愛だとか、恋だとか。たぶんきっとそんなものではない。ならばなぜ、自宅に呼んだ。エドガーの脳裏に疑問が浮かび、自ら答える。あまりにも即物的な回答を。 だからこそ、黙ってマントを壁の鉤にかけていた。いま何かを言えば、何かがあふれてしまう、そんな気がする。それが何かわからないままに。 「そう言えば、お前には家があったんだな」 まるで独り言のようなレイの声。振り返るでもなくエドガーは肩をすくめる。それで返答になるとばかりに。 「都合はいいか」 ぽつり、続けたレイの声。振り返るまい、と思っていたはずなのに、なぜかまた向き合っていた。おまけに頬へのくちづけなどという恥ずかしいことをしでかした自分までいる。 「なにもわざわざ毎回菫館で会うこともないだろ?」 「確かに。それなりの出費だからな」 「意外だな」 当たり前に会話する自分ではない自分。自分の中から新しい自分が乖離していくような奇妙な感覚。嫌ではなかったが、不思議ではあった。 「どこがだ?」 それこそ不思議そうにレイが首をかしげている。そんな仕種をすれば不意にあどけない顔にもなる。それが驚きだった。 「けち臭いって言われるかと思ってたよ、俺は」 快楽の館で部屋を借りれば、それなりの額がかかる。書記にしても指南役にしてもある意味では特殊技能の所持者だ、侯爵家からは破格とまでは言わないがけっこうな給金を頂戴している。とはいえ、散財し続けられるものでもない。 「誰が言うものか。僕はともかく、お前には痛いだろう?」 気遣われて、ぎょっとした。息を飲んでしまったのにレイが苦笑している。詫びるよう、そっとくちづければ甘くかすかな吐息。 「指南役というのは、ずっと続けられるものでもないんだろう?」 「それは人によりけり、かな?」 「前任者は――」 「いい年だったらしいからな。だから引退したんだろうさ」 自分はまだ充分に体を動かすことができる年齢だ。エドガーの言葉にレイが顔を顰める。そういうことだったのか、と納得したような顔だった。それでレイは前任者と直接の面識がなかったのだ、とエドガーも察する。レイの若さを考えれば当然のことでもあった。彼はせいぜいまだ二十代半ばに達していない程度だろう。思えば単純な年齢差で言えば若いと感じるほどではない。けれどちょうど若さと成熟の境にあるような年齢差でもあった。 「お前は幾つになるんだ?」 聞きにくいことをはっきりと聞く男だな、と思えば苦笑が深くなる。が、特に何か色がついている質問でもない。おかげで嫌な気分にもならなかった。 「そういえば三十の声を聞いたっけなぁ、くらいかな」 ぼかしたのは答えたくなかったのではなく、はぐらかすことに楽しみを見出したせい。レイの眼差しだけが、不満そうなものになり、次いでほんのりと微笑む。 「意外と近い年齢だったんだな」 「そうか?」 「お前は僕を幾つだと思ってるんだ。近いに決まっているじゃないか」 わずかばかり唇を尖らせたレイ。たぶん冗談だろう。少なくとも近い、と言うほどではない、とエドガーは見てとる。そのエドガーの表情にレイがにやりと笑った。はじめて見た、そう思う。それが戸惑いと緊張を更なるものにした。こうやって馴染んでいく。それが、怖い。 「まだ十代かと思ってたぜ」 鼻で笑って冗談を言えば掴みかかってくるレイがいた。戯れに、レイの心安さを見てしまった。その漆黒の目に、飲み込まれそうな恐怖。不意に気づく。 「綺麗な目、してるよな。ガキの目だ」 恐怖は執着の裏返し、否、同義。レイが欲しくなる。離したくなくなる。それが、怖い。エドガーの内心など知らぬげにレイは顎を上げていた。 「そういうことを言う方がよほど子供だと思うがな!」 どうだとばかりに見上げてくる夜の眼差し。満天に星が輝くよう、煌めくレイの目。その瞼にくちづければ、小さく笑う。 「あっち行こうぜ」 耳元で囁いて、誘った。ここまで来ているのだから、拒むとは思っていない。当たり前のよう、首に投げかけられた腕にエドガーは驚く。だがそれ以上にレイ本人が驚いていた。 「あ、……いや」 まるで己の失敗を隠そうとする仕種。黙って引き戻そうとした腕に、エドガーは笑う。優しくはなく、かえって獰猛なほどに。 「モーガン?」 少しばかり身を離していたレイを一度ぎゅっと抱いた。それにどうしてだろう、こんなに彼が安堵するのは。いまはその不思議さを横に置き、エドガーは彼を抱き上げる。 「おい!」 「おとなしくしてないと落とすぜ? と言うか、そのつもりだったんだろ、違うのか?」 だから腕を投げかけてきたのだろう、そう言ってみせたエドガーにレイは無言。それからゆっくりとうなずいた。 与えてくれた理由に感謝する、そんな顔をしていた、レイは。その顔を見られるのを嫌がったのだろう、首筋に押しつけられたレイの顔。耳元で呼吸が聞こえた。少し、荒い。何かを押し込めて、じっと耐えている彼の呼吸。 尋ねては、ならないだろうなとエドガーは思う。