倉庫のなれの果てに佇む彼らすべての上に、塩辛い雨が降り注ぐ。呆然と空を見上げ、ウルフを見やりアレクは呟く。
「魔法を、切った?」
「なんて非常識な」
 呆気に取られる兄弟に、ウルフがちろりと舌を出して笑った。降りかかる雨に顔を顰め、サイファに視線を移した。
「サイファ、そこまでにしときなって。ちょっとは気が晴れたでしょ。こんだけめちゃくちゃにしたんだからさ」
 何事もなかったかのよう、ウルフがサイファに近づく。長身を折り曲げるようにして青い目を覗いた。
「ね?」
 ぐっと唇を噛みしめたままのサイファ。その唇に指先を伸ばす。切れてしまう、と言うよう唇を叩けばサイファが崩れた。
「ごめんね、サイファ。心配させて」
 揺らめくよう腕の中に崩れてきたサイファをウルフはきつく抱きしめる。ほっと息をついたのは、けれどウルフのほうだった。
 冷たい黒髪に手を滑らせる。撫でて持ち上げれば手にぽってりと重たい。その手触りに、帰ってきたのだと感じる。
「ちょっと油断したんだ。まさか、昔一緒に訓練したやつらに一服盛られるとは思わなかったもん」
 皮肉げに言って光の網に絡めとられたままの騎士たちを見やる。ガストンの顔色が変わるのがここからでもよく見えた。
「ごめんね、サイファ。俺が悪かったから、機嫌直して」
「……か」
「うん?」
「お前なんか、大嫌いだ!」
 叫び声に、けらけらとウルフが笑う。あまりのことに半エルフは揃って呆気に取られ傍らの王を見る。兄弟はこらえ切れなかったよう、吹き出していた。
「俺もサイファが大好きだよ」
 耳許で誰にも聞こえないよう囁く。サイファが小さくうなずいた気がした。
「王子……」
 ウルフはサイファを安心させるよう背を叩き、自分ひとりが顔を上げる。目はガストンだけを見ていた。
「かつての主人に、剣を向けるか。ガストン」
「王子! 私は――」
「私がミルテシアに入れば、どうなるかわかってのことだろうな、無論。すぐさま父王の手の中に送られたことだろう」
 ちらりと自分をさらった騎士たちを見やる。彼らは揃って目をそらしていた。ガストンが、それを愕然と見る。
「知らなかったとでも?」
 嘲笑うよう言い、ウルフはガストンを見据えた。
「ミルテシアの王宮に入るまでもない。船で運ぶ予定だったそうだが……。大方ミルテシアの領海に入ったところで鮫の餌だろうよ」
 いまだ抜き身のままの剣をガストンに突きつける。片手にサイファを抱いたままなのを笑うものは誰もいなかった。
「降伏か、死か」
 かつての側近にかける言葉ではなかった。若い騎士たちが慄然とする。この追放された王子は、決して自分たちを許すまい、と。自らの安全のためではなく、腕の中の半エルフのために。
 それをこの期に及んでようやく、ガストンも悟った。彼は半エルフの魔術師に惑わされたのだとずっと思ってきたものを。彼が、彼自身の意思として、半エルフの元に留まっていたのだと、考えたことがガストンにはなかった。
「……降伏、いたします」
 がくり、ガストンが膝をつく。たらたらとそのふくらはぎから血が滴っていた。抵抗すればすぐにでも切って捨てるつもりでいたウルフは鼻を鳴らして彼に目も向けなかった。
「アレク王。お受け取りあれ」
「ありがたくお受けしよう。よいように使わせていただく」
「ご存分に」
 言って互いに目を見交わして、がらじゃないね、と目顔で語る。シリルが呆れて二人を見ていた。
「ウルフ……」
 腕の中から細い声がした。慌ててウルフはサイファに視線を戻す。どちらが救出されたのかわからないほど、ウルフの目には心配があふれていた。
「サイファ? どうかした?」
 そっと体を離して彼の目を覗き込んだ。サイファは目の前の男を見つめる。そこにはカルムではなくウルフがいた。
「ウルフ」
「うん、なに?」
「こんなことが度々起こっては、私のか弱くて脆い硝子のような心の糸が切れてしまう」
「サイファ。えー、と、もしかして。怒ってるよね、まだ?」
 おろおろと言い訳をするウルフに兄弟は揃って溜息をついた。
「ミスリル製の鎖でできた神経してるくせになに言ってやがる」
「それも絶対衝撃抵抗の魔法つき」
 兄弟がぼやくのを半エルフたちが顔を引きつらせて聞く。その向こうでサイファがにこり、と微笑んでいた。
「いっそ、魔術の粋を尽くして迷宮を作ろうか?」
「聞くの怖いんだけど。なんで?」
「誰にも通り抜けられない迷宮を作って、その中心にお前を据えよう。誰にも会わせなければ、どれほど安心するだろう」
「またそういう無茶言って。別に俺はいいよ? でもそういうことする自分が嫌になるのは、あんただよ、サイファ」
