木蔦の家



 まさか、と思った。こんなところにいるはずのない人間を、見た。愕然としてエドガー・モーガンは立ち止まる。酔った男が邪魔だとばかり肩をぶつけて通り抜けて行った。それに正気づき、エドガーは席へと着いた。それでもまだ、ちらちらと「彼」を見やりつつ。
 彼は――レイは、こんな場末ぎりぎりの娼館にいるような男ではなかった。根本的にこんな館にいるような人間でもない、そうエドガーは思っていた。
 騒がしい酔客の声。酒を飲んでも上品に、など間違っても行かない客たち。いまでこそエドガーはタングラス侯爵家の武術指南役に納まっている。だが、元はと言えば傭兵稼業。たとえ娼館であったとしても、貴族が訪れるようなお上品な場所では落ち着けない。
 そしてここ、菫館はそんなエドガーの好みに充分に適う館だった。一階は当たり前の酒場を装っている。単に酒を飲みに来る客、というのも中にはいるらしい。無論、エドガーは買いに来る方だ。
 そもそもの目的を思い出し、辺りを見回す。専門の娼婦も男娼も、いくらでもいた。娼館付きではない、個人で稼いでいる女や男。それぞれが装いを凝らし、視線を流す。
 館には、客と娼婦や男娼以外にも、別種の人間がいる。ある意味では、同じ人間が。海を隔てた遠い南の国の姫君のよう口許をベールで覆い、目だけを婀娜に覗かせた貴婦人。逆に目許だけを隠す仮面をつけた端麗な貴公子。身分を隠し、火遊びに興じるミルテシアの高貴な人々。
「って言ってもな……」
 呟いてしまって、また視線がレイを追っていた、と気づいてしまう。レイはエドガーと同じ、タングラス侯爵家の使用人だった。武術一辺倒のエドガーと違い、彼は室内での仕事を専らにする。エドガーも読み書きができなくはないが、彼ほど流麗で素早く、しかも読みやすい字は書けないしそんな気もない。レイはタングラス侯が数多く召し使う書記の一人だった。
「なんでだ」
 部下の休暇申請や考課表、武術指南役ともなればいくらでも雑事がある。それも給金の内だ、と言われれば致し方ない。だからこそ、レイの顔を見知っている。大勢の書記の中でレイはさほど侯爵に重んぜられているわけでもないのだろう、武術指南役や倉庫係、料理人や庭番。それらの書類を一手に預かるのが彼だった。
 常に冷静なレイが、こんな場所にいる。肉体の快楽に無縁だなど、ミルテシア人として思ってもいない。ラクルーサならば話は違うのかもしれないが。だが、エドガーもレイもミルテシア人だ。
 だからと言って、娼館にレイがいる、というのは想像したことすらなかった。いまもただ、真っ直ぐと前を見たまま、客を待つ風でもなく少しずつ酒を飲んでいる。
「待ちあわせ――?」
 あるいは、とも思う。こんな場所だからこそ、密談や政治的密会にも好都合、とも聞く。エドガーはそんな場面に出くわしたことはなかったけれど、したり顔で語られている話くらいは聞いたことがある。
 首をかしげ、レイを見つめる。あまり外に出ないせいだろうか、日に焼けたことがないような白い肌をしていた。以前から思っていたけれど、白い額に漆黒の髪が柔らかにうねりながらかかるさまは純粋に美しいと思う。書記だからこそ許される、首にかかるほどの長さにした髪。ごく短く刈り込んだせいで栗色がわからないほどになってしまった自分の頭とつい、比べてしまう。
「あれでな」
 血の気が薄いせいだろうか、唇に色がなかった。ほんのりと、あるいは噛みしめたように赤いそれであったならば、この場にいる娼婦も男娼も商売あがったりだろう、自分の空想にエドガーは苦笑を漏らす。
 そのときだった。視線に気づいたのだろうレイがエドガーを見やったのは。そしてそのまま何も見なかったかのよう、視線を戻す。はっきりと目が合った、エドガーは確信していたというのに。
 だからかもしれない。黙って立ち上がり、酒を手にレイの所へと歩いて行く。じっとその前に立てば、無言で見つめ返された。
「座っていいか」