レイと自分は単にこうして寝台を時折共有するだけの仲でしかない。心のやり取りを伴う恋人同士ではない。ならば、立ち入ったことを尋ねるのはかえって礼を失する。 礼儀云々を放り投げてもかまわなかった。ただエドガーは怖かっただけだ。それを自分で知っている。何かを尋ねてしまうことで、決定的な何かが変わってしまう、それが。あるいはわからないことが怖い。怖いことだらけで、埒が明かない。内心で苦笑できる程度には、まだ余裕があったけれど。 寝室の扉を蹴破れば音に驚いたのだろうレイが身をすくめる。詫び代わり、黒髪にくちづけた。ほんのりとインクの匂い。書記に染みついた匂いだ、とエドガーは思う。 寝台の上、おろせば興味深そうに室内を見ていた。取り立てて何があるわけでもない部屋だった。それでも。 「あんまり見るなよ、恥ずかしい」 「ずいぶん……きちんとしていると思って見ていた。意外と言うならば、お前の方がずっと意外だ」 「そうか? 傭兵隊なんぞにいたことがあるとこんなもんだと思うぞ?」 そういうものか、と首をかしげているレイは当然にして戦闘経験など皆無だろう。むしろ剣を握らせればきっと己の爪先を切るに違いない。 「整理整頓はどこの隊でも叩きこまれるからな。だいたい、たいていは同僚何人かと同室だしな」 隊の中でも地位が上がれば個室をもらったりもする。あるいは隊の事情によってははじめから個室であることもあると聞く。が、多くはやはり、数人で一室が普通だった。 「どんな風になっているんだ?」 隣に横たわり、腕を枕に差し出せばほんのりと目を細めたレイ。こうして話していたいらしい。付き合うのが、エドガー自身、楽しい。 「普通はそうだな……。三人か四人くらいで一部屋だな。部屋にはほとんどベッドだけ。物入れがあれば御の字。壁に棚が作りつけてあって、そこに鎧を乗せたりできるようになってる」 「他の、私物の類はどうするんだ?」 「あんまり持たないからな、傭兵は」 肩をすくめれば、動きに連れてレイの頭もまた動く。ずれてしまった頭を直してやりながら黒髪を指で梳く。しっとりと快い髪の手触りだった。 「ベッドの下に箱突っ込んで放り込んどく程度かな?」 「――似たようなものだな」 「うん?」 「僕らの部屋と、同じようだなと思って」 レイはもちろんこの敷地内に住んでいる。侯爵家の使用人はほとんどそうだ。 「本館の裏手に、あるだろう?」 エドガーと違って書記はいつ何時主人からお呼びがかかるかわからない職種だ。だから彼らは主人一家が住む本館に部屋がある。同じ本館とはいえ、格段の差があるのは当然にして。 「あぁ、訓練所の近くだよな?」 日常、自分が去来していたのはレイの部屋の側だったのか、と思うとなぜか新鮮な気がした。本館の裏手は人目にさらされる場所ではない。表のよう華麗な花々が咲き誇るわけでも閑静な木立があるわけでもない。警備兵の訓練施設があるのもそのせいだったし、料理人が菜園を作っているのもそのあたりだ。 「時々、窓から夜間訓練が見えていた」 「へ?」 「突然、たいまつの明かりが列になって見えたら普通は驚いて窓の外を見る」 確かに、と納得してエドガーは笑いだす。窓に寄りかかったレイが、密やかに自分を探して見ているなど、想像した自分自身に笑ってしまうではないか。 「僕も同僚三人と同室だから。やっぱりベッドの下に私物はある」 同じだ、と呟くレイは何が言いたいのだろうか。およそ私物などその程度のものしかないだろうし、そのあたりにしか置きようはない。ただそれだけなのに。 「大丈夫か?」 ふと気づいた。レイは部屋を抜け出して、いまここにいる。同僚三人は、レイの不在に気づいているはずだ。それに彼は無言で肩をすくめた。 「書記は人気職種だからな」 「――と言うと?」 「同室の彼らもほかの同僚も、不在であるのはよくあることだから」 同じ召使の中でも、書記は安定収入が見込める。万が一、侯爵家を辞したとしても、いくらでも仕える先はあるし、宮仕えに懲りれば街で代書屋を営む手もある。 「確かにもてそうだ」 「そうだ、ではなく実際にもてるぞ?」 「あんたも?」 すぐそこの黒い目を覗き込む。そらされるかと思った目は濡れ濡れとエドガーを見つめる。負けた、心に呟いてくちづけた。その唇に感じるレイの微笑み。 「笑ったな?」 「悪いか?」 嘯くレイに、何かを言いたいような気がした。それでもまだ、ためらう。そもそも何を、言いたいというのか、自分は。だから抱き寄せた。言葉の代わりに、体を。 「……なんだか」 呟いてしまってから、迂闊にも言葉が漏れてしまったとレイが途中で止めた。息を飲み、唇を噛んだ気配まで伝わってくる。 「今夜はこのままの方がいいよな、なんだか?」 体を求めあうより、ただこうして抱き合って、他愛ないことを話していたい。からかうように言ったエドガーを覗き込んだレイの目が丸くなっては笑みの形に崩れていった。 |