木蔦の家

 弾んだ呼吸が平静に戻っていく。一息入れてエドガーはレイを腕に抱いた。それに訝しげな声が返ってくる。思わず上がってしまった、とでも言うようなそれにエドガーこそが訝しい。
「どうかしたか?」
 腕を枕にレイがこちらを見ていた。しっとりと濡れた黒い目がまだ快楽の余韻を残しているようで、また煽られそうになってしまう。
「……いや」
 ただそれだけを言ってレイは目をそらす。なんだったのだ、と首をかしげながら何気なく抱き寄せれば、しばらくしてからおずおずとしたレイの腕。ためらいもあらわに胸に乗せられたそれにエドガーは小さく微笑んでしまっていた。
「終わったあとって眠いよな?」
 話しかければ、ひくりと痙攣した気がした。かすかに握りそうになったレイの拳。強いて抑えたのだとエドガーは見て取る。
「当然だと思う」
 まるで書類の不備を指摘する声。ここに署名を、書記室でそう言うときの彼に酷似していてエドガーは今度こそはっきりと笑った。
「なにかおかしいか?」
「相変わらず冷静そのものでいらっしゃるな」
「貶される謂れは――」
「貶してない。からかってるだけだぜ?」
 それに不満そうに鼻を鳴らしたレイ。けれど何かにレイが驚いたのがエドガーにはわかった。背の強張りに、気づかないふりをして悪戯をするように撫でる。まるでまだ熱が冷めないのだとでも言うように。
 細く細く息を吐くレイにエドガーはほっとする。あまり緊張してほしくはなかった。なにも優しい心遣いからではない。単に仕事相手と話している、という気分になりたくないだけのこと。せっかくの快楽の余韻だ、せめて十全に味わいたい。
「ほんっと……眠いわ」
 ふわ、と大きく欠伸をする。礼儀正しい素振りとはかけ離れたそれにレイがかすかに笑った気がした。胸の上に置かれた手は、いまはくつろいでいる。レイの手のぬくもりに、奇妙に優しい心持ちになっていた。
「失礼だぞ、お前は」
「知ってるよ。所詮、剣を振り回すしか能がない野蛮人なんでね」
「武術指南役というのは家中でも充分に重んぜられる地位だと思うが」
「所詮は傭兵上がりさ」
 なんでもないことのように言うのは、本気で気にしていないせい。肩をすくめた拍子にレイは頭の位置がずれてしまったのだろう、何気なく元に戻していた。それからそっとエドガーを窺う。咎められないか、と窺うようだった。内心での訝しい思いを顔に表さず、エドガーは悪戯にくちづける。
「よせ」
 ちゅ、と音を立てたくちづけに、レイの頬が仄かに赤らんだ。薄暗い明かりの下でもけばけばしく映る快楽の館の室内。その中にあるのが相応しくないほど、清楚な体。
「このままあんた抱いてると寝ちまいそうだ」
 頭を外すのは、だからそれだけだ。嫌がってでも咎めてもいない。無言のうちに通じるような気がして、通じさせたいと思うことがまず訝しい。
「それは、困るな」
「だろ?」
「書記と武術指南役が揃って朝帰りか? 醜聞沙汰だな」
 寝台に横たわったまま、レイが口許だけで笑う。自らを嘲笑ってでもいるようだ、思ってしまったときには腕を引いて立たせていた。
「モーガン?」
 不思議そうな、何をする気なのかわからない。そんな不安のある声。そしてそれを隠したがっている彼の声。
「待ってな」
 そのままエドガーは寝台の傍らの小卓に歩み寄る。快楽の館には付き物の小道具の数々が最初の配置とは乱れて置かれてある。
 その中から彼は蓋つきの容器を手にした。二重になった容器の中身は、単純な湯だった。小さな盥に注げば、まだ充分に温かい。
「向こうむいて、壁に手をつく」
 言われたレイは何一つ問いただすことなく従っていた。まるで命令され慣れている、とでも言うように。
「あぁ――」
 驚きと、快楽の入り混じったレイの声。熱い湯にひたして絞った布で、足の間を拭っていた。いまは小卓にある香油の小瓶。中身はだいぶ減っていた。減った分が、レイのここに。
「よせ、モーガン……」
 首だけ振り向けたレイは、困惑に眉を顰めていた。その顔が信じがたいほど頼りなく見えてしまった。片手を壁につき、エドガーはレイにくちづけをする。それで安心させることができるなど、思ってはいなかったけれど。
「拭っとかないと、気色悪いだろ?」
 ただそれだけだとエドガーは笑う。香油は、ふき取るたびに新たな香りをかき立て、エドガーの、そしてレイの鼻先にまで香って来る。
「あ――」
 香りにだろうか、それとも温かい布にだろうか。あるいは、わずかに触れてしまったエドガーの指。身じろいで喉をそらしたレイのその姿。背後に立つエドガーからは、その滑らかな背の美しさだけが際立って見えていた。
「足を開いて。力を入れて」