 尋ねれば、同じ無言が返ってきた。が、それを肯定と解釈しエドガーは席につく。それでもまだレイは淡々としていた。いつもと同じように。書記室で見かける彼と同じように。
「他の誰と会っても驚かなかったがな。あんたとここで会うとは思ってもいなかった」
「――そうか」
 短い返答。冷静そのものの、書記の特徴とも言える静かさ。こんな場所でそれを目にすることになるとは。
「待ちあわせか?」
 尋ねてはみた。が、違うと悟ってもいた。なぜかはわからない。けれどレイはただ誰と会う約束をしたのでもなく、ここにいる。そう感じるものがあった。
「違う」
 案の定の答えにエドガーはなぜか息をつく。ここで妙な誰かに因縁をつけられでもしたらたまらない。あとからそう思ったものの、そのときにはただほっとしただけだった。
「――お前はよくここに?」
 レイの質問に、エドガーは危うく酒を取り落とすところだった。書記としての彼は非常に無口で、仕事中に無駄話はおろか、雑談だとてしたためしがない。他の書記も同じながらレイだけ印象に残っているのはたぶん、彼だけが自分をお前と呼ぶせいだ。一口に使用人とはいえ、武術指南役は地位が高い。それがわからないほど愚かとも思えないレイだったし、咎めようと思ったこともなぜかない。そしてレイが同僚や上役から咎められているのを見た覚えもない。
「よく、と言うほどじゃないかな。稀、と言うわけでもないが」
「そうか」
「あんたは?」
 質問に答えたのだから、こちらの疑問にも答えろ。あえてそう言ったつもりはなかった。それでも無言になられると気持ちがささくれる。
「相手待ちか?」
 娼婦や男娼を物色している、とはどうしても思えなかった。自分好みの相手が見つかるまで、淡々と酒を飲んでいる人間もいないではない。けれどレイは違う。武術に通じた人間としての直感のようなもの、と言えば大袈裟に過ぎる。しかしエドガーは確信していた。
「違う」
「売るほうか」
「――それも、違う」
「だったら、なぜ?」
 畳みかけるように尋ねれば、ようやく視線があった。それまでそらされていたわけではない。ただ、合わなかっただけだ。レイはどこでもないどこかをひたすらに真っ直ぐと見つめていたから。
「お前になんのかかわりが?」
 これを侮蔑と共に言われたのならばいかにエドガーと雖もすごすごと引き下がるよりない。それなのにレイの表情には純粋な疑問。その、せいかもしれない。
「あんたは俺の着席を拒まなかった。何はともあれ、一緒に酒を飲んだ。この館の決まりを知らないとでも?」
 わざとらしく、酒を飲んでみせる。レイは変わらず冷静だった。
「知ってはいる」
「だったら合意に達したわけだ? そうだよな」
「――そういうものか?」
 これで少しでも不思議そうならば愛想があるものを、レイはいつもどおり。かえってエドガーが苦笑してしまうほど。
「そういうもんだな。合意なら、上がろうぜ」
 鼻を鳴らして立ち上がる。奇妙なほどに緊張している。否、奇妙でもなんでもない。いわば同じ侯爵家に仕える同僚だ、レイは。その彼を、こんな場所でこんな口説き方をするとは思ってみたこともない。むしろ、レイとそうなることを想像したこともない。
「わかった」
 淡々としたレイが立ち上がる。どうにもこれから一戦交える、という気分になりにくい男だとエドガーは思ってはまた苦笑する。
「モーガン」
 立ち上がったエドガーの掌に落とされたもの。半額の部屋代。少しばかり、エドガーは驚いていた。自分が買うのでも売るのでもない、その証として部屋代を折半にするのはよくあることではある。
 けれどレイは、なぜここの部屋代を知っていたのか、と思う。相場は確かにあるものの、きっちり半額だった。そもそもレイが相場自体知っていたとは思ってもいなかった。
「……あぁ」
 曖昧な返事だけと共に受け取って、女将に支払いを済ませる。金を払うときだけ愛想がいい女将、と評判の女はやはり、そのときだけ笑顔だった。それから笑みを惜しむよう真顔に戻り、部屋の鍵を滑らせて寄越す。
