取り繕うようエルサリスが咳払いをしていた。そんな姿が懐かしく、だからこそラクルーサ王が許し難い。平穏に暮らしていた、すでに魔力もなにもないエルサリス。言いがかりで彼の平穏は奪われたと思えばこそ。自分が追放されたときには衝撃だけがあったものが、エリナードはいまこそ強い怒りを感じる。同時に、不安も。
 ――師匠。
 大丈夫なのか。無事でいるのか。尋ねれば間違いなく案ずるな、と返ってくる。わかっているから問えない。いまはただ、自分にできることを。
「そうだ、エリナード」
 年を重ねて少し太くなったエルサリスの声。それでもやはり優しい彼の声。あのころを思い出せば、温かい思いにもなる。
「うん?」
「これを、あなたに、と」
 エルサリスが隠しから指輪を一つ、取り出す。贈り物と言う体ではなく、カレンは首をかしげている。が、さすがにエリナードは悟るものがあった。
「あなたに、というよりイーサウに到着したら渡すべき相手がわかる、とオーランドからエルサリスが贈られたものですよ」
 カレンはオーランドを知っていた。元々彼女はミスティの下で修業に励んでいたこともあって、師の同期のオーランドとは接点があったのだろう。それでも訝しそうな顔をしていた。
「なるほどなぁ」
 苦笑と共にエリナードが指輪を受け取る。そしてわずかに瞑目するような仕種。ライソンは珍しいな、と思ってそんな彼を眺めている。殊、魔法に関して彼がそんな態度を取るのは珍しい。そして魔法と疑っていない自分が少し誇らしくなった。
「エルサリス、相談だ。お前が魔法に関係してるっぽいっていちゃもんつけられたんだよな? それ、確定にしちまってもかまわねぇか?」
「イアン様にご迷惑がかからない範囲ならば」
「私は一向にかまいませんよ。エルサリスに危険が及ばない限りは」
 互いに即答する彼らの、せめて今後の生活だけは守りたいとエリナードは思う。その心に触れてきたもの。
 ――師匠が矢面に立つってことじゃ?
 不安そうなカレンの声だった。自分でそれと気づいたのだろう、唇を噛んでいる。そんな顔をすれば彼らに気づかれるぞ、と目顔でたしなめたけれどすでに遅い。エルサリスに気づかれていた。
「俺が危ねぇんじゃって気にしてんだよ」
「それは……お弟子さんの懸念ももっともでしょう。あなたが危ない目に合うと知っていて……」
「気にすんな。俺はとっくに危ない橋渡ってんだ。ここで渡っといた方が後が危なくないってやつだな」
「エリナード。説明してくれた方がいいぞ? イアン殿は細かいことが気になる性質だし、エルサリス殿は優しい御気性だ」
「それでは私が神経質なようでしょう、セシル」
「おや、違いましたか?」
 からりと笑う母親に子供たちが小さく笑う。それをたしなめる父親、どこかで見たような景色だな、と思ってエリナードは内心で苦笑していた。
「要は王宮ですよ。俺がこっちで名前売った、だからイアン卿ご一家は巻き込まれた。だったらよけいに魔法だってことにしちまえばいいんです」
「してしまえば? 何をするつもりかわからないが……」
「常人風に言う、魔法みたいな出来事、が起きるってことですね。――魔術師を複数人、敵にまわすとね、自然の摂理を無視したようなことができますから。でもエルサリスにそれはできない。そんなことはあちらもわかってる。だったらやったのは誰だって話ですよ」
「エリン」
「ちなみにな、ライソンよ。俺一人でもできねぇからな? 魔術師にだってできることとできないことがある。これは普通に考えたらできないこと、だ」
 にやりと笑うエリナードにライソンは肩をすくめた。ここは任せた方がたぶん早い。いずれ止めようとしても止まる彼ではない。
「諦めのいい男ってのは好きだぜ?」
「自然の摂理をまるっきり無視するような男に惚れたんだからしょうがねぇだろ」
「まるっきり無視はしてねぇよ!」
「流星雨の召喚までしといてなにが自然の摂理だ」
 鼻で笑ってライソンはけれど楽しそう。魔法を恐れはしない、かつての誓いをいまも彼は守っている。
「お前、俺がイルサゾート撃つとこ見たことねぇだろうが」
「あるぜ。お嬢の訓練にってやってたじゃん」
「あんなもん、イルサゾートのうちに数えんな」
「……無視、してますよね。やっぱり。完全に」
 ぼそりと弟子が言うに至って地下室が笑いに包まれる。エリナードとしては言いたいことがいくらでもある。無視はしていない。むしろ、見方が違うだけで法則に沿っているのだと。ここで言っても不利だと思ったから黙って肩をすくめた。
「やっていいか、エルサリス」
 強引に話を戻したように見えるエリナードにエルサリスが笑ってうなずいた。カレンは師のとった方法に感嘆している。多少は偶然もあったのだろうけれど、彼らが負担に思わずに済むよう心を尽くした、そんな気がしたせい。
「ライソン」
「おうよ。お客人がた、ちょっといいですかね。そっち移動してもらって。その辺……えっと、あったあった。そこに線引いてあるでしょ。そこから中に入らないで。狭いっすけどね」
「かまわないが……」
 気安く立ちあがってイアンはライソンに従ってくれた。その間にエリナードはカレンを手元に呼び寄せる。
「お前は俺の手伝いだ」
「何をすれば」
「たいしたことしねぇでいい。お前はここで目標んなってろ。座標ずれ起こしたらそれの修正は任せた」
「う……。はい」
