一足で父と姉のところに戻った娘は笑っていた。先ほどまでの笑みではない。何かが違う。
「公爵」
 その声の鋭さ。さすがに身分の外にいるものとはいえ、面前で敬称まで外しはしない。だが、娘はそうした。
 それを咎めるまでもなかった。否、咎める暇がなかった。公爵は息を飲む。リリーに指差された、と思った瞬間に足が動かなくなった。ぞくりとして下を見れば、爪先からふくらはぎまで凍っていた。骨までしみる冷たさが、これが幻でも手品師の技でもないことを知らせている。
「お館様!」
 突如として混乱に陥った家中だった。だが娘たちも父親も意に介しなどしない。
「騎士団長。右から三番目、七番目、その後ろ、二、四、五。左、一番目、五番目、剣抜いたやつ。片っ端からだ」
 ローズの声にあわせて、指示された男たちが瞬時に凍り付いていく。あっという間の出来事だった。信じられない貴婦人たちの呆然とした表情と、自由を取り戻そうとする男たちの怒号が妙に象徴的だ。ラディッシュ一座は、自分たちは関係ない、と悲鳴を上げる芸人たちなど一顧だにせずただ公爵だけを見据えていた。
「スクレイド公爵。国王の命により捕縛する。もっとも、素直に捕縛させてくれやしなさそうだったんで先にそうさせてもらったがな」
 黄金の薔薇のような娘の唇から、それも花びらのような可憐な唇から出るとはとても思えない台詞であり、語調だった。
「貴様! 何者だ!」
 氷は公爵が身じろぐたびにせり上がってきていた。いまはもう腰までも覆っている。ひしひしと感じる恐怖を紛れさせたくて叫んだのかもしれない。
「陛下の命を忠実に果たす――」
 にっと、ローズが笑った。精悍で猛々しい。これは娘ではない。人間ですらないかもしれない。何か別の生き物だ。目にしたものすべての背筋が冷えていた。芸人たちの喚き声までぴたりと止まる。
「星花宮のメロール・カロリナ」
 ちらりと父を、否、間違いなく父ではない男を見る。公爵の叫び声など気にした風もなく父と名乗った男は肩をすくめた。
「同じく、リオン・アル=イリオ」
 さらりと姿が解けて崩れる。そこにいた甘い華やぎの娘はもうどこにもいなかった。リュートを奏でる座長もいなかった。
「同、カロリナ・フェリクス」
 ひっと公爵が息を飲む。飲むどころではない。呼吸が止まるかと思った。たおやかな娘は闇エルフの子に姿を変えていた。
「この僕に女装させるなんてどういう了見かと思ったけど」
「女装ですか、あれ? 正しくは愛らしい娘の幻影、だと思いますけど。元が残ってるからカロルなんてもうたまらなく可愛かったですよね」
「あれが可愛く見えるなら目医者にいったら? それと、僕には幻影だろうが女装だろうが一緒なんだけど。どっちにしても不愉快だよ」
「でも実際、効果的でしたねぇ」
「黙れ、リオン」
 肩をすくめた神官服の男こそ、星花宮の魔導師にしてエイシャ女神の総司教に違いなかった。宮廷で、確かにスクレイド公爵も見かけたことがあった。だが、混乱はきわまるばかり。
「わ、私が何をしたと言うのだ。陛下がなにを仰せになったと! 貴様らの暴走だろう、そうだろう!? 忌まわしい闇エルフの子がいるような――」
 公爵は最後まで言えなかった。凍りついたままの体に向かって飛んできた火矢。否、炎の塊が矢と化した武器。頬を掠めて背後の壁に刺さって消えた。
「俺の弟子を侮辱しようってんなら相手になるぜ」
 いまはいつもの黒いローブに戻ったカロルだった。その眼差しの険しさだけで充分、脅威に値する。
「馬鹿なこと言わないで。嘲われたは僕だ。自分のことくらい自分でする」
「生意気言ってんじゃねェぞ、馬鹿弟子が」
「はいはい、二人ともその辺で。まずはお仕事ですよ。スクレイド公もなんの嫌疑かも聞かされなきゃ納得できないというものです」
「はっ。わからないほど馬鹿か? とっくに悟ってるっつーの。そうだよな、公爵閣下」
「当たり前だよね。わからないはずないよね。それとも、身に覚えが色々ありすぎてわからないってやつかな」
「あぁ……それは無きにしも非ずですねぇ」
「その辺はそれこそ俺らが関知するところじゃねェな。城に護送したあとでいくらでも向こうで調べんだろ」
 実に無造作な口調で言葉を交わす三人の魔術師に、公爵は当然、家中の者らも体の震えが止まらなかった。それらをひとまとめにカロルは睨みつける。
「テメェが若い娘を密輸してるって話だからだ」
「一応、補足しておきますとね。あなたは人身売買の疑いで逮捕命令が出てるんですよ。密輸といえば密輸ですかねぇ。なぜ我々が出てきたか、ですけど」
 きりり、とカロルの歯を食いしばる音が聞こえてきそうで公爵は震えが止まらない。
「物品の密輸なら、それだけなら僕たちが出てくるこことはない。国王直属の機関がいくらでもある。でも娘じゃね」
「さすがに素人の娘さんに囮になれ、とは言えませんからねぇ。そこで我々魔術師の出番、と言うわけでして」
 にっこりとリオンが笑う。だがその目は氷のようだった。まるで汚物でも見るかのような目に公爵は視線を伏せる。それでもリオンの眼差しに射抜かれているような気がした。
