身分に捕らわれない、と言う人たちがいる。旅芸人や吟遊詩人、いわゆる流浪の民たちだ。彼らは貴族の館にも、それどころか国王の面前にも出ることができる。その代わり、国の保護はない。国家の民としての義務を果たさない代わりに保護される権利もない。それが彼らだった。 今日もここ、ラクルーサの南方にあるスクレイド公爵の館は賑やかに旅芸人を迎えている。見るからに威厳もあり、押し出しも立派なスクレイド公ではあったが、殊の外旅芸人の芸を愛するという。 「いやぁ、噂話は耳にしていましたけどねぇ。こんなに歓迎してもらえるとは思ってもいませんでしたよ」 到着したばかりの芸人一座は三人ばかり、と言う小さなものだった。中でも座長と思しき壮年の男がにこやかな馬屋番にこちらもにこにこと話している。 「お館様は大の芸人好きさ。あんたも稼げるぜ」 「そりゃなんともありがたいですねぇ。最近さっぱりで」 「あんた、どっからきたんだい?」 「王都のほうからですよ」 「なんだ。王都じゃ稼げないかい? 王様はあんまり芸が好きじゃないのかね?」 「いやいや。私らは小さな一座ですからねぇ。なんとも中々」 懐の寂しさを感じさせる溜息だった。座長はラディッシュと名乗り、たった一匹の愛馬の背に手を置いた。 「どうです。大丈夫ですか」 「あんた、変わってるなぁ。馬と話すのかい?」 「だって、大事な馬なんですよ。我が一座の大切な足ですからねぇ」 「ところで、だ。一座って、あんた……」 あとの二人はどこにいる、と馬屋番が問おうとしたときだった。華やかな笑い声とともに二人の娘が駆け込んできたのは。 「父さん!」 愛らしい娘だった。可憐な顔立ちを豊かな金髪が飾り、森のような深い翠の目が父と呼んだラディッシュを見上げている。首に腕をかけて飛びついてきた娘をラディッシュは笑顔で抱きとめていた。 「大丈夫だったかい? 遅かったから心配したよ」 「心配性。平気よ……父さん」 答えたのは金髪の娘ではなかった。馬屋番がその落ち着いた声に振り返る。こちらもまた美しい娘だった。長い黒髪を一つに三つ編みにして胸にまわしている様も、穏やかな黒い眼も清楚だ。こちらの娘はラディッシュに似たのだろう。父と同じ色の髪と目だった。 「そうは言ってもねぇ。年頃の娘だ。父さんは心配だよ」 なぜかラディッシュは少しばかり笑いをこらえるよう黒髪の娘に言う。 「私のことより、ラディッシュ。平気?」 馬屋番は驚いた。娘と思っていたが、違うのだろうか。いや、確かに先ほどは父と呼んだはず。馬屋番の混乱に気づいたのは金髪の娘だった。 「違うわ、父さんじゃないの。こっちよ、この子」 そう言って娘は一座の愛馬の背に手を置いた。途端に馬が小さく嘶く。 「馬のラディッシュ。ちっともぴりっとしたところなんかない、ぼんやりさんなのよ。でも、可愛いでしょ?」 にっこり笑って娘は馬の首に頬を寄せた。可愛くて仕方ない愛馬へのその情に馬屋番の頬が緩む。なぜか馬はおどおどと足を組み替えてはいたが。 馬屋番の目で見るからこそ、ではなく現にいい馬とはとても言いがたかった。見てくれは大変に素晴らしい。艶やかな栗色の馬体に鬣と尾は刈り入れ時の小麦畑もかくやと言わんばかりの見事な金。それは見事な尾花栗毛だ。 だが、馬としての形がいけない。ずんぐりとしたところは農耕馬を思わせるが、それにしては足が細い。どうにも不恰好な馬だった。 そんな馬、と言ってしまってはいけないが、不細工な馬に対する娘の愛情に馬屋番はいっぺんでこの一座が好きになった。満面の笑みで娘と一緒に馬の首を叩いてやる。気が小さいのか、ずんぐりとした馬は怖がってまた震えた。 「ローズ。ラディッシュから離れて。怖がってるわ」 「違うわよ、姉さんの気のせいだわ。ラディッシュ、あたしのこと、好きよね。怖くなんかないわよね?」 翠の目に覗き込まれた馬ははっきりと震えていた。つぶらな瞳から涙をこぼさんばかりにしているのに姉のリリーは溜息をつき、妹を馬から引き離す。 「怖がってるのよ、あなたのこと」 「違うわ! 違うもの。姉さんの意地悪!」 「意地悪なんかじゃないでしょう」 「ラディッシュ。あたしのこと、好きだよね?」 もう一度覗き込まれた馬はぶるぶると震えていた。まるで救いを求めるようリリーを見やり、そして人間のラディッシュを見つめる。 「ほらほら娘たち。そろそろ身支度をするんだよ。今夜はスクレイド公爵様の御前でのご披露だからね」 「はぁい。でもラディッシュはあたしの――」 「ラディッシュが好きなのはあなたじゃなくて私よ、ローズ。そうよね、ラディッシュ?」 姉娘の黒い目に微笑まれ、馬のラディッシュは失神しそうなほどに震えた。どうにも娘たちと馬の相性はよくないらしい。苦笑して馬屋番は馬の首を撫でてやった。 「失敬。こちらで休ませていただけると伺ったのだが」 不意に声がして振り向いた馬屋番も、芸人一座も驚く。