ミルテシアの王都。トビィの宿は夕刻前のひと時、客足が絶える。稼ぎ時を前に一足先に夕食をとろうとしたトビィは、そんなときに限って入ってきた客に訝しげな目を向けた。
 一見して何者かわからない。そのようなことは客商売の長いトビィには珍しいことだった。真っ当な商売をしているようには見えない。間違っても農家の若者でもない。
 長い黒髪を綺麗に後ろで束ねた姿は姿勢こそよかったけれど、朴訥な雰囲気など欠片もない。かといって貴族の若様のお忍び姿かといえばそれも違う。
「いらっしゃい」
 トビィの挨拶が遅れたのも、そんな理由からだった。だが若者は意外と人懐こい顔をして笑いを返す。それから首を巡らして店内を見やった。
「よかった、暇そうだ」
 その言葉にトビィはむっとする。暇そう、と言われて喜ぶ店主はいない。そんな表情を隠すこともしなかったトビィに若者は慌てて近づいてきた。
「ごめん、暇なのを喜んでるんじゃなくって、トビィ。ちょっと話しがっていうか。その!」
 大慌ての若者に、はっきりとトビィは胡散臭そうな顔を向けた。この若者に名乗ってはいない。顔に見覚えもない。余計な悶着に巻き込まれそうな気がした。
「おい、あんた……」
「あ。そうか。これじゃわかんないよな。ごめん。あのさ……ちょっと顔貸して」
「なに言ってやがるてめぇ!」
「だから怒んないで、トビィ!」
「あのな、てめぇ。俺はあんたに名乗った覚えはねぇぞ」
「うん、だからここじゃまずい。いくらお客がなくっても、ちょっとでいいから。頼む」
 いったいどんな後ろ暗いところがあるというのか。トビィは埒のあかなさに腹をくくった。これでも昔はひとかどの冒険者、腕に覚えはある。この程度の華奢な若者ならば軽く伸せる。そう覚悟を決めてしまったトビィは軽く階段に向けて顎をしゃくった。
「うん、よかった。そっちに行きたかったんだ、俺も」
 何かわけのわからないことを言いつつ若者はついてくる。暗がりでこちらをどうにかできると思ったら大間違いだ、すぐにそれを教えてくれる、と振り返ったトビィは顎が顔から落ちるかと思った。
「お前!」
 ぎょっとして思わず大声を上げていた。黒髪の華奢な若者は消え、銀髪の青年が立っていた。色違いの目にも嫌と言うほど見覚えがある。
「久しぶり、トビィ」
 にっこりと笑った男は、まぎれもなくタイラントだった。言葉をなくしたようただ喘ぐトビィに申し訳なさそうな顔をしてタイラントは話を続けた。
「挨拶にきたかったんだ。あの時のお礼も言ってなかった。色々ありがとう、トビィ」
「おい、待て。なんで、お前……!」
「顔変えてたかって? そりゃさ、騒ぎになるのは目に見えてるって言うか。ゆっくり話もできなくなっちゃうじゃん、今の俺じゃ」
「まぁな、世界の歌い手がこんな酒場に来た日にゃ……」
 肩をすくめるトビィにタイラントも同じ仕種を返す。自分はそのようなこと気にも留めないが、世間はそうは見ない。彼は態度でそれを表した。
「タイラント、一つ聞きたい」
「シェイティのことだよね。わかってる。俺は、あのあと時間はかかったけど、捜したんだ。シェイティ、会ってくれたよ。すごい嬉しかった。トビィの伝言も、伝えた。それで――」
 突然、階上から物音がしてトビィは飛び上がりそうになる。泊り客はいないし掃除も済んでいる。つまり、二階には誰もいないはずだ、この時間には。
「トビィ、あのさ。もう一個謝ることが……」
 タイラントが眉を下げたのなどトビィは見てもいなかった。慌てふためいて二階に駆け上がる。物音がした部屋を正確に見つけ出し、トビィはゆっくりと扉を開けた。
「……久しぶり。トビィ」
「お前な。なんで勝手に入ってるんだ」
「だって吟遊詩人の愛人だった闇エルフの子の話、まだ残ってるでしょ。僕が聞きまわった限りじゃほとんど怪談になってたけどね」
 寝台に腰を下ろし、シェイティはぷらぷらと足を揺らしていた。拗ねてでもいるようでトビィはなぜか妙に安堵した。
「まぁ、確かに怪談だわな、ありゃ。シェイティ……って名前呼ぶのもはじめてか。変なもんだな」
「だね」
 うなずいてくすりとシェイティは笑った。あのころ見慣れていた幻影ではない、彼の本来の姿、闇エルフの子の特徴もあらわなシェイティだった。
「あのね、トビィ。ありがとう。伝言、嬉しかったよ。そこの愚かな男がわざわざそれだけ言いにきたの、あのとき」
「そんなことないよ! ちゃんとほかの話だって……」
「そうだね、誰それが心配してるだの、他の誰がだの色々言っていたよね」
 淡々と言いつつシェイティは居心地悪そうにしているタイラントを微笑ましげに見つめていた。思わずトビィは吹き出す。
「なんだ、結局元鞘かよ」
「笑えるでしょ。僕もそう思う。ほんと、大笑いだよ。なんでだろう。自分でもよくわかんないんだけど、こいつがいいんだ、僕は」
「惚気か?」
「事実だよ」
 それを世間では惚気と言うのだ、とトビィは言いかけて言葉を止めた。やっとのことで部屋に入って扉を閉めたタイラントの笑み崩れた顔を見てしまっては馬鹿らしくてなにを言う気力もなくなる。
「それで?」
「僕がいなくなったあと、こいつが世話になったって言ってたから」
「わざわざ礼を言いにきたってかい。律儀なことだな」
