タイラントが奏でていた。宮廷で、貴人の前で、王の御前で。ゆるゆると流れる歌はあるいは古謡であり、あるいはタイラント自身の手になるラクルーサの大地を歌ったものであった。
 タイラントがほう、と息をつく。音が消えていく、その一瞬の静寂。ついで宮廷ではありえない、あたかも劇場ででもあるような万雷の拍手。驚いたよう、タイラントが息を止めた。
「いい加減、慣れればいいのに……」
 呟くシェイティの声さえかき消されてしまう。タイラントが認められて嬉しくないはずはないのだが、どことなく納得がいかないでいた。
「寂しいですか、フェリクス?」
 忌々しいことに隣にはリオンがいた。飄々とした神官は、いつも通り神官服を身につけてはいる。だが立つ位置は魔術師のもの。星花宮に在する魔術師として、彼はシェイティの隣にいる。
「黙れ」
 短く言ってシェイティはタイラントを見つめていた。動きを妨げない程度に細く作った袖も、少しばかり長めにした胴着の裾もよく似合っている。
「ははぁ、なるほど」
 ちらりとシェイティのローブにリオンは目を走らせる。タイラントの衣装と対になるような色合いだった。それをいかにも魔術師らしくきっちりと着こなすかと言えばそうではなく、前も留めずに羽織ったままの彼だった。いかにも普段どおりの彼らしい姿にリオンはほくそ笑む。
 視線の先にある思いまでも見て取ったようなリオンの声にシェイティは答えない。代わりに思い切り爪先を踏みつけた。
「何してやがる、テメェ。じっとしてろ」
 無言で痛みをこらえたリオンの代わり、その隣から小声が飛んでくる。言うまでもない、カロルだった。シェイティはそれに煩わしそうに唇を引き締めるだけ。それが詫びだとわかるのはカロルだけだろう。
「まぁ、いい」
 謝罪を容れたのかどうか、シェイティにもわからなかった。カロルの翠の目が煌めいている。少しばかりいやな予感がしないでもない。シェイティが何を言うより先、するりとカロルが前に進み出しタイラントに並ぶ。
「陛下」
 玉座にあってタイラントの演奏に聞き惚れていた国王ノキアスにカロルは優雅に一礼した。それにタイラントがひくり、と怯えた。
「あの馬鹿」
 シェイティの小声は優しくリオンに無視された。それが気に障らないくらい、シェイティはタイラントを案じている。
 タイラントが怯えるその理由。カロルの呪紋だった。黒衣の魔導師の名に恥じない、漆黒のローブ。遙か以前はフードまでかぶって顔を隠していたものだが、今はフードは背にはねのけられている。
「よく見なよ、馬鹿」
 カロルのローブの裾に描かれた模様。それこそがタイラントの怯えの正体。目にしたものを敵味方かまわず恐怖させる呪紋だった。そもそもカロルが恐ろしい、というのはこの際横に置く。
「改めてご紹介申し上げましょう」
 だがタイラントの怯えは何も呪紋だけではなかった。はじめて見るカロルの姿。あまりにもふつうに穏やかに喋る黒衣の魔導師。タイラントにとって恐ろしくないはずがない。
「世界の歌い手、タイラントにございます」
 再び一礼する。その姿が当たり前の廷臣めいていて、タイラントは息が止まりそうなほど怖かった。思わず横目でシェイティを窺えば、こちらはこちらで渋い顔をしている。ぞっと小さく背筋を震わせた。
「素晴らしい歌だね。しばしの間であれ、我が宮廷に留まってもらえるのだろうか、吟遊詩人殿、いや、世界の歌い手」
「もちろんです! え、と。その――」
「留まらない理由がありましょうか? 世界の歌い手タイラントは我らが一員。星花宮の魔術師にいずれ加わることでしょう」
「カロリナ?」
「この者は世界の歌い手なれど我らが弟子の一人。いまだ魔術師とは言いかねますが、いずれは」
「なんと。それは驚いた。今代の世界の歌い手は多才なのだね」
 ノキアスが悠然とタイラントに微笑んで見せた。そのことにタイラントは身のやり場がなくなりそうなほどだった。カロルの指示で今日は星花宮の外に出るときいつもつけていた目の覆い布をつけていない。フェリクスを見ろ、と彼には言われていた。確かにシェイティも人間の幻覚をかぶってはいなかった。
 だから露わな色違いの両目。人間世界で忌まれてきた邪眼。それなのにノキアスは笑みを浮かべてまっすぐに自分を見ている。
