木蔦の家

 日常の訓練中、エドガーはふと顔を顰めてしまうところだった。慌てて平静を保っては目礼をする。向こうから来た人影はエドガーの様子に気づくことなく陽気に片手を上げた。
「やあ、エドガー。手合わせをしようじゃないか」
 取り巻きに囲まれて洒脱な口調を精一杯に装う無粋な男。侯爵家の嫡男、チャールズだ。正直なところ、エドガーは彼が苦手だ。
 傭兵隊にも所属経験があるエドガーは武骨がすなわち悪だとは思わない。ミルテシアでは好まれにくい、というだけだ。かつての同僚の中には非常に頼りになる男がいた、とつい愚痴めいたことを思ってしまう。
 まして、だ。武骨ならば武骨なりにやりようというものがある。粋を気取っても見苦しいだけ、ということがチャールズにはわからない。わからないからこそ、無粋な男なのだけれど。
「は。お相手願います」
 軽い礼はエドガーが武術指南役だからこそ。召し使われる人間でありながら、指導役でもある、そのあたりの微妙さだった。
「チャールズ、君はこんなところで剣を? 変わってるなぁ」
 取り巻き連中の一人が警備兵を睥睨しながら嘯く。平民など人間の内にも数えない、言葉の端々に表れていた。
「警備の人員を見るのも役目の内さ」
 言ってのけたけれど、チャールズは怯えている。自分の振る舞いが、ミルテシア貴族に相応しくないのかもしれないと。陽気で遊び上手な貴族でありたいと。
「それにしたって。指南役って言ってもあれだろ、こんなところにいるんだから平民だろ。平民なんか、よく君の父上は使っているな」
 侯爵閣下には申し訳ないけれど、笑って言いながら一人が肩をすくめる。それを侯爵本人の前で言ってみろ、とエドガーは言いたい。決して言えないのだから。
 それを思えば馬鹿馬鹿しかった。貴族のなりばかりかまう生き方が、溜息も出ないほど馬鹿らしい。だからこそ、気にかける価値はない、ときっぱり彼らの会話を締め出した。
「おやおや、それを父に言ってもいいのかな?」
 からかってもチャールズの口調は固い。だから遊びがうまくならない、と周囲はみなが知っている。知らないのは本人だけだ。
「よしてくれよ、閣下を批判したわけじゃないんだから」
「まぁ、どうするかは後で考えるとしようか」
 にやりと笑ってもひきつったようにしか見えない。エドガーはその間に警備兵の武器である幅広の長剣から貴族に指南するための細い剣へと取り換えていた。こんな縫い針のようなものでは実戦の役には立たない。貴族が決闘でもするには充分だろうが。内心でそう思っていたとしてもエドガーは口にはしない。せっかくの職だ、失いたくはない。
 ふと視線を感じてそちらを見る。驚くべきことに、レイがそこにいた。明るい陽射しの下で見るだけで、ずいぶんと印象が違う。いまの彼はいつになく弱々しく見えた。
 まだチャールズは戯言を口にしている。いまならば、そう思って一歩を踏み出しかけたとき、レイがす、と下がった。話しかけてくれるな、と小さく首を振っている。なぜかはエドガーにはわからない。それでも彼の意は汲もう、とかすかに微笑んだ。それにほんのりとした微笑の影が返ってくる。
「さて、エドガー卿。貴君の用意も整ったようだ」
 やっと決着がついたか、と溜息まじりに振り返れば、ぎょっとした取り巻き連中。そう言えばエドガー卿、と呼ばれていたな、と思い出す。
「平民平民とな、諸君らは言うが。父上がそんな輩を使うわけがないだろう?」
 彼は騎士さ。言うチャールズの声など右耳から入って左耳に抜けて行く。エドガーにとってはどうでもいいことだった。
「へぇ、そうだったのかい。だったら言ってくれればよかったのに」
 突如として親しみを見せはじめた取り巻きにエドガーは顔を顰めないでいるのが精一杯だ。エドガーにとって騎士の位など、所詮その程度。いっそ傭兵隊にもいた、と言ってやれば蜘蛛の仔を散らすようにいなくなるだろう。もっとも、雇い主の感情を慮れば言うに言えなかったが。
「はじめましょう」
 軽く剣を掲げ礼をする。チャールズのそれは様になっていなかった。当然だ。貴族の好む軽い剣とはいえ、鍛錬を怠ればうまく使うことなどできない。だからこそ、自分という指南役がいる。が、チャールズはこうして勝手気ままに練習をしたりしなかったりだ。いっそ父侯爵に告げ口でもしたくなる。用が増えるからやらないが。
 エドガーは警備兵に見せるよう、剣を使っていた。貴族とはこういうものなのだから、どうやれば守れるのかを示すつもりで。
 そしてチャールズには鮮やかで華麗な技だけを見せている。それを彼が習い覚えることができるように。やる気があればではあるが。
 本当ならば、もっと実用的な武器で実戦に耐えうる武術を教えたい。しかし好まれないのだから致し方ない。所詮は使われる身だ。
 いつもそう思いながら剣を振る。チャールズが訓練をしたがるのは滅多になく、だからこそ顔を合わせるたびにこんな気持ちになってしまう。
 けれど今日は。普段とは少しばかり気持ちが違った。そこで、建物の影に隠れるようにしてレイが見ている。見られている、その強烈な意識。
