あまりにもその笑みが鮮やかすぎて、エドガーは一瞬以上もの間、目を奪われていた。見惚れている、気づいたときには目をそらす。それをレイが見ている気がした。 「すまない、少し。疲れているんだ」 しばらくの後、エドガーの腕の中にくるみ込まれたレイが言う。すっぽりと収まって、ぬくぬくと安らいでいる。それが不思議としっくりきた。 「疲れてるんだったら、誘いに乗らなくってもよかったんだぜ?」 嫌味ではない、と伝わるだろうか。懸念は束の間ほども続かなかった。小さく笑ったレイの声。胸に響いてくぐもった。 「断ったら、変に気にするだろう? はじめて自宅にご招待だ」 喉の奥でレイが笑う。冷静そのものの書記の顔から、彼個人の顔へと。それを見せられた戸惑いと、ときめき。ただ黙って抱きしめた。 「自宅で会うのが嫌なわけではない、とはあの場では言いようがなかったから」 他にも書記が大勢いた。同僚の前で私的な話などできない。呟くレイにエドガーは答えを失う。その彼を訝しげにレイが見上げた。 「いや……。その。見られると、まずいか? 例えば、付き合ってるやつがいるとか」 今更だが、レイには決まった相手がいるのかもしれない、同僚に。あるいは同じ召使の中に。それならば確かに見られれば困ることになるだろう。 「お前な」 そんなエドガーをレイはじっと見ている。冷静でも、当然にして楽しげでもない顔。レイの素顔。蕩けるような眼差しだけは、変わらなかった。 「――僕は、交際相手がいるのに遊べるほど、世慣れていないんだ」 少しばかり引き結んだレイの唇。まるで拗ねてでもいるように見えてしまう彼の表情。詫び代わり、軽くくちづければそっとほころぶ。 「普通ってほどでもないけど、珍しいってほどでもないだろ、そういう遊びは。一応、念のために聞いとくってやつだ」 「そうは聞こえなかった」 「気のせいだ、と思う」 急に弱気になったエドガーにレイの目許までほころんだ。再び緩やかな笑みが彼の顔に現れ、見ていられなくては胸の中に抱き込む。 「お前こそ……どうなんだ」 ためらった気がした、レイの声が。聞いてはならないこと尋ねる恐れではなく、聞きたくないことを聞かざるを得ない、そのためらい。エドガーにはそう聞こえてしまった。 「体使う職はもてないって相場が決まってる」 肩をすくめてなんでもないことのように。こうして遊んでいるのも、本当は不思議なのだと言わんばかりに。 伝わったのだろう、腕の中のレイが黙った。それが惜しい、否、怖い。レイはまさかとは思う。けれど。 「だったら、そんな男を遊び相手に選んだ僕は趣味に問題がある、ということか」 笑い飛ばしたレイがいた。引き攣ってひび割れて。それでもエドガーには他に何が言えただろう。本気になるつもりなど、更々ない。いまは。 「それ言ったらな、俺だってどうなんだよ?」 「僕は見た目だけは褒められる」 「自分で言うな」 腕の中で肩をすくめていた。からかってしまってから、いまのは違う、そう思う。見た目だけではない、体だけでもない。こうしていることが本当に楽しい。そう言ってやればよかった。そう思う。自分で何を考えているのか、わからなくなりながら。 「泊まってくんだろ?」 何気なく、言えただろうか。レイが驚いて見上げてきたから、たぶん言えていたのだろうとエドガーはほっとする。 「まさか。帰る」 「だってな――」 ちらりと窓の外を見やる。ここがどこかを問うように。レイはそれでも気づかなかったらしい。 「あんたな、考えろよ? ここは菫館じゃないんだぜ? 夜中にうろうろしてたら兵に咎められるぞ」 「あ――」 「気がついてなかったな?」 「……夜になって敷地内を歩くことは、滅多にしないから」 当然ではある。それをなぜかレイはためらいの後に言う。普段ならば訝しいと思うはずだったのにエドガーは気づかなかった。 「兵が、いるのか?」 尋ねられて、苦笑する。室内派の書記殿は早くに眠ってしまうのだろう。夜間巡回をする警備兵の存在など知りもしなかったらしい。 「そりゃ、そのためにいるんだしな。常日頃、訓練してるのはなんのためだと?」 「それは……なにかあったときの」 「だから、夜中になんかないかどうか、警戒してる」 ちらりと笑うエドガーの笑い声を胸の響きに聞いたのだろう、レイが顔を埋めてきた。己の無知を恥じるように。その姿に鼓動が跳ねあがる。慌ててゆっくりと呼吸をした。この弾みを、気取られたくはない。 「ま、だからな。朝帰りの方がまだ目立たないと思うぜ」 「僕がか? 似たようなものだと思うがな」 「あれだよ、早朝の散歩だとでも思ってくれるさ」 ひょい、とすくめた肩の動きにつれて、レイをきつく抱きしめる羽目になった。嫌ではない。むしろ、心地よい。そう思うのが、怖いからこそ、無造作にしたくはなかったというのに。 