「……精進いたします」
 この王に仕えたかった。吟遊詩人としてではなく、魔術師として。明らかな力として、この王に仕えたかった。タイラントの体の中に満ちていくものをなんと呼ぶのだろう。シェイティならばわかるかもしれない、不意に思って彼を窺えば、少しばかり口許がほころんでいた。
「さらに一つ、陛下にはご報告が」
 カロルの声音にあったものを聞き取ったのはタイラント、口調に忍んだものを感じたのはリオン。シェイティは訝しげにその師を見やる。
「星花宮は新たな魔術師を迎えましてございます」
 真正面を向いていたから、シェイティにもリオンにも、隣にいるタイラントにもはっきりとはその表情は見えなかった。
 けれどシェイティは感じた。リオンは更に感じた。カロルがいま、微笑んでいることを。むしろ内心では獰猛に笑っているだろうことを。
 さすがに鈍い廷臣にもそれは充分に感じ取れたらしい。ぞろりと宮廷がざわめく。カロルは意に介した風もなく、涼やかに微笑んでいた。
「珍しいね、魔術師が加わるとは?」
 ノキアスの言葉にカロルは得たりとばかりにうなずいた。王の言葉のとおりだ。星花宮に魔術師が加わるのは稀。ましてカロルは言った、魔術師、と。弟子ではない。
「中々に優秀な魔術師はおりませぬゆえ」
 シェイティは不安そうに背後の気配を窺う。さすがにここで振り返るなどとても無様でできなかった。
「リオン。聞いてない」
「さて。私も」
「嘘つけ。知らなかったはずないじゃない」
 小声でカロルの伴侶を非難しても気は晴れなかった。自分の知らないうちに星花宮が変わっていく。当たり前かもしれない、とも思った。
 我が儘で四年の長きにわたって星花宮を留守にしていた。カロルにはカロルの考えがあって、新しい魔術師を迎えようとしても当然のことなのかもしれない。
「シェイティ」
 新しい魔術に場所を譲るため、と言う理由をつけて下がってきたタイラントだった。そっと隣に立って人目につかないよう手を握ってくれた。
「平気。大丈夫。離して」
 無下に言ってしまった。その自覚はある。けれど言葉を費やせば、タイラントに気づかれてしまう、その声の震えを。断片のような言葉ですら、彼は聞き取るのだから。
「ご紹介いたしましょう」
 カロルがにこやかに振り返る。一瞬シェイティは師の視線にさらされた気がした。すぐさまカロルは前に向き直る。その不自然。
「カロリナ・フェリクス。前に」
 息が止まった。確実に心臓の鼓動も止まった。カロルが何を言っているのか理解はできても意味がわからない。
「お呼びですよ、兄弟子様」
 茶化したリオンの声に押されるよう、シェイティは前に一歩を踏み出す。やっと息をした。震える足を押さえ込み、シェイティはノキアスの前に一礼する。
「カロリナ・フェリクス。御前に」
 自分ではっきりとわかってしまった声の震え。忌々しいのに、そうとはとても思えない。タイラントはどう聞くだろう。ぼんやりとそんなことを思う。
「なるほど!」
 呵呵と王が笑っていた。すまし顔のカロルがすぐそばにいるのに、こんなにも遠い。リオンと並んでいまは立つタイラントの気配だけが、シェイティの近くにあった。
「フェリクス。いや、カロリナ・フェリクス。よく仕えよ」
「はい――」
「そなたの力も努力もよくよく知っている。期待しているぞ」
 温かい声だった。例の事件以来、気づけばシェイティにとって王は王だけではなく友人とも呼べるようになっている。その時間を思い出させるような声音だった。
「ご期待は裏切りますまい」
 顔を上げ、はっきりと言ったシェイティにノキアスもまた微笑んだ。カロルが小さく安堵の息をついたのが、ようやくシェイティの耳に入った。

 タイラントの披露目は無事にすんだ。披露目と言うよりはどう考えてもミルテシアへの嫌がらせなのだが、それはそれ、これはこれ、と言うことでタイラントは楽しんだらしい。すべて承知の上の茶番を物の見事にとぼけて見せたノキアス王に感嘆する。そのときの廷臣の声音やざわめきの響きを思い出しタイラントはこくり、とうなずいた。
「やっぱさ、これってあれだったんだよな。君はさ、俺の衣装と似た色合いを選んでくれただろ? これって、俺は君の保護下にあるからってことなんだよな?」
