シェイティが、一歩進み出た。老人は不思議そうな顔をし、タイラントはなぜか止めようとした。それを煩わしそうに彼は振りきりミカの前に立つ。
「なに?」
 恐れを知らない子供は訝しそうにシェイティを見上げただけだった。それに彼は口許をほころばせる。
「君に、お礼を言わなくってはね」
「僕に?」
「そう、君に」
 驚いて目を丸くする少年にシェイティは首をかしげて見せた。何かを考えている、それも楽しいことを考えている彼の見慣れた姿ではあったけれど、タイラントはわずかに懸念する。
 シェイティが考える楽しいこと、は時折一般的な基準から外れる。そのようなことを考えていると感じ取らなかったはずはないのにシェイティは何事もなかったかのよう、少年を覗き込んだ。
「君はこの男を僕に返してくれた。ありがとう」
「僕!? なんにもしてないって。そう……聞いてないの?」
「この男がなにを僕に言ったかは問題じゃないんだ。僕は、君がこの男を正気に返すきっかけの一つをくれたと知ってる。だから、ありがとう」
「そんな……うん、でも」
 成人男性にしては小柄だが、態度の大きなこの青年が、偉い人でないとはミカは思わなかった。たとえ彼が何者か知らなくとも。
 そんな立派な人が自分に向かって頭を下げている。どうしたらいいのかわからなくて祖父を見れば微笑んでいた。世界の歌い手も感激に目を潤ませていた。
「僕にはお礼の言葉くらいしかあげられない。なにを喜んでもらえるか、ちょっとわからないからね。だから、この男に礼をさせよう」
「ちょっと、シェイティ。勝手に決めるな」
「なにあなた、礼はしたくないなんてぬかすんじゃないだろうね。僕はそんな礼儀知らずを僕の男にしたつもりはないんだけど?」
「ないない、そんなことは言わないって! 俺が言ってるのは、勝手に決めるなってこと」
「いいじゃない。僕のすることなら許してくれるでしょ?」
 にこりと笑ったシェイティの、その笑顔がどこまで本心か、タイラントだけが知っているのは、実に遺憾なことだった。
「……まぁね」
 それだけを言えば老人と孫が揃って笑った。肩をすくめてタイラントはシェイティのなすがままに流されることに決めた。それ以外、他に何もすることがない。
「お許しが出たみたいだから話を戻そうか? ねぇ、ミカって言ったよね。君もいつか、たぶん好きな人ができるよね。一緒に暮らしたいって思ったり結婚したりするかもしれない」
「うん、まぁ、そうだと思う」
 それが普通じゃないか、とミカは首をかしげてシェイティに無言で問いかける。それに彼はうなずき、微笑を浮かべた。
「だからね、そのときにはお祝いに、この男に歌わせよう。結婚式の吟遊詩人に世界の歌い手って言うのは、悪くないんじゃないかな?」
「すごいよ! ねぇ、ほんと?」
「僕はお礼がしたいんだ。嘘は言わないよ」
「すごい……」
 いまだ恋人の一人もいないはずのミカは目をきらきらさせて喜ぶ。老人のほうがかえって恐縮した体だった。
「でも……どうやって来てもらったらいいの?」
「この男を呼ぶときには、風に向かって呼べばいい。それだけで、どこにいても、なにをしていても駆けつける。必ず。約束するよ」
「駆けつけるのは俺であって君じゃないと思うんですけど。まぁ、でもそれは本当。必ず来るよ。俺も楽しみにしてるから、絶対に呼んでよ、ミカ」
 タイラントが言い添えれば、ミカにもようやくとんでもないことらしい、とわかってくる。それでも辞退する気はさらさらなかった。
「ありがとう! すごく嬉しいや。でも、なんだか風に向かってか……魔法みたいだね」
 少しばかり悪戯めいて言うミカにシェイティは静かな笑みを浮かべたまま問いかける。
「魔法は、嫌い?」
「全然! かっこいいよね! 使いたいとは思わないし、できないと思うんだけど、見るのは大好き。でもあんまり魔法使いっていないでしょ。つまんないな」
 もじもじと、こんなことを初対面の人に向かって言ってしまったばつの悪さもあらわにしながらミカはそれでも言い切った。シェイティがはっきりと笑みを深める。
「ならば、改めて名乗ろう。僕は星花宮のカロリナ・フェリクス。これが僕の最も正式な名前だよ」
「星花宮……? 魔術師……」
「そう。ラクルーサの宮廷魔導師だよ。君の言う、魔法使いだね」
「ほんとに!?」
「恩人に嘘つくほど僕は厚かましくないよ」
 少年相手に容赦もせずシェイティは言い、けれど顔は笑っていた。
「あんた、魔術師だったのかい」
「うん、こいつもね。いまじゃ僕の弟子だよ」
「弟子?」
 恋人ではないのか、と疑問を目に浮かべた老人にシェイティは目を細めて笑いながらタイラントの隣に腰を下ろした。
「弟子でもある、にしておこうかな」
 わずかに訂正すれば老人は呆れ顔で小さく笑った。シェイティの口調に慣れてきたのだろう。
「シェイティ? なにそれ? 説明、してほしいなぁなんて思うんだけど」
