タイラントは、こんなに恐ろしい思いをしたことはかつてないと断言できるほど震えていた。仲のいい恋人同士のよう自分の腕にシェイティがすがりついている。その腕に感じるむっちりとした感触も、見上げてくる恐怖の翠の目も何もかもが怖い。
「どうしてそんなに怖がるかな」
「当たり前だろ!」
「ねぇ、あなた。そんなにカロルが怖いの」
 怖いに決まっている、とはタイラントは言わなかった。言わなくともシェイティに伝わった。それに顔を顰めるどころかシェイティはにっこりと笑う。
「シェイティ、それはお前のお師匠さんの顔だって言ったな?」
 トビィが訝しげに尋ねてくるのにシェイティはうなずく。実に楽しげで、あのころからはとても考えられない彼の表情だった。
「そう。星花宮のメロール・カロリナ。僕の師匠だよ」
 それで通じるわけはない。普通ならば。だがトビィはわずかに目を見開いた。応えてシェイティがにっと笑う。
 顔を見合わせ、互いに無言。元冒険者と現役の魔術師の間に通じたものをタイラント一人、気づかない。彼はそれどころではなかった。
「さぁタイラント、働こうか?」
 あえてぎゅっと体を彼の腕に押し付けた。途端に震えが酷くなる。
「ねぇ、あなた。別に女がだめってことはないよね?」
「好きだよ! 柔らかくって可愛い女の子は大好きだよ!」
「それを僕の前で言う度胸のよさを褒めるべきか、それとも馬鹿さ加減に呆れるべきか悩むとこだね」
「それはそれ、これはこれだろ……って言うか! いまはそういう問題じゃないだろ!」
「まぁ、別にいいんだけど。それなのにどうして嫌がるの」
「それがカロル様の顔だから」
 きっぱりと言ってシェイティを振りほどこうとするタイラントに彼は微笑む。一瞬怯んだ隙をついて再びしっかりとすがりついた。
「顔はカロルのでも、中身は僕だよ? そうだよね、トビィ?」
「あぁ、そうだな。ま、お師匠さんって人を知らんがね。少なくとも中身はお前だな」
「ほらトビィも言ってる。あなた、外見に惑わされすぎだよ。悪い癖だから直せば?」
 あのころ、人間を装っていたシェイティが、正体を明らかにした途端に惑乱したタイラント。それを言外に言えばタイラントは顔を顰める。
「わかってる。それは充分わかってる。中身が君だってのもよーくわかってる。惑わされてるんじゃない。その顔が嫌だ」
 言ってタイラントは恐怖に震えた。いるはずのないカロルが聞きつけたならばどうしようかと想像してしまったらしい。
「あなたに嫌がらせしたいわけじゃないんだけど」
「だったら!」
「でも楽しいからいいや。許してくれるよね、僕のタイラント?」
 絶対無敵に可憐な笑顔。カロルの顔で、シェイティが言う。タイラントは無条件降伏するより他に手段はなかった。何一つとして。せいぜい天井を仰いで溜息をつくくらいしかできない。
「生意気。溜息なんかつける立場?」
 つん、と顎を上げてシェイティが言えばトビィがからからと笑う。異論はあろうが、彼の目には仲のいい恋人同士に見えていた、外見に関わらず。
「立場ってなァ、なんだよ?」
「うん、今ね、こいつ。僕の弟子なの」
「世界の歌い手が、か?」
 驚きもあらわに言うのにシェイティは笑ってうなずいた。それをこそトビィは嬉しく思う。こんなによく笑う男だとは思ってもみなかった、と。
「歌ほど才能はないみたいだけどね、腕は悪くないよ」
 言葉とは裏腹にシェイティは弟子の技量を喜んでいるのだと感じないトビィではなかった。いまだ天井を仰いでいたタイラントも視線を戻し照れ笑いをする。不意に階下から喧騒。
「ほら、タイラント。お客さんだ。トビィ、歌わせてね」
「君が歌うんじゃないだろ!」
「あなたが僕の要請に従って歌う。なにか問題が?」
「……ないです」
「だって。ほら、行こう、トビィ」
 意気消沈して見えるタイラントだったが、シェイティはそれが半ば以上は演技だと知っている。元々トビィに礼をしたいと言い出したのは彼なのだ。
 あからさまに長い溜息をつき、タイラントは懐から布を取り出し片目を覆った。それからトビィに視線を向け、たいしたことじゃないとばかりに笑って背を向けた。
 店の主人を置いて部屋を出ようとする二人に呆れつつ、トビィは微笑んでいた。思わずぽつりと呟く。
「よかったな、二人とも」
 目の惑いほどの短い時間だった、シェイティが足を止めたのは。何事もなかったかのよう歩いて行く彼に引きずられるようタイラントが続く。
「ありがと、トビィ」
 それでも振り返ってタイラントは言う。シェイティに引っぱたかれながら果敢に。大笑いしながら、トビィは彼らに続いて店へと下りていった。