 エドガーは迂闊にチャールズを叩きのめしてしまわないよう気をつけるのにぎりぎりだった。こんな馬鹿馬鹿しい剣ではなく、本来の自分の戦い方を見てほしい。そんな馬鹿なことを考えてしまう。レイに、すごいと言ってほしい。ちらりと思いが浮かんだとき、危うく軌道を誤るところだった。さすがに熟練している。まずい、と思う前に剣は正しい軌道を取り戻し、その時点になってようやくしまった、と思考の方が追いついた。
「いまの手をもう一度」
 チャールズから言ってくるのにエドガーはひやりとした。失敗を悟られたか、と。すぐさま否定する。単に派手な技だったからやってみたいだけだった。そのことにほっとして、今度は実際の半分の速度でゆっくりと技を見せる。
「ふむ、なるほど」
 まったくわかっていないのに、チャールズはもっともらしくうなずいて見せる。それから今の技をやって見せるのだけれど、ちっとも形になっていなかった。遠慮会釈なく笑う取り巻きに、どうぞ警備兵がつられたりしないように、と心の中でエドガーは祈る。貴族が笑っても冗談で済むが平民はそうではない。幸い、兵たちは謹厳な顔つきのままじっと整列していた。
「エドガー。質問があるのだがね」
 剣を振りながらチャールズが言う。そういう余裕ぶった態度は、もっと上手になってからしてほしい、内心でエドガーは思う。危うく逸れて行く剣に合わせるのに苦労していた。
「なんでしょうか」
「なに、警備兵のことだ。君ならば的確な助言ができるだろう」
 さあ、ありがたがれ。チャールズの顔に書いてあってはエドガーは頭を下げるしかない。いま正に剣を合わせている最中であるのだと是非にも思い出してほしかった。
「隊長なのだがね。私としては彼は相応しくないのではないかと思うのだよ」
 どうだ、とばかりに誇らしげ。溜息も出なかった。いまここに、当の警備隊長がいる。わずかに青ざめていたけれど、口を挟むことのできない彼が。
「どのような点が、でしょうか」
「君はそうは思わないのか? 私は近侍にはもっと容貌優美な者を置きたいね」
「お言葉ではありますが。彼は非常に有能です。すぐに代わりが見つかる、とは思えません。それほどの能力の持ち主です」
 そんな人間をたかが顔で馘首すれば笑いものになるのはお前だ。あからさまに口調に滲ませる。悟ることができるチャールズでよかった。顔を顰めて剣を引く。
「卿のお身の回りを守るに、彼以上に相応しい者はいない、と断言いたします。――顔の優しげな者がお入り用でしたら、お屋敷の内でお使いになればよろしいでしょう」
「なるほど。外には外の仕事がある、ということか。勉強になったよ、エドガー卿」
「差し出口を致しました」
 エドガーも剣を収め、一礼する。さすがに額に冷や汗が浮かんでいる。そんな彼に気づかず取り巻きと一緒にチャールズはその場を後にしようとしてた。
 ほっと息をつくエドガーに、警備兵が更に安堵した息を吐いている。自分たちの隊長が道楽で飛ばされてはかなわない、それを阻止してくれた指南役への感謝。エドガーはそれにさらされるのがわずらわしいような照れくさいような気がして、すっと彼らの気配をかわしてはレイの元へと。
「なにか書類に不備が?」
 他にレイが外に出てくる用事などないはずだ。青ざめて見えるほど白い肌に、かすかに震える唇。さすがに訝しく思う。
「……あぁ。一枚、署名が抜けていて」
 小声で言うのは、警備兵など慣れていないせいか。室内派の彼には兵たちは恐ろしいのかもしれない。エドガーは書類を受け取っては詫びながら署名をする。そこに挟まれていた紙片に目を細めながら。
「了解」
 呟けば、レイが顔をそむけた。そしていっそう青ざめる。不思議に思って彼の眼差しを追った先、まだチャールズがいた。
「意外だな。書記と親しいのかい、君は」
 意地の悪そうなチャールズの声。エドガーではなく、レイをいたぶる意思が見え隠れ。レイは無言で頭を下げていた。表情を見られたくないとも映る姿。エドガーは悟る。チャールズの顔こそ、見たくないのだと。
「私の不手際で書類に不備があっただけです。お手を煩わせた、申し訳ない」
 そっけなくレイに言えば口の中で何かを呟く。書記が言い訳をしている姿にでも見えたことだろう。チャールズは満足そう、高らかと笑っていた。逃げるよう足早に去って行くレイの背中を、エドガーは視線で追わずにいるのに精一杯だった。本当は、追いかけたかった。眼差しではなく、肉体で。気づけばチャールズは笑いながら去って行くところ。取り巻きに書記のくだらなさを声高に語っている。無言でエドガーは拳を握っていた。
「指南役」
 振り返れば隊長が目を潤ませていた。チャールズが去るまで待っていたのだろう。エドガーもまた、見送るような真似をしなければよかった、と思う。そんな気はなく、立ち尽くしていただけだったけれど。
「本当に……なんと言っていいか……ありがたい、ありがたい」
 手を握って振り回し、じっと見つめてくる隊長に身の置き所がなくなりそうだった。隊長を庇ったわけではない。言えたならば。
「いや、気にしてくれるな。成り行きだよ、ただの」
 それでも何度も何度も礼を言う隊長。本当のことは言えなかった。レイにいいところを見せたかっただけ、などとは決して。




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