「お楽しみを」
 そんな顔で言われても萎えるだけ、とは菫館の常連のもっぱらの評判だった。もっとも、いまのエドガーはその気が半分、戸惑いが半分。女将の愛想の変化にも気を留めていなかった。
「待たせた」
 間が持てずに言えば、涼しい顔をしたレイ。エドガーより早く階段へと向かう。ためらいのない足取りは、この館がはじめてではない、と語っていた。
「……それほど待っていない」
 どうでもいい言葉への返答だった、としばらくしてからエドガーは気づく。それに妙な可愛らしさを感じた。小さく苦笑して、これならば役に立つかもしれない、と思う。先ほどまで、部屋に入ってもそうなれるかどうか不安だったが。
「念のために聞くけどな」
 部屋に入る時、何気なく並んだ。あまり立ち姿というものを見たためしがないせいだろう。ずいぶんと印象が違って見えた。
「あんた、どっちだ?」
 ほっそりとした体。室内仕事のせいだろう、鍛えたことなどないに違いない。しなやかな指は筆記用具を扱うためにあるのであって、エドガーのよう剣を振るうのではない。
「僕がどうのより、お前が下というのは考えにくい」
 わずかな苦笑めいた笑み。それだけで不意に生々しさを感じた。ここにある、生身の温かい体を。エドガーは黙って彼を引き寄せる。
 腕に抱いた体は思っていたより更に細くてぎょっとした。きつく抱けば折れてしまいそう、などというものを男の体で体験するとは。
 わずかに腕を緩めれば、やはり苦しかったのだろう、レイが小さく息を吐く。再び吸った息を見計らって、唇を重ねた。
「ん――」
 抗うような、さらに求めるような、絶妙な呼吸。駆け引きとは思わない。天性ならば恐ろしい。自分の体が目覚めて行くのをエドガーは如実に感じた。
 もつれ合っては寝台に押し倒す。重みを感じたとき、かすかな声が聞こえた気がした。安堵のような、嫌悪のような。知らずまじまじとレイを見つめる。
「眺めていて、楽しいか」
 疑問の形を取った冗談だ、と気づくのにしばらくかかる。音を立ててくちづけた。
「わかりにくい冗談だな」
「そうだったか」
「というより、あんたも冗談を言うんだな」
「僕をなんだと思っている」
「完全無欠の冷静な書記殿」
 からかう口調にレイが顔を顰めた。この男にも感情があったのだ、とエドガーは改めて馬鹿なことを思う。ないはずはないというのに。
「この状況で口にするべき言葉とは思えない」
「その辺が生真面目な書記だって言ってるんだけどな」
 言いながら、服の裾をまくり上げては手を滑り込ませる。戸惑いよりかすかな吐息。充分に他人を知っている肌だとエドガーは悟る。さほど嫌な気分でもなかった。初めての相手になるのはごめんだったし、慣れてもいない行為の相手をさせられるのも面倒だった。
「真面目な書記は、こんな館には来ない」
 髪同様、濡れ濡れと黒い目がエドガーを見つめた。蕩けそうな目、と言うのはこんなもののことを言うのかもしれない。そっと瞼にくちづける、などと言う甘ったるいことをしたのはきっとそのせいに違いなかった。
「せっかく来たんだしな、せいぜい楽しめよ」
 いかにもこんな館では遊び慣れている、そんな態度を取った自分が訝しい。組み敷いたレイは少しも気づかなかったようだったけれど。
「せいぜい楽しませてみせるんだな」
 その悪戯のような発言が、レイの声でなかったならば幻聴だ、と断言するところだった、エドガーは。思わず見つめてしまってから、手が止まっていたのに気づいては苦笑する。
「努力するよ」
 これではどちらが生真面目なのかわからない。笑ったような声が聞こえた気もした。けれどたぶん、気のせいだろうとエドガーは思う。
 服を剥ぎ取ったレイの肌は透き通るように美しく、エドガーの知らない甘く官能的な香りがした。




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