そこには大勢の巡礼がいた。総勢で三十人ほどだろうか。 「はいはい、どうぞ。聞いとりますよ。こちらでお休みなせえ」 馬屋番は打って変わって丁寧にそう言った。見れば巡礼はマルサド神の神殿を詣でる途中らしい。戦神の巡礼は各地の神殿をまわって修行を積む、と聞く。彼らもその一行だろう。 「これは忙しくなりそうですなぁ」 どうやら馬の世話は頼めないらしい。自分で何とかしなくては、とのラディッシュの呟きに馬屋番は笑って世話を申し出、彼もありがたくそれを受け取って娘たちを促した。すれ違うとき、慎ましやかに巡礼たちが頭を下げた。 まるで王の御前のような華やかさだった。今日招かれたのはラディッシュ一座だけではない。吟遊詩人あり、大道芸ありと祭りのような賑やかさだ。 「やんごとなき公爵様。今宵一夜、ラディッシュの娘たちの踊りをご堪能あれ!」 代わる代わる進み出た芸人たちが一段落したとき、ラディッシュが進み出てゆったりと腰を折る。馬屋にいたときとはがらりと変わった優雅な姿だった。南方風に額に鮮やかな布を巻き、長く垂らしたそれが床を刷く。ありきたりの黒髪黒目がぐっと引き立って見えた。 「公爵様に幸福を!」 金髪のローズが躍り出る。十代もまだ半ばだろうその細い肢体を、こちらも南方風に彩り豊かな模様を描いた幾枚もの布で覆っている。貴婦人たちには裸同然に見えかねない。現にざわめいた。 「公爵様に豊かさを」 滑るような足取りで進み出たのは姉のリリーだ。妹と同様の衣装ながら彼女は何枚も無地の白を重ねている。手をひるがえし、足を進めるたびにその重なりがほどけては下の素肌を透けさせる。見えそうで、見えないもどかしさだった。 「これは愛らしい娘たちだ」 微笑んで鷹揚にうなずいた公爵ではあった。だがさすがに壮年の男性だ。娘たちを見る目にちらりと好色そうなものがよぎる。 「さぁ、娘たち。公爵様にたっぷり楽しんでいただけ。そうすれば私の懐もたっぷり暖かくなるというもの」 父の戯言に公爵のみならず娘たちも笑った。そして父が構えたのは中々立派なリュートだった。旅芸人の一座には相応しくない、と公爵が目をみはるのも束の間。 娘たちが父の奏でる音色にあわせて踊りだす。方や黄金の薔薇のように芳しく、方や谷間の百合のように清楚に。 「これは、中々」 公爵家家中の人々も目を丸くしていた。娘たちのなりを見た限り、踊りとは口ばかりで夜も更けてから色を売る辺りだろうと思っていたものを。 「さてさて、娘たち。お前たちだけが楽しく踊っていてよいものかな?」 ラディッシュのからかい声にちらりとローズの口許が笑う。リリーは笑みを浮かべたままひたと公爵を見つめていた。無作法ではある。無礼でもある。だが、旅芸人だ。彼らにはこんなことも許される。公爵はリリーの透ける布地を目で楽しんだ。 「姉さん」 一言告げてローズは走り出す。小さな足は小鳥のように宙を舞う。本当に、宙を駆けたかのように見えた家中の人は目を瞬く。 「さぁ、踊りましょ」 だからすぐ目の前に現れ出た娘の手を拒めなかった。最初の者こそ、公爵の顔色を伺ったが、主人の許しを得たと思うやこの魅力的な娘の手を握り締めて離さない。 ローズはこんな男の手を難なくかわし、次々と踊りの輪に誘っていく。ひらひらと飛び回る様は蝶のよう。 その間もリリーは広間の中央で一人、踊っていた。単調なリュートの拙さも気にならないほど、蠱惑的な踊りだった。 人の視線がローズにばかり流れるようになったと見るや、リリーは一枚、布地を体から落とす。途端に公爵ばかりかローズに誘われた男たちまでもがリリーに釘付けになった。 「ローズ」 姉が妹を手招く。 「私ばかり、ずるいわ」 言って、踊りながら妹の肩に手をかける。かけたと思ったら引き下ろす、まとった布地とともに。 「おぉ……」 男どものざわめきに、ラディッシュの口許に小さな笑みが浮かんだ。 いまや鮮やかな布を剥ぎ取られ、体が透けそうなほど薄い、桃色の布地に覆われただけのローズの手をリリーはとった。 見ればいつの間にかリリーがまとう布も妹と同じほどに透けている。あでやかな娘が、慎ましやかな娘が互いに手をとり絡み合うよう男たちの前で踊る。息を飲むどころか唾を飲み込まなかった男はいない。眉を顰めているのは貴婦人くらいなものだった。 「愛らしいな。娘、これへ」 公爵が言った。にこりと笑った娘たちは顔を見合わせる。それから恥らいつつも進み出たのは妹。 「公爵様?」 ローズは公爵までも踊りの輪に誘おうというのだろうか、その手をとる。 「娘、名は」 華奢なその手を握り締めたまま公爵は問うた。これは所詮、旅芸人。一夜の慰みになぶるにはうってつけだった。 だが娘は目で笑っただけだった。いったいどこをどうしたものか、その手を公爵から取り返しひらりと宙を舞う。 |