もうもうと埃が立っていた。倉庫の残骸があたりかまわず飛び散っている。 「坊や! いるんだったら返事しなさい!」 呼びかけて、はたして自分に気づくだろうか、とアレクはいぶかる。自分だったらどうか。この状況下で呼びかけられてのこのこ姿を現すか。 「出てくるわけないわよねぇ」 言いつつアレクの目は辺りを窺っている。そのとき視界の端で何かがぼんやり光った。 「さすがシリル」 嬉々としてアレクは駆け出した。大きな倉庫だったはずが、いまは障害物だらけになっていて、走りにくいことこの上ない。 「陛下! いずれへ」 「ついてきたかったらくればいい」 無下に言ってアレクは目が見つけたものへと向かって走っていた。その足がぎょっとして止まる。 「サイファ!」 倉庫の外から、無理やり転移してきたのだろう、怒り狂ってあの天上の美姫とも見える顔が壮絶に歪んでいた。 「見つけた……」 ゆらり、と囁くよう言う。だがその声は全員に聞こえた。やっとのことで駆けつけた半エルフたちにも、シリルにも。 そこに、怯えてひるんだ顔をした人間たちがいた。その数五人。シリルの調査は正しかった、とサイファは薄く微笑む。 「サイファ……?」 弱々しい声がした。震えかねない体を抑え、サイファはそこを見る。青ざめた顔、血の滲んだ唇。酷く殴られたのだろうか、赤毛も血の色にくすんでいた。 両手足をきつく縄で縛られて転がされている姿など、見るに耐えない。疾うに頭に血が上っていたのかもしれない。 サイファはウルフに向かって魔法を放つ。赤毛の男は黙って笑みすら浮かべて甘受した。アレクの悲鳴。 だが炎の矢はウルフを傷つけはしなかった。手足を縛った縄を射抜いただけ。はらり、縄が床に落ちる。ウルフは魔法によって、毛筋ほども傷つけられてはいなかった。 「生きてるか」 だが、サイファは冷たく問うただけ。その声音に、やっとのことで彼は体を起こす。縛り続けられていた手足が痺れている。痺れを取ろうと軽く振った拍子に、誘拐犯どもが突きつけた剣が喉を軽く突いた。ぷつり、と喉に血が滲む。 「なんとかね」 痺れのせいで剣を払うこともできずウルフは笑った。彼の目が丸くなる。眼前から、剣が消えた。思わず頭上を見上げれば、なぜか剣が宙に浮いている。 サイファが一歩、踏み出した。指先が閃く。それでウルフは知った、サイファが魔法で剣を弾き飛ばしたのだ、と。 剣が突如として落下した。最前まで、ウルフを脅しつけていた人間の正に目の前へと。乱れた男の前髪がぷつり、と切れた。遅れて誘拐犯の絶叫。 「死んだりしないよ、サイファ」 立ち上がることもできないウルフが言う。サイファの中で何かが切れた。 「死んだりしたら、なますに刻んで殺してくれる!」 かっと見開いた目の中、恐怖を読み取ったのはウルフ一人。 「まったく、無茶言うよ。サイファ――」 からりと笑って、だがウルフの体が傾ぐ。緊張と、疲労、なにより出血に意識が薄れかけていた。悲鳴をこらえ、駆け寄りかけたサイファをアレクが背後から羽交い絞めにする。 「サイファ、じっとしててちょーだいな」 「離せ!」 「だーめ。離さないわよ」 「アレク!」 うろたえるサイファ、などと言う信じられないくらい珍しいものをアレクは堪能する。にやり、笑って手を離した。 「ほら、おしまい」 「なに――」 「シリルよ」 言われてウルフを見やり、シリルを振り返る。照れくさそうに彼は笑っていた。背後から、治癒魔法を飛ばしてくれたのか、と悟る。 「……礼を、言う」 掠れ声にシリルは軽く手を振っただけだった。そのやり取りの間、半エルフたちは驚きをこめて彼らを見ているだけしかできなかった。 なんという信頼か、と感嘆する。それぞれが、自分のすべきことを完全に理解しているゆえの連携。これがシャルマークの英雄か、そう思う。 だが、自分たちもその輪に入ることができた。和を乱すことなく。それがどことなく誇らしい。メロールとアルディアはそっと顔を見合わせ笑みを交わした。 「王子!」 その隙だった、ガストンが飛び出したのは。ガストンの姿を見るや、誘拐犯たちが息を吹き返す。サイファの魔法が咄嗟に間に合わない。 風を切る鋭い音がした。ガストンが信じられないと言いたげな顔をして、振り返る。その足が崩れる。ふくらはぎに、矢。 「よくやってくれた、アルディア」 サイファの静かな声。足を進めた半エルフに誘拐犯たちが揃って後ずさりをする。 「ガストン。貴様はこの男の味方だと、私は思っていたのだがな――」 神殿での姿が蘇る。ウルフの蘇生が成功したあのときのガストンの顔。 「味方に――」 「カルムが国に帰れば、殺されるとわかっていて、誘拐犯に手を貸したか?」 「誘拐など! 