もう一歩をシリルが踏み出す。にこやかに笑みを浮かべている彼にガストンは言葉もない。遠い響きのよう、キャンピオンが平身低頭して詫びていた。 「まぁ……いまは、急ぎますゆえ、かまいだてはいたしませんよ」 肩をすくめてアレクが言う。一言ずつきっちり区切って言うあたり、意地が悪い、と当事者ながら他人のような目でサイファは彼らのやり取りを見ていた。 「陛下、会議の遅れは何ゆえか、それだけお教え願えませんか。あるいは、いつ再開の目処が立ちますのかを」 ひとしきりまだ詫びそうなキャンピオンをアレクが遮れば、今度はそうやって追いすがられた。溜息を一つ。ちらりとサイファに視線を投げた。 「ウルフ、いや。お前たち風に呼べば、カルム王子が誘拐された。これから救出に向かうところだ」 「……な!」 「いったい誘拐犯は何を考えているんでしょうねぇ。怒り狂うサイファから逃れられるとでも思っているんでしょうか」 「私だとて間違いは犯す。その可能性がないとは言わんな」 「ですが、仮にあなたの手を逃れたとしてもカルムを我がラクルーサで誘拐する? 愚の骨頂とはこのことです」 シリルとサイファの会話にキャンピオンは首をかしげる。何を言っているのかわからなかった。だが、ガストンは違った。一瞬にして彼の顔色が変わる。 「サイファが王家の友人であると同様に、カルムもまた我らの友。生きて後悔する暇があるといいですね、馬鹿なことを考えた人たちは」 にこり、シリルが笑ってガストンを見やった。青ざめたガストンに、キャンピオンが息を飲む。よもや、と唇がわなないていた。 「アレク。シリル。時間が惜しい。あれは人間だ、怪我が悪化して死なれたら私は少し自分に自信が持てなくなる」 「サイファ?」 「うっかり大陸ごと破壊しかねんな、我ながら。そのときにはアレク、諦めろ」 「仕方ない。友達がいに楽に逝かせろよ」 「無論だ。お前たちは楽に死なせてやる、我が友よ」 気の遠くなるような会話についていくことができたのは、シリルだけだっただろう。溜息をついて二人を引きずって歩かせる。軽くミルテシアの使節には一礼して無礼を詫びた。慌てて半エルフたちが従った。 「待て!」 ガストンの声にシリルが舌打ちをする。珍しいそれにサイファが目許を和ませた。 「王子……いや、カルム様が……怪我だと? 誘拐されたと言ったはずだ。見てきたようなことを、なぜ! だから半エルフは――」 「見てきたから、言っている。もっとも魔法でだがな」 「怪我など――!」 語るに落ちたとはこのことだろう。サイファは哀れむような顔をし、それから口許を歪めた。 「半エルフの語る言葉など、信用できないか? しなくとも私は一向にかまわん。貴様の信用を得たいなど微塵も思っていない。私は自分で見たものを信じる。あれは怪我を負っている。酷いのかどうか、そこまでは確かめられん、いくら私でもな」 「だから我々は急いでいるんです。もうよろしいですね、ガストン卿」 「待て、半エルフ! 私も、連れて行け!」 背を返そうとしたサイファに向かってガストンは言った。サイファは鼻で笑うのみ。 「それが人に物を頼む態度か?」 低い声にキャンピオン卿がガストンの背を叩いた。それからちらりとサイファに視線を向ける。わずかにその目が揺らいだ。半エルフを間近に見た恐怖に。 「王子は、ご無事か」 「その男が引き止めなければ、無事に連れ戻しに向かえるだろう。少なくとも、さっきは生きていた」 キャンピオンは言った、王子と。ミルテシアで彼はその称号を剥奪されている。それなのにそう呼んだ。かすかにサイファの目が和む。あるいはウルフを大切にしていた人間の一人か、と。 「陛下、サイリル王子。どうか、ガストンをお連れください」 キャンピオンはそれだけを言って頭を下げた。きゅっとアレクの顔が引き締まる。 「……なるほど」 事件の犯人は引き渡す。その代わり表沙汰にはしないで欲しい、そういうことか。そう察したアレクはサイファを見やった。 「ついてこられるのならば、ついてこさせればいい。この程度の人間ひとり、なにを企んでも無力化するなど造作もないこと」 言うだけ言ってサイファは身をひるがえした。気が急いて仕方ない。魔法越しに見たウルフの姿が瞼の裏にちらついた。 「行くぞ」 言ってサイファは再び駆け出した。もうキャンピオンのことなど見てもいない。ガストンがついてくるか確かめもしなかった。 「サイファ」 「厩舎へ」 「了解した。こっちだ」 アレクの先導にしたがって駆け抜ける足音。メロールはちらりと後ろから走ってくる人間を見ていた。青ざめ強張った顔をしている。 この男がウルフを誘拐した首謀者か。そう思うのだがどことなくすっきりとしない。