タングラス侯爵家の武術指南役はなにも侯爵家の貴人に指導をするだけが仕事でもない。日常の任務としてはむしろ警備主任と言ったほうが正しい。 だからエドガーの午後の訓練、というのも侯爵家の人々へのそれではなく、侯爵家の警備担当者たちへのものだった。もちろん彼らは一朝事あらば私兵ともなる。その万が一の事態を想定して日々の訓練をするのが目下エドガー最大の仕事、というわけだった。 「指南役はどちらに?」 警備隊長の恭しいとも言える態度がエドガーの侯爵家での地位を示す。こちらは傭兵上がりなんだが、と思っても言うに言えないエドガーだった。 「もしよかったらご一緒に?」 兵の詰所で夕食に誘われているのはエドガーにもわかっていた。ありがたいことだ、と内心で呟く。貴族の私兵は元々先祖代々仕えているものばかりだ。そこに入り込むことになる武術指南役は風当たりが強い、とも聞いていた。 もちろん、就任当初はそれとない嫌がらせをされたものだったけれど、いまでは人柄も腕の方も認められているらしい。 「ありがたいが。申し訳ない、先約があるんだ」 「とんでもない。では、またの機会に、是非。部下たちも指南役のお話を伺うのを楽しみにしていますから」 傭兵時代の与太紛いの小話を酒の席で話したことがある。どうやらそれを言われているらしかった。もしかしたら、そのようなところを買われたのかな、と思えばどことなく面白くもなる。 そんなことを思いつつエドガーは片手を上げて歩き出す。背中を隊長の敬礼が追っていた。なにとはなしにくすぐったく、居心地が悪いような嬉しいような。 「ちょうど、そんな気分だよな」 落ち着かない。楽しみ。興味深い。戸惑い。様々な感情が混ざりあっていて、今こう、と思った次の瞬間には違うことを考えている。 「ま、悪くはねぇな」 嘯く自分の口許が笑っているのをエドガーは感じていた。そのままゆったりと歩いて行く。エドガーの足はさすが指南役に任じられた、とでも言おうか。のんびりしているようでいて、速い。 その足取りのまま、広大な敷地内を歩いていた。兵の訓練所はタングラス侯爵邸のちょうど裏手に位置している。ここから正門にまわるとなれば、正直に言って馬が欲しい。 あるいはそれが王都の屋敷と領地の屋敷、最大の差なのかもしれない。タングラス侯爵家は、中でも広いほうだと言う話だった。 侯爵家の所領はミルテシアの中央部を貫く大街道沿いにある。北からはイーサウの鉄鉱石にシャルマーク産の薬草類、東は海からの街道の終着点ともなっていることから、海産物が、西はラクルーサからの輸入品が。様々な物産の交易地になっているのが、ここグラニットの街だった。ミルテシアでは王都に次いで大きい、と噂だ。 「もらっていきますよ」 一声かけた相手は侯爵家の料理人。裏口から入った先はもちろん厨房。夕食の準備に追われている料理長が額からだらだらと汗を流していた。 「あいよ、ご苦労さん」 もしも侍女頭にでも見つかれば料理長は大目玉だ。が、エドガーはそんな態度こそが好ましい。軽く片手を掲げて礼に代える。 料理長が用意しておいてくれたのは、エドガーの夕食だった。籠に入った中身は焼きたてのパンに炙り肉、小さな菓子が一つか二つ。それに葡萄酒の小瓶が一本。召使の食事と大差ない。 「お、旨そうだ」 が、エドガーにはこれで充分だった。温かい食事、というだけで涙が零れそうなほど嬉しかったのを思い出す。傭兵時代には軍用携行食を土砂降りの中で齧ったことも多々あるエドガーだ。しかもそんなものすら至上の美味と感激して笑われたこともあった。とても武術指南役が口にするものとは思えない、どれをとっても。 本来、武術指南役は領主の食卓につくこともできる地位だった。もちろんエドガーも侯爵閣下がおいでのときには喜んで招かれる。 「あれがな……」 連想に、呟いてしまって顔を顰める。グラニットの領主館に、侯爵は不在だった。エドガーを指南役に据えた侯爵は王都で国王の傍ら、内務卿として職務に励む毎日、と聞く。 よって、この領主館を裁量するのはもちろん現当主の嫡子であるところのチャールズ卿だ。これがまた、出来が悪い。途轍もなく、悪い。 領民を搾取する、暴力事件を起こす。たとえばそんなことでもあれば当主が戻って雷を落とすのだろうが、単に遊びほうけているだけとあっては侯爵も頭を抱えるのがせいぜいだ。腕の立つ武術指南役を据えたのも、これで嫡子が目を覚ましてくれたならば、という涙ぐましい親心でもある様子だった。もっとも、指南役に過度の負担を強いるべきではないと思うのか、侯爵自身から嫡子の矯正を依頼されてはいない。あるいは依頼があったならばエドガーは指南役の職を断っていたかもしれない。 チャールズは、ミルテシア貴族の若い貴公子としてあるべきようにふるまっている、つもり、らしい。それがまず、似合わない。遊ぶには遊ぶなりの作法というものがある。それを尽く外して、しかも本人は遊び人を自任しているのだから始末に悪い。 「また顔がなぁ」 顔で領地経営をするわけではないのだから、いずれはよい領主になるのかもしれない、とエドガーは漠然と思わないでもない。現当主もかつては貴公子として遊び耽った、とも仄聞する。 