タイラントは魔法の基礎訓練に忙しい。今までの魔術師にできないことができるタイラントではあるが、基礎はまったくわかっていない。シェイティはその理解不足を知ったとき、顔を青ざめさせて震えたものだった。
「あれ見ちゃったら頑張るしかないよなぁ」
 ぼやく口調も明るいもの。シェイティがどれほど自分を心配してくれているのか、口で言わずとも如実に伝わる。
 そんな訓練の合間を縫って、吟遊詩人としての訓練も欠かさない。喉を鍛え、楽器の鍛錬をする。どれほど忙しくなろうとも、どれほど魔法の訓練が進まなかろうとも、それだけはシェイティもやめろとは言わなかった。
 おかげで、通常の魔術師の弟子の倍は忙しいタイラントだった。毎日毎晩、影が薄れるほど働いている気がする。
「ねぇ、ちょっと」
 タイラントは基礎ができていないだけで魔法は使えている。だから普通の弟子とは違う呪文室を一人で使っていた。いつもシェイティに課題を出されたあと、放り出されている。
「珍しいね。どうかした?」
 課題が終わってもいないのに彼がここに来るのは本当に稀なことだった。タイラントはなぜかはわからなかったけれど、シェイティはいつも終わって一息ついたころにくる。実を言えば簡単な精神の接触なのだが、タイラントにはまだそれが感じ取れなかった。
「一応できたから持ってきたの。あわせてみて」
「はいー?」
「だから!」
「いや、それが何かくらいはわかってるって! すごい! よくこんな早くできたね。星花宮で使ってるお針子さんってすごい優秀なの?」
 タイラントの感嘆もむべなるかな。シェイティはその腕の上にふんわりと胴着を広げていた。数日前に二人で選んだあの青紫の布が、見事な胴着に仕上がっている。
「お針子? なに馬鹿なこと言ってるの。魔術師は自分の服くらい自分で作るもんだけど?」
「ちょっと待て、シェイティ!」
「なに?」
「それって、もしかして君が縫ったのか!?」
「ある意味では僕が縫ったって言ってもいいだろうね。ほら、ちょっと体貸して。大丈夫だと思うんだけど」
 強引に胴着をタイラントの肩に当てて寸法を見る。どうやらまんざらでもないらしい。が、タイラントは細々と彼が裁縫をしているところを精緻に色つきで脳裏に再現してしまってそれどころではなかった。
「……君が……裁縫……」
 呆然としているタイラントにシェイティは一瞥をくれる。それからわざとらしく長い溜息をついて見せた。
「誰が裁縫なわけ? ある意味でって言ったじゃない。魔法だよ、魔法。わかる? 僕らは魔術師なの、魔術師の一番得意な道具って言ったら魔法でしょ。それくらい悟りなよ、馬鹿」
「え、あ! あぁ、そっか! うん、そうだよなぁ。よかったぁ……」
「なんか色々問い質したい気がするけど……」
「いや、その!」
「時間の無駄だからやめとくね、タイラント」
 にっこり笑ってシェイティが眼前で微笑む。思い切り叱られたほうがよほど怖くない、と密かに震えるタイラントだった。
「さぁ、タイラント。勉強をしようか」
 再びにこりとシェイティが笑う。小首をかしげているものだから、とても師匠には見えない。
「あ、悪魔がいる……ッ!」
 小声で震えたタイラントの頭を背伸びをしたシェイティが殴りつける。拳で殴られたにしては軽い音がした。
「あれ?」
「ほら、呪紋集。この前自分でやれって言ったじゃない。教えてあげるから、やって」
「いや、そんな無茶な!」
「全然無茶じゃない。書いてある通りにやればいいの。護身の文様がいいだろうね。この辺りかな」
 ぱらぱらとページを繰ったシェイティが一つの模様を指し示す。それにタイラントは驚いた。もっとずっと複雑怪奇で奇妙なものかと思っていたのだが。
「あなた、自分も魔術師なんだから一々魔法を怖がる癖、改めたら?」
「う。ごめん」
「別に怒ってない」
「……うん」
 けれどシェイティの声音に少し哀愁が忍び込んだ気がした。だからタイラントは彼の顔を窺う。覗き込んで、その頬にかかった素直な黒髪を払う。
「ごめん、シェイティ。努力するから」
「知ってるよ。それで。やるの、やらないの」
「やるよ! だから教えてくれる?」
 怖がってしまう習性はすぐには改まらないだろう。けれど、知ってしまえばこんなにも恐ろしくない。むしろ、特殊でありながら当たり前の技術と言う気もする。それはすでに自分が魔法を使えるせいかもしれない、とタイラントは思う。
「――こんな感じ。わかった?」
 さすがに縫い上げたばかりの胴着に一発で描け、とはシェイティも言わなかった。練習用の古布に手本を作ってくれたのだが。
「……まさか模様を描くのも魔法でするとは思わなかったよ」
「僕らは魔術師だって言ってるじゃない」
 不満そうに言うのにタイラントはなんとかうなずく。不意に気づいた。シェイティはさほど家事が得意なほうではないらしい。少なくとも、料理の腕が壊滅的なことはよくよく知っている。ならば、裁縫は。
「ちょっと怖いこと考えちゃった」
 もしかしたらシェイティは針を持つのが苦手なあまり道具としての魔法を使っているのではなかろうか。
「なに?」
「え! あ、いや! うん。なんでもない! 俺も頑張るからさ!」
「あなたも、じゃなくてあなたが、頑張るの。できそう?」
「なんとか」
 少し考えてからタイラントは首をかしげる。望ましいことではないだろうけれど、提案だけはしてみたい。
「これ、そのやり方じゃなきゃ、だめ? もしよかったら、歌ってみたい」