「散歩か……。なるほど」 呟いているレイの声。胸の中を通って直接体中にとろとろ響く。レイに満たされて行く。エドガーは咄嗟に彼を押しやって、体を起こす。 「モーガン?」 「――そういや、甘いもんがあったんだ。食わないか?」 「甘いもの? お前が? 意外だけれど、ありがたいな」 菓子は好きだ、と口許がほころぶ。子供のような、無垢とは縁がないような、言葉にはしにくいレイの笑み。エドガーは背を向けて逃れていた。 「……なにやってんだ、俺は」 隣室で長々と息を吐く。背後の扉を閉めた後のこと。自分で自分が何をしているのか、よくわからなかった。 がりがりと頭をかきむしる。苛立ちなのか羞恥なのか、それすらもわからない。気づけば自分の手を見ていた。 先ほどまで、レイを抱いていた手。レイの髪の感触がまだ残る手。あ、と思ったときにはそこにくちづけている有様。さすがに目を覆った。 「どうしちまったってんだ、まったく」 再び嘆息し、エドガーは夕食に入っていた菓子を手にとって寝室に戻っていく。扉を開けて、息を飲みかける。寝台の上、レイが半身を起こしてこちらを見ていた。はだけた服の隙間から覗く肌が、眼差しが。ほんのりと開いた唇まで。エドガーは強く首を振る。 「どうかしたか?」 自分では気がついていなかったのだろうレイが不思議そうに首をかしげた。できるだけ何気なく、と心しながら寝台に上がれば、すぐさまレイが寄り添ってきた。 「すっげー色っぽくてな。ぞくっとした」 からかうようにエドガーは言う。冗談に紛らわせなかったら、たぶんいますぐ押し倒す。それを感じ取ったのだろうレイがじっと見上げてきた。 「したかったら、拒みはしない。そもそも、だから来たんだし」 「疲れてるって言ってただろ。無理強いするのは趣味じゃない」 「でも」 「遊び相手とは充分楽しんでこそ、だろ?」 ただ、それだけだ。気遣いでも心配りでもなんでもない。仄めかせば仄めかすだけ、自分でも信じがたくなってくる。それをどう解釈したのかほんのりとレイは笑っていた。 「ほら」 その手に菓子を押し込んだ。二つあるうちの一方は、いまだ自分の手の中。もてあそびながらレイに促す。 「お前がこんなものを買うというのは、ちょっと信じられないな。あぁ……誰か口説こうとでも?」 女性は甘いものが好きなものだし。独語するレイはわずかに視線を下げていた。その黒髪だけを眺め、エドガーは微笑む。いまは目が合っていないから。気づいたときにはそらしていた。 「馬鹿。晩飯につけてくれんだよ、料理長が」 自分の指がレイの頬をつついている。信じられないものを見たとばかりエドガー自身の目が丸くなる。それを見たレイまでも、笑っていた。 「気に入られてるんだな、お前は」 「なにが? 誰に?」 「だから、料理長に。普通は食事に甘いものなんかつけてくれない。僕らだって祝祭日でもない限り、口にしないし」 「そう……なのか? あれだろ。たぶん、俺らは体使うから。疲れると甘いものが欲しいだろうって、そういうことだろ」 「なにを慌ててるんだ、お前は?」 くつりとレイが笑った。それからわずかに菓子を掲げ礼に代える。そんな生真面目な姿にエドガーはかえってほっとした。そこにいるのは、あの書記だと。 「あ、旨いな」 思わず零れてしまった、とでも言いたげなレイの声。ひどく無邪気に聞こえて驚く。本当に旨かったのだろう、もう一口、と大事そうに齧っている。それにうっかりと目を細めてしまった。 「なにが言いたい」 視線に気づいたレイがむっとしながら言い返す。笑いだすエドガーは、これならば冗談の内だろうか、そうでもないかと内心に言い訳をしながらレイをぎゅっと抱きしめていた。 「ガキみてぇ。すっげー可愛い」 「うるさいな。甘いものなんて、滅多に――。なに?」 「どうした?」 「いま、その、何を……」 戸惑われて、頬を染められて、エドガーこそ狼狽する。何を言ったか、と問われても二度も繰り返せるものか、とそっぽを向いた。 「お前は――」 体ごとそむけたエドガーの背、レイが頬を当てていた。そっと胸にまわってくるレイの腕。鼓動が聞こえてしまうではないか、内心での文句が届けばいいのに。思った途端、伝わってはそれこそ困る、と慌てる。 「俺はなんにも言ってない!」 レイが言葉を続けようとした。咄嗟に振り返ったエドガーは自分の分の菓子をレイの口に押し込む。聞きたくなかった。聞くのがどうしても、怖かった。 「もったいない、せっかくの菓子なのに」 不満そうに言い、レイは唇を舐める。そこにある甘味をもう一度と。気づいたときにはエドガーは彼にくちづけていた。菓子の香りと、蕩けるようなレイの唇。どちらがより甘かったのか。腕の中で骨を失くしたよう溶けて行くレイの体をしっかりと抱いていた。 |