「陛下はことを荒立てるおつもりはない。そのつもりでご婦人方も、他の方々も他言無用に願えるよな?」
 要請すると言うべきか、念を押していると言うべきか。いずれにせよ脅迫と言ったほうが正しいカロルの言葉にその場の無関係な全員が勢いよくうなずいた。
 そのときだった。広間の扉を蹴破る勢いで大勢が雪崩れ込んでくる。あの馬屋にいた巡礼者たちだった。なぜかあの派手な尾花栗毛で不恰好な馬のラディッシュまでとことことついてきている。
「遅い」
 むつりと言うフェリクスに馬が飛び上がって居竦んだ。器用な怯えようにリオンが微笑む。
「申し訳ない――」
 自分が怒られたと思ったのだろう、巡礼が頭を下げる。だが巡礼らしい謙虚さを彼らはすでに拭い捨てていた。今はじめて彼らを見た人々は決して巡礼者とは思わないだろう。
「貴様ら、いったい――!」
 こりもせず叫んだ公爵にカロルが哀れみの目を向けた。冷ややかなその視線に公爵が怯んで視線をそらす。それくらいならばおとなしくしていればいいものを、と思ってもカロルは言わなかった。
「陛下は大事にするつもりはない。そう言ったな? テメェはどう思ってっか知らねェけどよ、理由もないのに近衛騎士団が雪崩れ込んできたら世の人はどう思うかなァ、え?」
 白々しいほどのカロルの言い様にようやく公爵も悟る。これは巡礼に扮した近衛騎士団だ、と。
「よく納得してくれたよね。陛下の最も親しい騎士じゃない、近衛騎士って? それをまぁ、こんな扮装させるなんてカロルもよくやるよ」
「内密にというのが陛下のお心ですからねぇ。星花宮の魔術師も国王の臣ですし、無論言うまでもなく近衛騎士団はその際たるものですし。いい手だったと思いますよ、私」
「あなたがいい手だと思っても騎士たちがよく納得したよねって言ってるの、僕は。聞いてる?」
「ま、一応は」
「テメェら。じゃれてる暇があったらとっとと捕縛しろ。氷漬けになっちまったら面倒だ」
 なんとか身の自由を取り戻そうとあがく騎士たちも公爵も、そろそろ胸の上まで氷が上がってきている。抵抗するたびに効果を増すように組み立てている呪文だ。フェリクスにとっては当たり前の現象だった。
「とりあえず死なない程度に呪文を構成してるけど?」
「いーからさっさとやれ」
 どことなく疲れたようなカロルの声だった。ふ、とリオンが彼を見つめる。それに小さくカロルは首を振っただけで答えに代えた。
 わかっていた、リオンには。本当はこんなことはしたくない。無論、国王の内命を受けてのことだ。否やはない。だが。先ほどフェリクスはさらりと女装は不愉快と言った。
 けれど本当にそれだけのものだったのだとはリオンも思ってはいない。彼ら二人の師弟にとって、それは思い出したくもない過去をまざまざと蘇らせる行為であったに違いない。二人とも納得しての行為ではあるが、心の疲労は拭えない。
「ねぇ、そこのダメ師匠」
「テメェな……」
「いま変なこと言ったよね。誰がじゃれてるって? 馬鹿なこと言わないで!」
 憤然と言ってフェリクスはカロルを睨みつけて背を返した。不意にカロルの口許がほころぶ。弟子に気遣われた自分を苦笑したのかもしれなかった。
「妬けますねぇ」
「馬鹿なこと言ってねェで仕事しろ、仕事」
 ちらりとリオンに笑って見せてカロルは騎士たちを振り返った。訝しそうな、物問いたげな視線を先程から感じていた。
「なにか?」
 騎士団との交流がないわけではない。むしろカロルはよく接しているほうではある。ただ、若い騎士と、それも剣で立ちあうのを好んでいるだけあってなかなか星花宮と近衛騎士団、と言う組織同士としては交流がない。もっとも、いまは騎士団の精鋭である彼らにしても若いころにはカロルに演習場でさんざん叩きのめされているので顔見知りではある。
 騎士叙任も済んでいないころからさんざん立ちあったくせにあれから一日たりとも老いたようには見えない魔術師に向けて、捕縛隊の隊長は苦笑いを浮かべた。
「いや、あなたの言葉を疑うわけではないのだが……」
「あぁ、わかりました。それはそうですね」
 にっこりと笑ってリオンが口を挟んだ。カロルの横に並んで気づかれないようそっとその手をとる。見咎めたフェリクスが嫌な顔をし、けれど何も見なかったふりをして一人ずつ氷を砕いては殴って意識を失わせていく。呆れた若い騎士が呆然と縄をかけていった。
「彼らを捕縛する根拠、ですね?」
「えぇ、できればそれを教えていただきたく思います」
「中々説明は難しいんですけどね」
 リオンは困ったように笑みを浮かべて天井を仰ぐ。それからとりあえず説明をするか、とでも言いたげな溜息をついた。
「カロルとフェリクスに囮を務めてもらったのはご存知ですよね?」
 騎士は硬い表情でうなずいた。それが騎士の良心に反するから、と言うのではない。確かにカロルもフェリクスも美貌だ。女装して黙って立っていれば、美女には見えるだろう。




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