「そのほうが楽だったら別にいいけど? この程度だったら基礎も何もないし。……むしろ、あなたの歌があるぶん、護身呪がきっちり発動するからいいかもしれないよね」
 最後は独り言のようにぼそりと言う。漠然と感じていたことをタイラントは悟った。シェイティに、心配されている。
 いつものことといえばいつものこと。けれど宮廷に伺候するとなれば彼の不安はいかばかりなのだろう。
 その思いをもこめてタイラントは小さく歌う。嘘のようにさらさらと古布に文様が縫い取られ、描かれていく。集中するタイラントの手元にあるそれを、シェイティはすりかえる。青紫の胴着へと。彼は気づいたとしても歌をやめなかった。
「うん。いい出来だね。やればできるのに、一々怯えるから話が進まなくって困るよね」
「え……うわ! って、君! いつの間に取り替えたの!」
「あなたが歌ってる間に。やっぱり気づいてなかったんだ。魔法を使ってる間は周りに注意しろってあれだけ言ってるのに。いい加減に覚えなよね」
 ふい、と顔をそむけてしまうのも失望ではなく懸念だと、タイラントはもう知っている。だからその小さな背中に顔を埋めた。
「ごめんね、シェイティ。頑張るから。俺、頑張るからさ。だから」
「いいよ。別に無理しろとは言ってない。気をつけなよねって言ってるの。いつも僕がそばについていてあげられるわけじゃないんだから」
 こんな言葉をもしカロルが聞いたならば、彼はどんな反応をするのだろう。思って少しだけタイラントはおかしくなる。もっとも、大半はカロルを思い浮かべてしまった恐怖に支配されたが。
「タイラント……」
「いや、なんでもないから、なんでもないって! そのさ! 呪紋って他にどんなのがあるのかなぁって!」
「言い訳が下手すぎる。まぁ、いいけどね。いいよ、実演しようか?」
 さらりと水に流してくれた、タイラントがなにに恐怖したのかなど手にとるようにわかっているはずなのに。それがありがたくて申し訳ない。
 落ち込むタイラントの目の前、淡い水色のローブが現れる。本当に淡い色、まじまじと見なければ色づいているとわからないほどに。だからこその確信。
「これって……君の?」
「そうだけど?」
 その目がそらされているからこその、事実。淡い水色。いまの今までタイラントが自分の胴着に描いていた呪紋。その縫い取りの糸の色。
「君は……」
「うるさいな、ただの偶然に決まってるじゃない!」
「俺は何も言ってないだろ!」
「いいから黙んなよ!」
 ずいぶん昔の気がした。真珠色の小さな竜であった自分と、人間の幻覚を被ったシェイティがこうして言い争いをしたのは。
 あのときであったなら、どうだっただろう。タイラントは回想する。今ここできっと彼の腕が伸びてくる。優しく抱きとって、そして思い切り。
「投げたよな、君は」
 シェイティは答えない。今の彼は同じように淡々と言葉を投げつけてはいても、決定的に違った。シェイティはタイラントの顔を見ず、壁を見ながら言っていた。
「なにか言った? 勉強する気がないんだったら僕は戻るけど?」
「はいはい! あるから、ありますから!」
「タイラント。返事は一回って、いったい何度言ったら覚えるの」
「う、ごめん」
 声にある演技に気づかないシェイティではなかった。タイラントの謝罪であった、形は。本当は、タイラントがシェイティを受け入れる。振り返ったシェイティの目にタイラントは優しく微笑んでいた。
「いい、見てなよ」
 だから、それだけで元に戻ることができる。シェイティは何もなかった顔をして呪紋を描き出す。淡い水色のローブに鮮やかな青紫の糸で描いていく。
「あなたのは、本当に当たり前の護身呪。例えば、剣で切りかかられたときにも切っ先がそれていくような。いま僕がやったのは、怖がらせる模様って所かな」
「怖がらせる?」
「無論、僕に敵意を向けた相手がだよ。むしろ怯むって言ったほうがいいのかな。こっち、わかる?」
 今度は描かず呪紋集を指で示す。タイラントはごくりと唾を飲み込む。目にしただけで下がりたくなった。
「あなた、ほんと勘だけはいいよね。そう、これが相手かまわず怖がらせる模様だよ。たいていカロルが使ってるけどね」
「カロル様が!」
「あのね、一応言っておくけど。普段は使ってないよ? 宮廷に出たときの話。あの人も色々あるから、あんまり人に近づかれるの好きじゃないしね」
「……聞かなかったことにする」
「うん、そうして」
 失言、ではなかったのだろう。けれどカロルの内面を軽い気持ちで暴露したのでないことも確かだった。あるいは、自分たちはよく似た師弟。そこから様々なことを汲み取って欲しい、と言うシェイティの願いにも似た何かだったのかもしれない、とタイラントは思う。
「ちなみにこっちが」
「警戒させないようにする模様、かな? リオン様に似合いそう」
「……本当に勘だけはいいんだから」
「もしかしてあってた? やった!」
 大喜びのタイラントだった。そこにシェイティは嘘を感じる。嘘と言ってしまっては彼が可哀想だ、とすぐに心の中で否定する。けれど、演技であることに違いはなかった。わずかに沈んだ自分の心を感じてわざとらしくはしゃいで見せた吟遊詩人の演技。
「ついでだし。こっちの勉強もしちゃおうか」
 呪文室に吟遊詩人らしい絶叫が響く。見事なまでに調整され、完璧なまでに制御された悲鳴。だからシェイティは取り合わない。笑って教授をはじめた。感謝とともに。




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