けれどチャールズは、その顔が自分で気に入らない、という悪癖があった。確かにミルテシア貴族としては武骨に過ぎる顔立ちだ。もっと優しげで一見女のように見えてなお男らしい、というのがミルテシア貴族の理想、と言う。チャールズは完全に逆を行く。 「どうなることかね」 チャールズが当主の座についたときには、自分はとっくに引退しているだろうから、エドガーの懸念は噂話に興じているのと大差はなかった。 「ただいま」 つい、言ってしまう。そして毎日、苦笑してしまう。そうこうするうちに着いたのは、自宅。侯爵家の敷地内にエドガーは小さな家をもらっている。前任の指南役も使っていた、と言うから代々ここが指南役の家となっているのだろう。居間に寝室程度の、ほんの小さな家だ。それでも自分の住処、と思えばほっとする。 「さて、と」 ここで困った。食事を済ませてしまえば、あとは待つだけ。その待つ、というのが苦手だ。行軍中、あるいは作戦行動中ならばまったく気にかからない。そういうものだと思っている。けれど。 「手持無沙汰ってのをはじめて知ったぞ、俺は」 むう、と唸ってパンにかぶりつく。炙り肉は相変わらず旨かったし、葡萄酒のほうは侯爵家が買い付けているものだ、まずいはずがない。 「……とっとくか」 やはり小ぶりの菓子が二つ、入っていた。体を使う人間は甘いものも欲しがる、との心遣い。ありがたいのに、くすぐったい。その菓子をエドガーは手の中で弄び、昼間のことを思い返していた。 あれ以来、何度かはレイに会っている。会ったのはやはり菫館。ならば会うだけで済むはずもない。少しずつほぐれて行く表情や、それ以上に慣れて行く体に戸惑いを覚えていた。 「なんかな」 胸に手を当てれば、しっくりとしているとしか表現のしようのない肌の感触を思い出す。柔らかな黒髪が、自分の胸の上に乗っていることも、思うともなく思い出してしまう。 どうしようか、そう思いつつエドガーは書記室へ。一応は部下に当たる警備兵たちの考課表の提出だった。エドガーのそれは、純粋に武器防具の習熟度に関してのもの。他の要因は警備隊長がすることになっている。 「今回の分だ。よろしく頼む」 書記室の中は相変わらず静かで、インクの匂いだけが漂っている。書類の束を差し出せば、レイがす、と目を上げた。インクより黒々とした彼の目。一瞬ならず息を飲む。 黙ってレイが書類に視線を落としていた。普段通りの彼の姿。淡々と書類を繰り、不備がないか確かめる。たとえエドガーが間違ったことは一度もないとしても。そしてふ、と眉が顰められていた。最後の一枚に潜められた一葉の紙片。 ――今夜、俺の自宅へ。 それだけを書いたエドガーの私信。読まれる、と思うだけで鼓動が跳ね上がる。即刻奪い取って逃げ出したくなる。書いたのは自分だというのに。 「……わかった。ここに署名を」 あまりにも普段通りの態度で、エドガーは無視をされたのかと思ったほど。かすかに顎を引いたのがレイの目に映ったのだろう。 「了解した、と言っている」 同僚に聞こえないよう、小声でもう一度言った。あっと息を飲みそうになる。笑いだしそうになる頬を叱咤して、エドガーは書類に署名をしていく。弾まないよう心した足取りに、自分の浮かれ具合を思う冷静な部分。 「俺はあいつか」 冷静なのはレイの方。顔色一つ変えずに逢引きを了承してくれた。それがどことなくおかしくて、人気がないところに行くや否や笑いだす。 それが午後のこと。さっぱり気持ちを切り替えて訓練に励んだものの、機嫌の良さは隊長にも伝わっていたらしい、といまになって気づく。ふと苦笑したとき、扉が叩かれた。 「……よう」 開けたそこにレイだろう人影。黙って滑り込んできてはフードを外す。ようやくほっとした、そんな顔をしていた。 「雨でも降っていたか?」 ちらりと窓の外を見やればとっぷりと陽も暮れている。が、雨は降っていない。さすがに訝しい思いを隠せないエドガーにレイは肩をすくめていた。 「お前は考えなしだな」 「そうか?」 「武術指南役と書記が逢い引きだぞ。見咎められたらどうする。僕は職を失いたくない」 そう言いながら少しばかり楽しげな声をしていた。気持ちが弾んでいるのは何も自分だけではないらしい。そう思えばほっとする。 「逢い引きなぁ、逢い引き。妙に恥ずかしい言葉だと思わないか?」 背後からフード付きのマントを脱がしてやりつつ耳元で言えば、かすかに身をすくめた気配。そのまま抱きしめれば、安堵の吐息。胸の前にまわってきたエドガーの腕に触れ、レイは小さな溜息をつく。 「あんなやり方で持ちかけてくる男に言われたくはないな」 首だけ振り返ったレイの目が、目だけが笑っていた。綻んだ唇には相変わらず色がない。それでも誘うようわずかに開く。軽く吸えば、それだけでレイの体から力が抜けて行くよう。 「とても驚いた」 「そうは見えなかったけどな」 「周章狼狽していた、と言っている」 「絶対見えなかった、と言ってんだ」 互いに言い合い、同じようむつりと口を引き結ぶ。こんな他愛ない言い合いができるとは思ってもいなかったエドガーは新鮮で、同時に少し、怖かった。 「レイ」 預けてくる体が。求めてしまう体が。日を追うごとに自分に馴染む。それが怖いのかもしれなかった。 |