 ほんの一晩だけの興行だった。どこから聞き付けたのかトビィの店はあふれんばかりの人で埋め尽くされる。
 誰も彼もが世界の歌い手の音楽に酔った。中にはあの闇エルフの子を思い出したものもいて、そっとタイラントに何事かを申し出たりもした。
「ねぇ、なんの話? 私にも、聞かせて?」
 そのたびにとんでもない美少女が傍らから覗き込むようにして微笑む。タイラントの虚ろな笑い声を聞いて察するに、これが今の世界の歌い手の愛人なのだろう。
「なんだ、ねぇちゃん。焼きもちかい?」
「だって……私と知り合う前、この人がどんな人と付き合ってたのか、ちょっと興味があるんだもの」
 にっこり笑って言えばタイラントが小さく呻く。それを照れたと勘違いした客がさらに盛り上がった。
「ねぇ、私とその人、どっちが綺麗?」
「そりゃ姉ちゃんだ!」
「本当? だってこの人、私の顔が嫌いっていうの。ひどいでしょ?」
「なんて野郎だ! こんな男捨てちまいな。で、俺とどうだい」
 顔を突き出す男に美少女は笑って見せる。それからちらりとタイラントを窺った。
「あーえー、その。捨てないでくれると、嬉しいかな」
「私のこと、本当に好き?」
「もちろん!」
「だって、名前も呼んでくれないのに?」
 それはなんの嫌がらせか、とタイラントは心の中で盛大に呻いた。否、絶叫した。それでも美少女の顔をしたシェイティは優しく微笑んで首をかしげるのみ。
「……愛してるよ、うん。えーと、その。カロリナ」
 今ここでシェイティの名を出すのは論外だ。客の中に覚えているものがいたら大騒動になってしまう。だから、間違ってはいない。
 そしてカロリナはシェイティの名の一つでもある。男の名前で呼ぶわけにはいかないのだから、その判断もまた、間違ってはいない。
 だが呼んだ途端にタイラントは全身に鳥肌が立っていた。それはもう、悪寒などと言う問題ではなく、その場で卒倒したいくらいのものだった。
「どうしたの、タイラント? せっかく呼んでくれたのに、そんな顔して。私、喜んでいいのか、わからないわ」
 唇を尖らせて言うシェイティを今ここでぶん殴れたらどれほどすっきりするか、思った途端にシェイティがそっと目を細める。どうやら伝わってしまったらしい。慌てて首を振ってもう一度。
「愛してるよ、カロリナ」
 言えば強烈な眩暈と吐き気を感じた。もしかしたら自分はリオン総司教に今この瞬間、呪われたんじゃないかとまでタイラントは思う。気のせいだとわかっていたが、呪われたほうがいっそ気が楽だとも思った。
「嬉しい! 私もよ、タイラント。あなたが好き」
 やんやと囃し立てる客たちに、吟遊詩人の誇りをかけてタイラントは一礼する。竪琴をかき鳴らし、歌い始めたのは客のためではなく、自衛だ。これ以上シェイティに喋らせては身が持たない。
 客の相手をしながらトビィは違うことを思っていた。タイラントはいつ気づくのだろうかと。あの姿形をしながらでも、シェイティは人前で断言した、タイラントが好きだと。
 それに気づいたときタイラントはなにを思うのだろう。そしてシェイティは気づかせる気があるのだろうかと。彼に向かってちらりと視線を飛ばせば、シェイティはこっそりと片目をつぶった。
「気づかせる気はないってか? 意地の悪いことだ」
 くつくつと小声で笑いながらトビィは新たにジョッキを運んでいく。この日、トビィの店は一週間分の売り上げに等しい額を記録した。

「さぁ、これでいいの?」
 翌朝、名残惜しいながらも二人はトビィの店を後にした。姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれたトビィに、シェイティもまた朗らかに手を振っていた。
「うん、まぁ……」
「なんだよ、はっきりしないな。言いたいことがあるなら言えって何度言ったらわかるの。まどろこしいにもほどがあるよ」
「まず、その顔やめて」
 淡々とまくし立てるシェイティの言葉を遮るようにしてタイラントは言う。シェイティはまだ昨日の幻影のままだった。タイラントは世界の歌い手としての素顔、銀髪に隻眼なのだから、昨日の釣り合いと言う意味では取れていなくもない。
「なんで?」
「君さー」
「わかったよ、結構いい出来で気に入ってるんだけどな」
「それは俺の前じゃないどっかで披露して。本気で怖いんだからな」
 歩きながらぶつぶつとシェイティは文句を言い、かと思ったら薄暗い路地に一人で入っていく。程なく出てきたとき、それはいつもとは少し違うシェイティだった。
「どうしたの?」
「あなた、馬鹿? ねぇ、絶対に馬鹿だよね。あなたの頭の中はなにが詰まってるの。噂話が残ってるって確認したの、つい昨日のことだったと思うけど? いくら歌うからって記憶力まで鳥並みなの」
「そこまで言うか!」
「言われないように努力しなよ」
 傍らのタイラントの腕をきつく叩きながらもシェイティの機嫌は悪くなかった。
「まぁ、あの時のシェイティだってばれると確かに騒動だけどさー」
 今のシェイティは、彼が外出するときにかけている幻影に少しばかり変更を加えていた。普段の幻影はシェイティの闇エルフの子の特徴をわずかに緩和するものでしかない。人間に見えることが重要なのであって、シェイティにとっては必要不可欠の衣服のようなものだった。




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