「僕に説明を求めるのは無駄だって何度言ったら覚えるの。できないんじゃなくてする気がないんだけど」
「ちょっとは持ってください、頼むから!」
「やだね」
 無下に言い放ち、シェイティはなぜかミカに向かって片目をつぶった。突然始まってしまった口論に体を硬くしていたミカが思わず吹き出す。
「詮索する気はないんだがね、シェイティってのはなんなんだね」
「僕の子供時分の呼び名ってところかな。むしろ師匠の悪口なんだけど」
「そんなもんであなたはこのお人を呼んでるのか。ちょっと考え直したほうが良くないかね」
「ちょっと待ってくださいって。シェイティって呼べって最初に言ったのはこの人です! 俺が嫌がらせしてるわけじゃない」
「あのときは本名を名乗る気はさらさら? 毛ほども? 微塵も? なんでもいいけど、とにかく表現しうる限り完全に、なかったからね」
「……そこまで念を押さなくってもいいと思うんだけどなー」
「当時はって言ってるじゃない」
「もしかして……」
「あなた、本気で本物の馬鹿なんじゃないの。僕が遠慮なんかすると思ってるんだったら、耳と耳の間が本当に不自由なんだと断言する。僕は嫌がってないし、あなただけはそう呼んでいいと思ってる。むしろ、あなたに呼ばれるんだったらそれがいいなって思う」
 ミカはなんという暴言、と目を丸くした。老人はなんという盛大な惚気かと、やはり目を丸くした。そんな二人を前にタイラントは言葉を失い、それから照れたようにうつむいた。その拍子に、目の覆い布がずれたのを、タイラントは無意識に直す。
「それ、邪魔じゃないのかね。隠しておきたい傷がある?」
「え……あ……。その」
「隠したいものなら暴こうとは思わんがね。邪魔だったらお取りになればいい。お気遣いは無用だ」
 老人は、この下にあるものを知っていて、言うのだろうか。そのようなはずはない。いまここで布を取ればこの友好的な雰囲気など飛んでいってしまうかもしれない。
 タイラントが悩んだのは、一瞬と言うには長かった。ちらりともシェイティを見ず、彼は決めた。ゆっくりと布に手をかける。
「うわ」
 ミカが思わず上げた声に老人は孫の背中を軽く打つ。それに気を取り直し、ミカはにっこり笑ってまっすぐタイラントを見た。
「綺麗なもんだ。実に華やかな風貌だな、吟遊詩人とはかくあるべし、とでも言おうか」
 長い真珠のような銀髪に、左右色違いの目。その目を隠し続けてきたタイラントはただひたすらに息を飲むだけ。
 膝の上で布を握り締めたまま微動だにしないタイラントに代わってシェイティが口を開く。姿勢を正し、毅然と。
「ご老人に感謝と敬意を。今こそこの男は真に救われた」
 それは今までの口調ではなかった。宮廷魔導師に相応しい威厳と風格。その男がここまで丁重に頭を下げている。それに驚きを感じないはずはなかった。
「タイラントは長い間、この目を忌み嫌われ続けてきた。同族である人間から、魔族のように扱われてきた。本人は、目を隠せばいい、たいしたことじゃないと言うけれど、そんなはずはない。今、あなたから、同族からその目を褒められた。ほとんどタイラントを知らないあなたが、褒めてくれた」
「それこそ、たいしたことじゃない。長い年月を生きてくるとな、どうでもいいのさ、その程度のことは」
「そんなことはない。僕は老人ほど自らの常識に頑迷になるということも知ってる。あなたは、偉大な人間だ」
「とんでもないことだね」
 笑って老人はいなした。いまだ動くこともできないタイラントはただじっとして二人の言葉に耳を澄ませていた。瞬きをしただけでも涙が零れそうだった。
「ところでな、あんたは何もないのかね」
 茶目っ気もたっぷりに老人は言った。それにシェイティは苦笑する。
「あんたは人間が自分の同族だとは、言わなかったね? まるで他人事だった」
「ほんと……いい目をしてるよ。嫌になっちゃうね」
 肩をすくめてシェイティはまだ硬くなっているタイラントの頭に手を置いた。撫でると言うより、子供を慰める仕種だった。
「僕は闇エルフの子だよ」
「ほう、そうは見えんが」
「人間の前に素顔で出ると色々あるからね。ちょっと変えてる」
「この老いぼれなら平気だろ。孫はまだそんな年じゃない」
「まったく。魔法に疎いミルテシアってのはどこに行っちゃったの! どうして民間にこんな人たちがいるかな。ミカ、驚くと思うけど、僕のちょっとした魔法だよ、これが」
 少年に予告をしておいてシェイティは華やかに笑った。まるでタイラントのように。場のにぎやかしこそが本分、と言う彼がいまそれを果たせないのだから。
「すごい!」
 ミカは驚いた。けれど恐怖はしなかった。目を煌かせ、シェイティが姿を変えるところを食いいるように見つめている。彼が楽しんでくれることを期待してゆっくりと幻影を解いた甲斐があった、とシェイティは微笑んだ。




モドル   ススム   トップへ