誰が! 私は、殿下に正当に国に戻っていただきたかった。ミルテシアのために。この方はミルテシアの――」 「そのミルテシアが、この男を殺す」 サイファの静かな声に、誘拐犯もガストンもが一様に追い詰められる。ガストンの目がぎょろりと動いた。アレクに、そしてウルフに。 「王子、私を……」 信じて欲しい、と言うつもりだったのだろうか。だがウルフは目をそらした。聞く耳持たない、ときっぱり目をそらした。 それがきっかけだったのだろうか。誘拐犯たちが自棄のよう声を上げてウルフに向かって剣を振り上げた。唖然とするガストンを、尻目に。 「やめろ! なにを。その方は――!」 ガストンが止めても聞くはずがない。そのガストンをなぜかサイファが止めた。笑み一つ、仕種一つで。 「躾がなっていないな、ガストン卿」 ガストンに向けられた声だったのに、誘拐犯どもがぴたりと足を止めた。はじめてそこにいるのが何者であるか知ったよう、体中を強張らせ。 剣を掲げたままウルフとサイファとを交互に見る男たちをサイファは見やる。なにを考えているかわからない目をしていた。 「礼儀を、教えてやろう――」 詠唱の声がシリルには聞こえなかった。メロールには発動の瞬間を捉えることができなかった。突如として現れた炎が五人の男に襲いかかる。 「ひ――」 声にならない悲鳴を上げて逃げ惑う男をサイファは効率的に追い詰めていった。兄弟も、ウルフもが黙ってそれを見ている。 とても声などかけられたものではなかった。迂闊に何かを言えば怒りのあおりを食らいかねない。それでも何かを言いたそうにしているアレクをシリルが必死にとどめていた。 「許しを請うがいい。逆らってはならないものに剣を向けた我が身を悔いるがいい」 一人の男の衣服に火が移る。喉を振り絞って喚く男を、仲間が見捨てた。 「地に伏せ。泣き喚け。ひざまずいて、祈れ」 別の男に火がついた。さすがに止めようとしたアレクの腕を強くシリルが引く。思わずその腕を振り払いそうになったアレクの注意をシリルは男へと向けさせた。 「あ……」 男たちの体に火がついてはいる。燃えている。痛みに泣いている。だが、焼けてはいなかった。 「幻覚かもしれない」 小さな声でシリルが耳許に囁いた。もしもそうならば、ずっと残酷なことだ、とアレクは溜息をつく。少なくともサイファが今すぐ殺すつもりはないことだけはわかってしまって、かえって止められなくなる。 「恐れ、おののき、平伏し――」 男たちを火球が襲う。サイファの言葉通り、足を撃たれた彼らはその場に這いつくばった。 「醜い声で叫ぶがいい、断末魔の声を高々と上げるがいい。乞え、願え、祈れ。――せめて楽に死にたいと」 サイファはちらりとメロールを見やる。なにを思う間もなく従ったメロールが魔法を放った。従ってしまってから、サイファを止めるのだったと思ってももう遅い。 瞬時に誘拐犯たちが動きを止める。光の網に拘束され、ウルフから引き剥がすようずるずると引きずられた人間どもにサイファは冷笑を向ける。いつの間にか火は消えていた。振り返ってはにこり、メロールに笑みを見せた。 「素晴らしい」 言われたメロールはとても喜ぶ気になれない。彼の怒りが自分に向いているわけではない、わかっていても心が震えた。 「私は心穏やかな日々を過ごしたいのだがな……」 サイファの振る舞いに、半エルフへの反感も怒りも差別も忘れてガストンが震えていた。ちらりと視線が向いただけで唇がわななく。 「くだらない者どもが、私の平安を乱す」 ふっとサイファが呟く。咄嗟に立ち上がったのはウルフ。だがその意味は誰もわからなかった。奪われた自分の剣を探す。すぐそこにあった。手に取る。 「貴様らは、許しがたい」 笑みさえ浮かべたままサイファは詠唱した。先ほど倉庫を吹き飛ばしたのと、まったく同じ威力の呪文を。 「リィ・サイファ!」 思わずメロールが叫ぶ。間に合わない。呪文が完成するその瞬間。ウルフがサイファと誘拐犯どもの間に立ちふさがった。 息を飲む音が幾つも。兄弟の悲鳴が聞こえた。ウルフはちらりとも視線を動かさず、剣を頭上に差し上げ。からり、投げ捨てられた鞘の音が妙に耳につく。 一息に振り下ろした。 「な……」 どん、と音がしていた。倉庫の床がみしりと音を立てる。ありえない現象に、半エルフたちは揃って声もない。 不意に光が差し込んだ。メロールは上を見上げる。残っていた天井の残骸が、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。 遠くから轟音。次いで突然の雨音。違う、とメロールは首を振る。吹き飛ばされた天井が、港に飛んで行っては海へと落ちた音だった。 |