その日の夕方には退去するつもりでいたものが、熱心に請われて結局、三日を過ごしてしまった。楽しい三日であったから、シェイティにも不満はない。
 不満どころか、星花宮で過ごす日々のように居心地が良く、同時に新鮮だった。
「それじゃ、楽しみにしてるからね」
 吟遊詩人としての腕をたっぷり披露したタイラントも満足そうだった。それこそ星花宮では魔法の修行に時間を費やしているせいで中々気の済むまで歌うことができない。
「なにを?」
 不思議そうにミカが言う。隣に立ち、見送ってくれている老人がからりと笑った。
「え……? あ! あぁ! うん! 僕も楽しみにしてるから、きっと歌いにきてよね、結婚式」
「ほんとはちょっと忘れてただろ」
「ちょっとだけね」
 弟に言うような口調でタイラントが言えばミカはにやりと言い返す。それから少しだけ惜しそうにタイラントの目を覆う布を見やった。
「まぁ、自衛だからさ」
 苦笑してタイラントは傍らのシェイティに視線を向ける。彼もいまはもう幻影を身にまとっていた。それも普段の彼の幻影だ。
 タイラントはそのことにほっとしている。決してカロルを嫌ってはいない、むしろ尊敬してはいるのだが、恐れているのもまた事実。彼の色彩を身につけたシェイティにはどうしても構えてしまう。
「僕も楽しみにしているよ、ミカ」
 くつろいだ様子のシェイティが、タイラントは嬉しくて仕方ない。シェイティの人間嫌いが自分を得て直ったかと言えば疑問だ、とタイラントは思っている。
 それどころか彼は直す気などないのではないかと思っている。そのシェイティが、これほど人間相手にくつろいでいる、それが心底嬉しい。
 盛大な見送りは望むところではなかったから、送ってくれるのは老人と孫の二人きり。タイラントたちは振り返り振り返り手を振る。見えなくなるまで彼らもまた手を振り続けてくれた。
「いい人たちだよね」
「だからあなたを助けてくれた」
「うん。ほんと、そう思う……」
 あのころこのことを思い出したのだろう、タイラントの表情が苦渋に満ちる。
「俺さ、あのとき。最低だった」
「いまが違うとでも?」
 茶化すシェイティに軽い睨みをくれておいてタイラントは口許をほころばせる。彼相手にいつまでも渋い顔はできなかった。
「じゃあさ、物凄く最低だった、にしとくよ。ほんとに、あれは自分じゃなかった、正気じゃなかったって言えればいいのに」
「言えば?」
「それを言ったら俺は本気で最低だよ」
「まぁね。言ったら捨てようと思った」
「だろ?」
 そんなことを誇らしげにタイラントは言い、シェイティの手を取る。手を繋いで歩くような年ではない、とはシェイティは言わなかった。
「俺は自分でわかんないんだ、今でもわかんない。あのときは全然わかんなかった」
「なにがさ」
「どうして君にあんなに怒ったのか」
「僕が嘘、ついてたからじゃないの」
 不思議そうに彼は言う。それから繋いだ手を握り返してきた。
「嘘つかれたくらいで? 俺は気が違うくらいに怒り狂って君にあんなことしたのか? それはそれで問題だと思うけどなー」
「僕だって思うよ。でも結局、そういうことなんじゃないの。それに、今更言っても仕方ないよ。僕も悪かったし、あなたも悪かった。どっちもどっちで変なところで似た者同士。どうしょもないよね、僕たち」
 さらりと言ってシェイティは空を仰ぐ。許されている、タイラントは強く感じた。詫びても詫びても許されるはずがないことをした。
 だから、決めた。あのときにも決めた。いまも決意を新たにした。
 二度とシェイティを傷つけたりしない。理不尽な暴力を振るったりしない。
 小さく笑ったタイラントに、シェイティが訝しそうな眼差しを向けてくる。
「うん……いや、さ。君を泣かせたりしないんだって、俺は何度も誓うんだ」
「そのわりにはあなた――」
「酷いことばっかしてるよな。なんでだろう。しでかすたんびに、またやっちゃったって後悔するんだけどな」
「頭悪いからじゃない?」
「そりゃないよ、シェイティ!」
「……いいんじゃない?」
 ぽつりと言うシェイティの顔を思わず覗き込んでいた。瞬きを繰り返して彼を見つめる。それほど意外な顔をしていた、シェイティは。
 幼いというには気高く、照れていると言うには毅然とした。こんなときタイラントは思う。シェイティ、小さな氷と言う名に彼は相応しいと。
「いいよ、別に。そんなあなたでも、僕はあなたがいいんだから」
 熱烈な告白を彼は透き通るように言う。タイラントを決して見つめはせず、どこか遠くを見たまま。それでもきっと彼の視線は、巡り巡ってタイラントを見ている。
「そう言ってくれる君だから。君のために、君に相応しい男になりたい。君の隣に立つに相応しいって誰からも、特に君に言ってもらえるような」
「先は遠いね、タイラント」
「そう言うなよ!」
 にっと笑ったシェイティの目がタイラントを見つめる。盛大な抗議の声を上げたのは、彼の目に心が弾んだせい。隠すのではなく、知らせるために。
 それをどう感じたのだろう、シェイティは。何も言わず小さく溜息をつく。そんな彼の仕種にわけもなく不安になったタイラントだった。
 わけもなく、ではないな、と内心で苦笑する。シェイティの一挙手一投足が気になる。ほんの些細な眼差しでさえ、心が騒ぐ。時には恐れに、時にはときめきに。
「ねぇ」
 黙って歩き続ける二人の間を風が吹きぬけていく。タイラントはその色を見ていた。
 竜であったころ、風が見えるかもしれない、そう感じたことは何度かあった。今ははっきり見える、と言える。