 笑い飛ばしてトビィはたいしたことはしていない、と態度で示した。それにシェイティは首を振る。
「あのころ、僕はタイラントの怒りをどうしても解くことができなかった。それどころかたぶん、煽ってたのは僕なんだ。そうだよね」
 シェイティは静かにタイラントを見つめる。そんなことはない、と千切れそうな勢いで首を振るタイラントにシェイティは小さく笑った。
「いまはこいつも否定する。してくれる。でもたぶん、それが事実なんだ。僕にできなかったことをしてくれたのは誰。トビィ、あなたじゃない」
 ひたと見つめてくる視線にトビィは何を言うこともできなかった。あの酷い男をなぜシェイティは再び選んだ。問いたい気持ちはあるが、あれからすでに五年近くの歳月が流れている。
「だからね、ありがとう。トビィ。僕にこの男を返してくれた。この男を正気に返してくれた。ささやかなお礼を用意したんだけど、受け取ってもらえるかな」
 首をかしげるシェイティの気持ちこそをトビィは汲んだ。あの涙も流さず泣いていた彼が、いまは満ち足りた顔をしている。それで報われた、そんな気がした。
「よけいな差し出口だったんじゃないかって気にしてたんだがなぁ。礼なんざ要らんって言ってもかえって気にするだろう、お前らは。いいよ、受け取ってやろうよ」
「よかった。要らないって言われたらどうしようかと思ったんだ」
「って、礼をするのは俺ですが」
「なにあなた、僕のすることに何か不満でも?」
「いーえ、全然、ありませんよー。あるわけないですよー、はいはい」
「タイラント?」
「精一杯努めさせていただきます、はい」
 一瞬、硬直し、すぐさまタイラントは言葉を改めて語を接いだ。こらえ切れなかった笑いがトビィの喉から漏れだす。
「なんだ、実は横柄なのはお前だったか、シェイティ」
「あの時の僕は謝りたかったから殊勝にしてただけ。こっちが本性だよ。改める気? ないね」
 にっこり笑って彼は言う。こらえる努力を放棄したトビィが大きく笑った。
「トビィ、僕からのお礼。こいつ一晩貸し出すから」
「なに!?」
「世界の歌い手がいればけっこうな稼ぎになると思うんだけど。どうかな」
「なる。そりゃ、なる。だが、おい!」
「あのさ、トビィ。さっきも言ったけど、俺は世間がなに言おうがどうでもいいんだ。俺はただ歌ってるだけ。だから、歌わせてくれないかな」
 それで礼になるのならば。タイラントの表情が不安に曇っていた。その顔からいまだ彼が世界の歌い手の称号に慣れていないのは明らかだった。
「あぁ、ありがたい。客の入りも気がかりだが、それより俺が聞きたいね、あんたの歌を」
 ぱっとタイラントの顔が輝く。それを見つめるシェイティの笑みも深くなる。不意によかった、そうトビィは思う。たった一言、些細な行動が、二人を近づけるきっかけの一つになったのならばこんなに嬉しいことはない。そう思う。
「色々噂話を聞いた限りでは、あの時の吟遊詩人が世界の歌い手になったってことは知られてるみたいだし、あの吟遊詩人が闇エルフの子を愛人にしてたのは古い話でもないし」
 それを言うなよ、と悲鳴じみたタイラントの声にシェイティはかまわない。なぶっているつもりはなく、おそらく癒えた過去の傷なのだとトビィは思う。
「だったら世界の歌い手が新しい愛人を連れてたって悪くないよね」
 にっこりと笑った、シェイティは。思わずタイラントが後ずさりをするのをトビィは目の端で見ている。そういうトビィ自身、気づけば下がっていた。
「あの、シェイティ?」
 タイラントの震える声を意にも介さずシェイティはふ、と視線を遠くに投げる。それからわずかにうつむいて、顔を上げたとき。そこにいるのは別人だった。
「シェイティ――!」
「大きな声出さないで。人が何かと思うでしょ」
「ちょっと待て、その顔はない、それだけはない。無理、頼むから、無理!」
「なんのことかな、タイラント? 僕にはなにを言ってるのかさっぱりわからないよ、不思議だね。美人じゃない? トビィ?」
「あ? ああ……美人だな、うん。目に嬉しい美人ではある。けど、中身はお前かよ」
 一瞬にして女性に姿を変えたシェイティをトビィは驚きこそすれ、忌み嫌いはしなかった。そのことが嬉しくてシェイティは微笑む。
 実に目に心地良い美人だった。淡い金髪に慎ましくリボンを結んでお下げにしているのが愛らしい。梳き流せば誰もが振り返らずにはいないだろう美女が、そうしていると可愛い乙女に見える。くっきりとした翠の目は色合いこそ蠱惑的だが、色気もあらわと言うわけではない。むしろ、ぞくりとするような美形が表情一つで人懐こいものなっている。
「たいしたもんだな」
「お褒めいただいて嬉しいね。ほら、トビィは褒めてくれたよ、タイラント」
 軽く寝台から飛び降り、シェイティは無造作な足取りでタイラントに近づいた。そしてその腕を取る。タイラントは傍目にもはっきりと震えていた。
「どうしてそんなに嫌がるの。あなた、情緒に問題があるんじゃないの。こんなに美人なのに」
「美人は美人でも、その顔は君のお師匠様の顔じゃないか!」
 絶叫じみた悲鳴を上げるタイラントに、シェイティはカロルの顔のままにっこりと笑った。




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