 耳元で、わざと卑猥に囁いた。ひくりと身をすくめるレイだからこそ、いたぶりたくなってしまったのかもしれない。
「なにを……」
「綺麗にしとくんだよ、それだけだろ?」
 冗談のよう再び囁き、エドガーは彼の背後で笑みを刻む。行為の最中より、よほどそそられていた。眉を顰めたレイがかすかにうつむき、唇を噛んでいる。
「早くしろって。冷たくなっちまうぞ」
 冷えた布が内腿に当たって冷たいのはレイだろう、と。ただそれだけだと。そしてそれだけではない、とレイが充分に想像できるように。
「……ん」
 唇を噛んだレイの表情。行為の残滓を絞り出すレイの顔。見たくなってしまった。いまだかつて、わざわざ覗いたためしはない。どんな相手でも。さすがにそれは礼儀だろう、と思っていた。
「レイ」
 呼べば、驚いたよう首だけ振り返る。その隙を狙って内腿に触れれば、あ、と形作られた唇。耐え切れなかったのだろう、とろりとしたものが布の上へと流れだす。
「色っぽい顔するんだな、あんたでも」
 ぞくぞくとしていた。いま終わったばかりというのに、立ち上がりそうな自分を感じている。羞恥か、それ以外か、顔をそむけたレイだからこそ。
「よせ、跡がつく」
 首筋に顔を埋め、強く吸う。くちづけの跡を残そうと。咎めるレイだったけれど、押し退けはしなかった。
「見えない。平気だろ」
 ちょい、と指でつつけば、顔を顰められた。それにエドガーはす、と頭の中が冷えて行く。
「悪い。調子乗ったか?」
 偶々今夜は遊んでいただけであって、決まった相手がいないとも限らないと今更気づいた。もしもくちづけの跡を見られれば、レイは責められるかもしれない。
「いや……」
 目をそらし、レイは何気なさを装って、けれど動揺しているのが手に取るようわかってしまう。だからこそ、これ以上は問えなかった。
「いつも、こんなことを?」
 それはレイの心遣いだったのかもしれない。問いをためらうエドガーと察して、話を変えた。なんのことだと首をひねるエドガーに布を指で示す。
「笑うな。いやらしい目で見るな」
「まぁ、それは、なぁ?」
「モーガン!」
 レイにしては大きな声。くつろいでいる、とはっきりわかった。その最中こそ、声を上げて乱れたレイではあった。けれど呼吸と共に冷静さまでまといなおしたレイでもあった。いま少し、その装飾が剥げた、そんな気がする。
「こんなことって?」
 耳元で囁き、耳朶を唇で弄う。柔らかで冷たいそれが、食いちぎりたいほど快い。小さな吐息に、レイの快楽もまた感じる。
「布で……身づくろいをしてやったり……」
 耳を弄ばれているせいではない、ためらいだった。なぜかそれをエドガーは哀しいものとして聞く。裸のままの体を腕に抱き温めれば、戸惑うよう胸に寄り添う。
「終わったあとでもいちゃつくってのは、礼儀の範疇だろ?」
 それだけだ、無言のうちに言えばどうしてだろう。酷いことを言ったはずなのにレイがほっとするのは。それが悔しいほどに、切なかった。
 だからきっとたぶん、そのせい。普段は、そんなことはしたことがない。レイは、気づかなかっただろう。礼儀、といま口にしたのだから。
「ほら、手を上げろって」
 冗談のよう、服を着せて行く。脱がす方が好きだとぼやきながら、着せて行く。それに小さくレイが笑った。
「礼儀には、礼儀で返すべき――だろうか」
 首をかしげつつレイがエドガーの服を手にしていた。自分がしたいことをしただけだったエドガーははたと困る。
「固まるな。着せにくい」
 そう言われても、他人に服を着せてもらうのがこれほど恥ずかしいとは思ってもみなかったものを。そんなエドガーだと気づいているよう、レイは仄かに笑っていた。
「あんたな」
「なんだ?」
「……別に。けっこう笑うんだと思っただけだ」
「仕事中にへらへらできると思っているのか、お前は」
「ごもっとも」
 肩をすくめれば、それにくつろいだ表情を見せるレイ。服を着たばかりだというのに、抱き寄せた。また脱がしたくなるだろうな、と思いつつ。
「朝帰りになるぞ」
 耳元で、掠れた声が囁いた。レイもまた、望んでいる。否、からかわれている。ふ、と笑ってくちづけだけに留めておく。
「賢明だな」
「褒められている気がしないね」
「馬鹿のほうが生きやすい、とも言うしな」
 零れた自分の言葉なのに、レイは眉を顰めていた。まるで思い出したくないものを思い浮かべてしまった、そんな顔。
「――また、逢えるか」
 唐突とも言えるそんな言葉に、驚いたのはエドガー自身。レイもまた、驚いてはいたのだろう、瞬きをしている。それから少しばかり、目で笑ってうなずいた。




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