 魔法を習ったからだ、とタイラントは思う。シェイティがいるからだとも思う。彼が帰ってきてくれたから、自分の元に。自分こそ、彼の元に戻ったのかもしれない。
「うん。なに?」
 できるだけ朗らかに言えば、シェイティが少し笑った気がした。なぜ笑われるのかはわからない。それでよかった。
「僕のさ、この辺に……」
 そう言ってシェイティは自らの胸元に掌を当てた。まるで祈りの仕種だ、そう言えば彼は怒るだろう。祈る相手など持っていないと言って。
 シェイティは他者の信仰を認めても、自分の信仰を持ちはしない。彼が信じるものはただ自分のみ。それすら折に触れて揺らいでいる。それでも彼は自分を信じる。
 少しはこちらを信じて欲しい、タイラントは思わないではないけれど、シェイティ自身でさえも認めないどこかで彼から信頼されているのを感じないでもなかった。
「欠けてた場所がある」
 ぽつりとシェイティは言った。胸の中に欠けた場所。そんなことを軽々しく言う彼を思わず怒鳴りそうになってタイラントは口をつぐむ。決して気楽な発言ではなかった。
「欠けてた場所を、あなたで埋めてみればそれがなんだったか、わからないけどね。でも、あるんだ。あったんだって言うべきかな。今は、どうだろう。埋まってると思うんだ」
 胸に手をあてたまま、シェイティは歩いた。淡々としているのは歩調同様に口調も。速すぎもせず遅すぎもしない彼の足に合わせてタイラントは歩く。
「こうやってね、埋まってみて、はじめて僕は僕として機能した。言ってること、わかるよね、タイラント。あなたも、そうだよね。違う?」
「俺はこれでも吟遊詩人で、世界の歌い手なんて言われちゃってるけど、君の言ってることがわからない……いや、わかる気はする。言葉にすると、でも、違う気がするんだ」
「そんなことわかってるよ、僕だって正確なところなんかわからない。この世界のどこに自分の感じてることを正しく確実に伝えられる人がいるって言うの。まして僕はただの魔術師だ、吟遊詩人じゃない」
「ただのってあたりがどうかと思うけどねー。うん、でも言いたいことは飲み込んだ、と思う」
 少しずつシェイティの言葉の意味が染みこんでくる。驚きだった、タイラントの理解を妨げていたものは。
「吟遊詩人でもない僕が稚拙なたとえ話をしても余計わかりにくくなるだけかなとも思うけど。でもね、タイラント。僕らは出来損ないのからくり仕掛けみたいなものだと思わない?」
「それって……どういう……?」
 少しばかり茶化した口調にわずかなおののきを感じてタイラントはじっと彼を見る。そんなタイラントをシェイティは笑った。
「どっちか一人じゃまともに動かない」
「え……」
「わかる、タイラント? 僕はあなたがいなきゃ、壊れてるも同然。あなたは僕がいなきゃ出来損ない。そう、思わない?」
 くすりと笑ってシェイティは空を仰いだ。珍しく、照れたのかもしれない。タイラントは言葉もなくただシェイティを見つめることしかできなかった。
「僕らは、二人揃ってはじめて一人前。カロルが言ってたの、こういうことかな。弟子にしたい誰かを見つけてこいって、こういう意味だったのかな」
「弟子だったら誰でもよかったのかよ!」
「それくらい言わなくっても理解しなよ、馬鹿! 本当にあなたって、面倒くさい」
「だって、シェイティ!」
「うるさいなぁ、怒鳴らないでよ」
 さも嫌そうに言った彼は一人足を速めた。タイラントは一瞬、立ちすくむ。すぐに追ったとき、シェイティはいつもの歩調だった。追いつくまでもない。待っていてくれた。
「シェイティ」
「なに」
「ありがと」
「なにが」
「色々。全部。今までも、今も、これからも、ずっと」
「なにあなた、僕に延々と感謝し続けるつもり? いい根性だね。それだけ僕に迷惑かけ続ける、ごめんなさいありがとうって意味だよね?」
「ちょっと待て、シェイティ!」
「だってそう言ったの、あなたじゃない」
「違うから! そうじゃないから! 俺は君が好きで、君しか要らなくって、君が俺のそばにいてくれることがなんて嬉しいんだろう――」
「うるさい。知ってる。わかってる。もちろん、僕がなに考えてるかも、わかるよね、タイラント?」
「うん……わかる」
「ちょっと、照れないでよ! 違うから。僕はそろそろ星花宮に帰りたいなって思ってたの!」
「えー、ほんとー? ……って、殴るな! 天下の往来で手を上げるな! 蹴るなって、シェイティー。まったく、君ってやつは! いいよ、わかってる。そうだね、帰ろう。メグが待ってるよ」
「待ってるよ、じゃないでしょ。あなた、わかってないね。僕らが喧嘩してた間、あなたって人はどれだけたくさんの人に世話になったの。メグなんて筆頭じゃない。……あなたがそれだけの人に助けられた。僕は、それを通して僕自身も助けられた、そう思ってる」
 最後だけは、真剣な声だった。自らの力で立つ。自分自身だけが拠り所、そう考え続けてきたシェイティが、はじめて他人に寄せた信頼だったのかもしれない、それは。
「みんなのところに帰ろう、シェイティ」
 タイラントは微笑んでシェイティを引き寄せた。人目を避けて道を外れる。
「偉そうに言わないでくれる? 転移魔法を行使するのは僕だと思うけど?」
 タイラントが抗議する間もなかった。瞬く間に発動した魔法が二人を連れ去る。風が渦巻いたのは、もしかしたらタイラントの悲鳴の名残だったのかもしれない。




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