「だがそうでもしないと私はいつも怯えて過ごさなくてはならないだろう?」
 うっとりと微笑むサイファにウルフは心の底からうろたえた。別に迷宮の中に住むくらいきいてもいいとは思うのだが、少なくとも少しくらいはなだめないと話しにならない。
「もうこんなことないって。大丈夫だって! あんたを怖がらせたりしない。誓うから!」
 必死になってウルフが言い募るのをサイファは微笑んで聞くだけ。どこから誰が見ても聞き流していた。
「ならば、私の心の平安のためにしたいことがあるんだが、いいか?」
「……なに?」
 言った途端だった。サイファがウルフの襟首を掴んでぎらりと睨む。
「お前の父親を私に殺させろ」
 憎しみが滴らんばかりの言葉に、だがウルフは動じなかった。呆れて言葉もない、とばかり両手を広げて肩をすくめる。
 ようやくサイファが多少は冷静になった、と内心でほっとする。もしもウルフのその心がわかるものがいたならば、唖然としただろう。
「それはだめ」
「なぜだ!」
「俺はあんたの手を汚させたくない」
「だったら――」
「ほっときなって。どうせ年寄りだ。すぐにくたばるよ」
「ウルフ!」
「あんたの手を人間の血に染めたくない。あんたが大事だから言ってるんだ。わかるよね、サイファ?」
「馬鹿にするな!」
「だったら、わかってるでしょ。殺しはだめ。それにアレクが困るよ」
「……なぜだ」
「一国の王が見てる前で暗殺計画なんか立ててみなよ。聞いてて知らなかったふりはできないんだよ、アレクは。下手すりゃ、アレクはミルテシア王暗殺の首謀者だよ。ただでさえ一番利益があるのはアレクなんだから」
「……お前のそういうところが、嫌いだ」
「うん、知ってる。俺も嫌い。だから――」
 言葉を切ったウルフを訝しげにサイファは見上げた。すぐ目の前にウルフがいる。胸元にすがりついた自分の手が、白く震えているのが目に入りゆっくりと息をした。
「――馬鹿な若造でいられるところに早く帰ろうよ、サイファ」
 にこり、ウルフが笑った。サイファの唇が歪む。崩れる。最後に、ほころぶ。ぎゅっとウルフの胸に顔を押し付ける。
「あぁ……帰ろう」
 しっかりと抱きしめてくる腕に、ウルフを知る。若い男の力強い腕だった。彼の温もりに包み込まれ、ようやくほっと息をつく。
「サイファ、ここはもういいわよ。後はアタシたちで片付ける」
 邪魔だから、とあからさまに匂わせて、言葉の裏でもう休めとアレクは言う。顔を上げれば、にやりとされた。
「王子……」
 ガストンが、再びウルフを見上げた。ウルフは少しも動じない。今生の別れ、とばかりウルフを見ていた。
「もう一度、お目にかかりたかった――」
「サイファは、塔に来るなとは一度も言っていない。会いたかったなら、塔にくればよかった」
「な……」
「それとも、半エルフの許を訪れるなど騎士の誇りが許さんか? それならば会うに値しない」
 後は自分で考えろ、とばかりウルフは言葉を切ってアレクを見やってはうなずいた。
「じゃ、頼むね」
「了解。でも高いわよ?」
「勘弁してよ」
 悪戯でもするような二人にシリルが溜息交じりの笑みを零す。サイファは話が切れた隙をつくよう、呪文を詠唱していた。シリルが悟ったよう、手を振る。ウルフが仲間に向かって礼代わりの笑みを向けたとき、二人の姿は薄れて消えた。
「さぁて、この馬鹿どもをどうしようかしらねー?」
 あまりに素早い転移呪文に、半エルフたちが呆気にとられていたのを正気に戻すアレクの声。まだ終わっていないのだ、と彼らは知った。
「まずは、帰ろうよ。アレク」
 シリルの進言に答えず、アレクは組んだ指をぽきりと鳴らし犯罪者どもに目を向けた。紫の目が、きらきらとしているのを見てメロールは思う。サイファの怒りの激しさの影になっていただけで、ここにも一つ嵐があったのだ、と。ぞっとするような思いでアルディアを見上げれば、肩をすくめられた。
「ちょっと待って、アレク!」
 悲鳴じみた声でシリルが兄を止めている。アレクは聞きもせず剣を抜き放っていた。
「アタシの国で乱暴狼藉は許さなくってよ」
 あれさえなければな、と半エルフたちは突如として酷い疲労を感じつつ、顔を見合わせては力なく微笑みを交わす。
 それから彼らが仕える王の元へと足を進めた。この騒動を、できるだけ早く収束させるために。シリルが自分一人では手に余る、と必死の視線を半エルフに送っていた。





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