「そこはな、馬鹿弟子よ? どうぞ心配しないで任せてくださいって言うところだろうが。怯むなよ、この程度のことで」
「怯んでねぇわ!?」
 怒鳴らされてカレンはばつが悪くなる。いつものことだった。気後れを見せると師はこうして怒らせてくれる。奮い立たせ、立ち上がらせてくれる。だからこそ、先に進める。いまはまだ。いずれそんなことをしてもらわずとも先に行く。弟子の気概に気づいたエリナードは黙って目を細めていた。
 背丈のそう変わらない師弟だった。エリナードはそのカレンの頭の上、軽く手を置いている。わずかに視線を伏せているのは床に置いた水盤に目を据えているせい。
「おう、よかったぜ。王宮だな。だったら――」
 呟くエリナードにカレンは無言。精神集中の結果なのだろう。わずかに青ざめても見える彼女だった。師弟をエルサリスは黙って見ている。そしてふとライソンに目を向けた。
「もう、三十年は前の話です。フェリクス師と、エリナード。それから彼の兄弟のような同期の仲間たち。みなに、助けていただきました」
「イメルとか、ミスティさんとか、オーランドさん?」
「えぇ。あなたも会ったことが?」
「ありますよ。イメルは俺の友達でもあります」
 それをイメルが聞けばどれほど喜ぶことか。魔法に集中しつつエリナードはライソンの言葉を聞く。ふっとほころんだ師の唇に気づいたのだろうカレンの眉根が寄せられた。気が散っている、と思われたらしい。
「あのころからエリナードは変わらない。真っ直ぐと、助けてくださる」
「当時は私も若かった。エリナードの猪突ぶりに苛立たされた覚えもフェリクス師の秘密主義に腹立たしい思いをしたことも一度ならずあったものだが。――いまはあのひたむきさが好ましい」
 イアンがそっと笑ってはそう言った。フェリクスの秘密主義、というのがライソンにはぴんとは来ない。が、エリナードの猪突ならば今も昔も変わっていないのだと思えばおかしい。
「あいつは、優しい男なんだと思いますよ。態度が悪いだけで、なんというか……師弟揃って自分のことは後回しって言うか」
「あぁ、それはよくわかる。フェリクス師は正にそのような方だった」
 身を尽してエルサリスを助けてくれた、育て直してくれたフェリクス。兄のように導いてくれたエリナード。イアンにもいまはそれがよくわかる。セシルの子供たちを身近で共に育てたからこそ。幼い者の養育がどれほど難しいことなのか、身に染みた。
「あなたは何をしている人なんだね?」
 不意にセシルの声。思い出話に今後のことが不安になったのだろうイアンとエルサリスを救うセシルだった。思わずライソンはにやりとする。
「傭兵ですよ。えっと……」
「セシルと言うよ。イアン殿の養女というか義理の妹というか、まぁ、親戚だな。こちらは――」
 夫と子供を紹介する貴族女性、という稀有なものをライソンは目にすることになる。驚きに気づいたのだろうセシルがにやりと笑った。
「エルサリスさん。その、三十年前でしたっけ? セシル様とエリンって、仲良かったでしょ?」
 言えばイアンがむせる。思い出したことがあるのだろう。心配そうに背を叩きつつエルサリスもまた笑ってうなずいていた。
「私はこのような性格ですし、イアン様も学者肌でいらっしゃいます。セシル様とエリナードがどれほど力になってくださったか」
「あの痴話喧嘩は中々派手だったな。思い出しても笑えてくるよ」
「酷いことを仰せになりますな、セシル様」
 もう、と笑うエルサリスは頬まで染めている。ライソンの目から見れば彼は自分の父ほどの年齢だ。三十年前、ということは当時の彼は二十代だろうか。その頃からきっと彼は変わらずこうしてあるのだろう、そんなある意味では確固とした柔らかさだった。
「亡命、ですか。なるほどねぇ」
 そしてライソンはようやく客人たちがどうしてここにいるのかを聞けた。あのラクルーサ王の悪意がこんなところにまで。思えば内心で顔を顰める。それを不安が勝るだろう客人には言わなかった。
「こっちでの生活が落ち着いたらどうなさるおつもりで? 俺はしがない傭兵ですからね、お力にはなれないかもしれませんが」
 だがエリナードがいる。ここで放り出すような男ではないから存分に頼れ、ライソンは言い放つ。それを頼もしそうに彼らは見ていた。
「私、少し嬉しく思っているの。お母様みたいに乗馬をしたり、剣を持ったり。もっとたくさんしてみたいって思っていたのだもの」
 ラクルーサにいる間はそれができなかった、とコーネリアは笑う。ライソンはやはりセシルは剣を使うか、と納得している。背筋にそれを見ていた。
「僕は伯父上のよう、研究がしたいよ。薬草の売買に携わるのも楽しいかもしれない」
「ね、兄様もそうでしょう? 急に国を離れることになったけれど私たち、悲観なんてしていないの。でも、わからないわよね。魔法の何がそんなに気に入らないのかしら。楽しいものだし、便利なものでもあるでしょう?」
「色々あるんだろうと思うよ。僕に政治向きのことはわからないが」
「魔法が嫌いって方は一度魔法なしの暮らしをなさってみればいいんだわ。お湯を沸かすのだって大変なんだから!」
 逃亡の旅でコーネリアはそれを実感した、と笑う。屋敷には火を熾すもの灯りをつけるもの、魔法具があるのが当たり前のラクルーサ貴族だった。




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