メロールの目には、ガストンが真剣にウルフの身を案じているように見えていた。 ぱっと光。外に出た途端に明かりに目が眩む。慌てて目を覆ったのはメロール一人。それが情けなくて気恥ずかしかった。 「アルディア!」 サイファの呼び声に半エルフたちはなにを思う間もなく従った。人間のために用意されていた馬から馬具を外す。 「なにをしている」 ガストンの問い。アルディアは答えない。気ばかり急いて金具をいじる手が震えそうになる。 「我々は馬に乗るのに馬具など必要としない」 ぴしりとしたサイファの声。かすかな侮蔑を聞き取ったのかガストンの顔が強張った。 「いいか、サイファ」 同じよう、馬具を外し終わったサイファが馬の背に飛び乗る。アレクに向かってこくり、うなずいた。メロールの目に、彼の顔はガストン以上に強張っているように見えていた。 「アル」 一言、すでに馬の背にある彼の名を呼んだ。それだけで伸びてくる力強い腕。繋いだ手を引かれるままにメロールはアルディアの前へと腰を据える。 それを確かめてサイファはちらりと振り返る。全員が騎乗していた。しっかりとうなずいてサイファは遠い目をした。魔力の塊である鳩に意識を移す。同時に馬が飛び出した。 王都を疾駆する馬群に、人々が狂騒していることをどこかでサイファは感じている。だが心はすべてウルフに向いていた。 「……まずいな」 怪我が酷くなっているのだろうか。ぼんやりとした目つきが心を凍らせる。時折苦しそうに喘ぐ唇。生気が失せて青かった。 「ウルフ――」 いま行く。すぐに行く。だから、待っていろ。伝えたい言葉なのに、彼には届かない。 不意にサイファは驚愕した。ウルフの目が開いた。倉庫の高い窓に止まった鳩に彼の視線が向く。何かを見つけたよう、ウルフがかすかに笑った。 「まさか」 わかったと言うのか、この自分の魔力だと。確かめる術はない。だがウルフはその瞬間、鳩に向かって大丈夫だ、とでも言うよううなずいて見せた。 サイファは強く唇を噛みしめる。噛み破りそうなほど、強く。鳩の目を通してあの男を見続けるなど、耐えられない。 駆け続ける馬の足音が妙に耳についた。夕暮れも間近の赤い陽が心に不安を呼び起こす。サイファは強く頭を一振りした。 「リィ・サイファ」 隣に並びかけてきたアルディアの馬。その上からメロールが問いかけていた。 「引き継げ」 「心得ました。お任せを」 「頼む」 頼もしい笑みを必死で浮かべるメロールにうなずいて、サイファは馬の背に伏せた。伏せた、と言う意識すらなかった。 「サイファ!」 背後からアレクの焦った声。それをメロールがとどめていた。どこかでそれを聞きながらサイファの意識は半ば途切れる。 「休ませて差し上げてください」 アルディアが言う言葉をメロールも遠く聞く。目の前がくらくらとしていた。 「なんて、情報量だ――」 「メル。少し手伝おうか」 「いい、平気。たぶん」 力なくメロールは首を振り向けて笑った。その拍子に厳しい顔つきのアレクが視界に入る。説明を求めていた。 「いま、リィ・サイファの鳩を引き継ぎました。彼が見ていたものを、いま私が見ています」 確かめるよう、彼の鳩を意識する。途端に襲い掛かる眩暈。慌てて馬の鬣を掴んだ。 「……とんでもない人だ」 呆れ声で馬に運ばれるだけとなったサイファを見やる。 「なにがだ?」 「リィ・サイファはこの鳩で、例えば百人の声と動作を同時に監視し情報を割り出し、それに従って鳩を転移させ、ウルフの場所を探し当てたんです」 「……一羽でか?」 「同時に同じことを十羽でやりながら」 「……呆れたもんだ」 同感だ、とはメロールは言わなかった。その思いは強かったとしても。それが自分にできるか、と言われればとても無理だ、と答えるしかない。だから、言えない。この鳩一羽で、充分すぎるほど手に余る。 「サイファは、大丈夫なのか」 アレクに問われてちらり、シリルを見やった。王弟はわかっているのだろう、わずかに顎を引いてうなずいている。 「我々半エルフは――」 押し寄せる情報に、メロールの言葉が止まる。不意に心に触れてくる柔らかいもの。アルディアの心。あとは自分が、そう言っていた。それにうなずいてメロールは鳩へと集中する。 「元々半ば魔法的な存在ですから」 言い繋いだアルディアに不審そうな目を向けたアレクの横に並びかけたシリルが、馬越しに手を伸ばしてそっとしておけ、と腿を叩く。 「それは、サイファから聞いているが」 「えぇ、ですから馬は何かを乗せている、と言う気がしないはずです」 「は?」 「馬は、勝手に走っている気になっているんです、たぶん」 自分は馬ではないから、と言わずもがなのことを言ってアルディアは微笑んだ。 |