 守られている。それをわかっている。こんなにも嬉しい。タイラントは照れも隠しもせずに朗らかに言う。星花宮への道すがらだった。
 カロルとリオンはまだ王宮に用事があるとかで二人きりだった。少しばかり、シェイティは疑ってはいる。同行しないのは、自分の罵声を避けるためではないか、と。それがいささか不快だった。
「……お礼くらい、言わせてくれてもいいのに」
「シェイティ?」
 まるきり話を聞いていないことくらい、タイラントは知っていた。それでもよかった。再会し、星花宮に戻ってそれほど長い時間を経ているわけではない。
 けれど知っていた。どんなことでもいい。話題などなんでもかまわない。シェイティが自分の声を聞いていれば安心することをタイラントは知っていた。だから、無闇に喋り続ける。たまに羽目をはずしすぎて怒られはするけれど。
「ねぇ……」
 言って、シェイティは立ち止まる。話しかけたいのかそれとも黙っていたいのか。ぎゅっと握りこんだ拳が痛そうでタイラントはその手を包み込む。
「あ」
「傷になっちゃうからさ」
「僕は吟遊詩人じゃない。別に平気」
「よくない。っていうか、痛そうで見てるのが嫌なんだ、俺の我が儘でごめんね、シェイティ」
 にっと笑ったタイラントの色違いの両目。星花宮はもうすぐそこだった。花々の咲き乱れる、人気のない小道。あと少し行けば、部屋に戻れる。けれど。
「シェイティ……!」
 彼はタイラントの肩を掴み、そのまま胸に埋もれた。抱きつくのではない。すがりつくように、けれど動かずひたすらにじっと。
「シェイティ」
 驚いたのは一瞬のこと。タイラントはその一瞬すら後悔するよう、シェイティを抱きしめる。背を撫でて思い出す。以前、小さな真珠色の竜であった自分のこと。その背を撫でてくれたシェイティの手。
「……不意打ち」
「うん?」
「知らされてなかったの! はじめて呼ばれた。信じらんない。どうして……!」
 震え声のシェイティに、はたとタイラントは悟る。先ほどのこと。宮廷での一場面。
「君の、名前?」
「名前だけど名前じゃない。はじめて、一人前って呼ばれたの。カロルの名前……くれたんだ……僕に。僕にだけ。リオンにもあげなかった名前なのに。僕には、カロル、くれたんだ……」
 まだ意味などわからない、タイラントには。漠然と大事なものをシェイティはその師からもらったのだとだけ、わかる。
「カロルが、僕に名前をくれた。僕にだけ、くれた。……僕を一人前の魔術師って、認めてくれた」
 いつかこの言葉の意味を教えてもらえる日が来るだろう。あるいはそっとリオンにでも聞いてしまうほうがいいのかもしれない。
「ううん。待ってるから」
 いつか彼が自分で話してくれる気になるその日まで。
「タイラント、ごめん――」
「待ってるよ、シェイティ。俺は君が好きだから。だから、君の言葉が早くわかるようになりたいな。頑張るけど――」
「努力、しなよ」
「うん」
 見上げた色違いの目は笑っていた。冗談のように、当たり前のように。こんなに拙い自分なのに、タイラントは笑って待っていてくれた。
「……待たせるの、気分いいかも」
 ぽつりと呟いた途端に上がる慌て声。シェイティは小さく笑って王城を振り返る。視線の先にいるのはノキアスだろうか。否、カロル。
「絶対、いつか勝つ」
 タイラントの華やかな悲鳴が聞こえてきたけれど、シェイティは聞こえないふりをして歩き出す。部屋まではもうすぐそこ。
「ちょっと待て、シェイティ、どういう意味だよ、それって!」
 何か甚だしい勘違いをしていたのではないか。タイラントは不安におののきながら彼を追う。追いながら、ここからはじまっていくのを感じていた。自分たちの、魔術師としての星花宮での暮らしが。駆け足でシェイティを追いかけ、追いすがる。
「ずっとこんな風に生きていきたいな」
 タイラントの笑い混じりの声をシェイティは聞こえないふりをした。だからタイラントは知っている。いまの言葉が彼の心の奥底にまで届いたことを。




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