙に恥ずかしくなってくる。それでも腕の中で憩うレイを離す気には、どうしてもなれなかった。 「強いて言えば、貧乏だったから? 前は傭兵隊にいたんだけどな。こっちの方が実入りがいい」 「実入り、か……」 「まぁ、命の危険もほとんどないに等しいしな。楽して稼げるのはありがたい。そのために騎士の位も利用した。俺にしてみりゃ世襲騎士なんてのはその程度のもんだぜ?」 「それでも、立派に騎士様なのだろう?」 「様ってほど偉かねぇし」 「でも……生家があるのだろう、お前にも」 こんな風に、書記などと恋愛遊戯をしているべき人間ではないだろう。そう咎められた気がした。それなのに、レイは違うと言って欲しがっているような。どう答えたらいいのかわからず、エドガーは事実だけを口にする。 「昔はあったけどな。傭兵隊にいたって言ったろ? それもな、親を食わせるために入ったってやつでな」 少しばかり驚いたレイの目。見開いて、あどけないような眼差し。エドガーは目をそらし、見惚れないように心する。そう決めたときには彼にくちづけをしていたのだけれど。 「隊で稼いで仕送りして、そんでもなぁ。なまじ家なんかがあると社交だ付き合いだって出て行くもんも多かったみたいでな」 両親はそれでも精一杯に頑張っていたのだと思う。息子に負担をかけないよう、自分たちが笑われても質素を貫いていた、と後で聞いた。 「結局は……飢えて死んだようなもんだな」 肩をすくめれば、レイを抱きしめるような形に。否、レイが縋ってきていた。慰めるように、きつく抱き返されていた。 「だから俺はただ騎士を名乗る権利があるだけ程度にしか思ってねぇよ。使えるもんなら何でも使うってのはいっそ傭兵流だしな?」 レイの黒髪を指で梳く。さらさらとした長めの髪が心地よかった。抱き合う熱にレイの体から立ち上る甘く官能的な香り。 「いまはだから、楽に稼いで遊んでる」 「……ご両親が健在だったころに、ここの仕事があればよかったのにな」 「その辺は仕方ないな。巡り合わせってもんだ」 運も不運も巡りめぐる。明日どころか一瞬先には何があるかわからない。所詮、人間はそうやって生きて行く。傭兵時代に生と死を見続けて、気づけばそんな風に考えるようになっていた。この姿を両親が見ないで済んだ、それだけはありがたいと思っている。 「……すまない」 「なにが?」 急に詫びられて、エドガーは首をかしげる。そんな彼の姿にレイの唇がほころんだ。何がそんなに嬉しいのだろうと不思議になるほど。 「嫌なことを、尋ねてしまったんじゃないか? だから」 「別に? 嫌でもねぇかな」 「本当に?」 言いながら、真実嫌ではなかったな、とエドガーは思っていた。傭兵時代には自分の素性は誰にも語りたくなかったのに。レイだからかもしれない。浮かんだ思いを慌てて退けた。昔も隊長と少数の信頼できる戦友は知っていた。思った途端に、それではレイが戦友並みに信頼できることになってしまう、考えてしまってはまたも内心で慌てる羽目になる。 「本当に」 冗談のように、恋人同士のように囁く。耳元に唇を寄せ、柔らかな呼吸と共に言葉を注ぐ。きゅっと縋ったレイの手。背中を抱いていた。 「それでも――」 小さくレイが呟いた。耳を寄せ、聞こえなかったと示せば無言で首を振るレイ。聞かせるつもりも聞かせたい言葉でもなかった、それで気づく。詫びたくて、詫びられないレイの強張り。頬に頬寄せ、エドガーは小さく笑う。それを感じたのだろうか、それとも。 「モーガン。お前が欲しい」 あまりにも直截な言葉にエドガーは驚いた。まじまじとレイを見つめてしまう。羞恥にそらされるべき漆黒の目は、じっとエドガーを見ていた。まるで祈りの眼差し。 「そのために来たんだろ?」 だから問うことはしなかった。抱き合う一瞬だけ、何かを忘れたいならば付き合いたかった。それくらいならば、自分にも。それくらいしか、自分には。 「レイ?」 名を呼べば、すくんだ。肩先を掴んだレイの指。白くなるほどきつく掴んでいるに違いない。 「モーガン、お前は」 小さな小さなレイの声。震えを抑えてわずかに掠れたレイの声。これ以上言葉を重ねさせるのは痛々しくて、唇を塞いだ。ほっとした彼の唇が、しなやかな両腕が、エドガーに縋りついて、まるで体中で泣いているようだった。 |