水盤、ではある。水盤だから水が張っても、ある。だが水はどこからかあふれ続けている。静かに水盤を満たし床に――こぼれない。 「僕の用事は、それだよ。ファネル」 ファネルの視線に気づいたよう、フェリクスが声をあげた。ようやく静まって見せたのだろう竜が、彼の腕の中にいた。 「あぁ……ちょっと、問題があるかな。まぁ、いっか。イメル」 「あの、フェリクス師。不都合なら、外しますが」 「いていいよ、別に。ただし」 その瞬間だけ、まるで感情が戻ったかのよう鋭いフェリクスの視線だった。背筋を伸ばしてイメルは他言無用を誓う。まだフェリクスがなにを言うより先に。 「けっこう。そうしてくれるとありがたいね」 言いつつ水盤に手を伸ばした。はらりと、何かがほどけるような感覚。神人の子のファネルはそう感じた。次の瞬間、水盤に上に人の姿が立ち上がっていた。 「これは……懐かしい姿を目にするものだ」 「やっぱりね。あなたならそう言うだろうと思ってたよ」 「フェリクス師……」 「あなたは見たことがなかったかな。これが、リィ・ウォーロックだ」 水盤の上に浮かぶのは、かつてリィ・サイファが作り上げたという彼の肖像。生き生きとして、とてもただの肖像とは思えなかった。 「それで、これが」 手の一振りでリィ・ウォーロックの姿を消す。同じ動作で浮かび上がる別のもの。 「サイファだ。さすがに、子供の頃とはずいぶん違うな」 「そうなの。神人の子らの子供時代って想像つかないよ」 「似たようなものだ」 お前も、人間も、自分たちも。ファネルの言葉にしなかった言葉にフェリクスはうなずかない。代わりにシェリが大きくうなずいていた。 「隣が――」 何かを振り切るような自分の声をフェリクスは聞く。振り切るものなどもう何もない。思った途端に熱を発するような感触が腕の中にあった。 「うん。そうだね。大丈夫。平気だよ」 睨むというには懸念のあふれたシェリの色違いの目。両目の間をフェリクスはそっと指先で撫でた。 「人間の戦士、ウルフ」 リィ・サイファと共に浮かび上がった人影。稀と言う表現が馬鹿馬鹿しくなるほどに少ない、人間と神人の子の深いかかわり。その実現した姿。 「ウルフは、知ってるかな。ミルテシアの末の王子だった」 「あぁ、話には、聞いている」 「そう。末でも、シャルマークの大穴を塞いだ功績で王冠が約束されたそうだよ」 「それでも……?」 「そう。ウルフは、カルム王子は王冠じゃなくて恋人を取った。カルム王子からただのウルフになった。ウルフは、人間であることを捨てて、恋人をとった」 そして、旅立った。言わなかったフェリクスの言葉にファネルがうなずく。羨ましげにシェリが二人の姿を見つめていた。 「イメル。見てたんだから、もうできるよね。やってみな」 唐突にフェリクスは命じる。それが珍しいことではないのだろう、イメルは緊張しつつ水盤の前に進んだ。フェリクスのようにはいかない、ぎこちない仕種。それでも魔法は発動する。 「リィ・サイファの後継者。サリム・メロールとその恋人、アルディア」 水盤の操作に精一杯のイメルに代ってフェリクスは言う。どことなく懐かしそうな表情に見え、その実ただの気のせいだった。 「僕の師匠の、師匠だよ」 言外に見たことがあるか、知人かと言っているフェリクスの問いにファネルは黙って首を振る。口に出さなかったのはイメルに知られたくないせいだろう。 「イメル。次」 黙ってうなずいて、フェリクスはイメルに命じた。シェリを抱く腕が、わずかに緊張を見せた。震えたようなそれに竜が首をもたげる。 「なんでもないよ、平気」 君がそう言うときってさ、絶対に大丈夫じゃないよな。俺を騙せると。 「思ってないよ、本当に、平気。心配性だね」 耳に聞こえた声ではない声と会話する奇妙さにももう慣れた。シェリを励ますよう、ファネルが見つめているのも感じていた。 「あぁ、出たね。これが、僕の師匠だ。メロール・カロリナ。まぁ、隣はおまけ」 カロルとリオンの肖像だった。フェリクスは、今度こそはっきりと何かの色を目に浮かべた。懐旧か、切望か、それとも別の何かか。誰にもわからない。本人にさえ。ただ、シェリにだけは。 「これは誰が作ったんだ。いや、お前だな、わかった」 「どうして」 「リオンをおまけだ、とお前は言った。ならば肖像を作ったのはお前と言うことになる」 「……本当にね、弟子たちにもあなたぐらいの鋭さを期待したいよ、僕は」 「努力します、フェリクス師」 「いいよ、期待しないから」 あっさりと言ってのけ、フェリクスはイメルから体ごと顔をそむけた。イメルは誤解するだろう、それでも見ていられなかった。がっくりと肩を落としたところなど。吟遊詩人のような態度など。 「ねぇ、イメル」 「はい!」 「あなたは僕の後継者として、次の肖像を作る権利と義務がある」 「もちろんです! 絶対に、そのままの姿を作り上げて見せます」 「そう、努力して。それがあなたの義務だからね、一門の後継者としての。だから、これは僕のお願いだ。ただの頼みだから、無視してくれてもかまわない」 「いいえ、フェリクス師。どうか仰ってください」 イメルは忘れていなかった。覚えていた。フェリクスを激怒させた自分も、なぜなのかも、フェリクスが捨て去った感情も、それに包まれていた自分も。 その真剣な声にフェリクスはなにを聞き取ったのか。聞き取ったのは、フェリクスではなかった。腕の中の竜。 「……僕の肖像ならばいつ作ってくれてもかまわない。ただ」 「フェリクス師!」 イメルの荒らげた声に、フェリクスはつい振り返ってしまった。大きく目を見開き、唇を噛みしめる男がいた。まるで子供のような、その表情。 「こんなことは言いたくありません。でも、言います。フェリクス師の肖像を作るのは、師が最後の旅に出たあとです」 「……僕は、神人の子らじゃない。旅には」 「死出の旅、と言う言葉をご存知ありませんか、師よ」 イメルが小さく笑った。そして詫びるよう、フェリクスに頭を下げる。だからこそ、ファネルはイメルの言葉を許す。たとえフェリクスが望まなくとも、いまのイメルの言葉はファネルには許しがたいものだった。シェリが懇願するような目で見ていなくとも、イメルの誠意を、自分に向けられたものではないとしても、受けようとファネルは思う。 「本当に。そうして」 「もちろんです!」 イメルが嬉しそうに声を上げた。シェリが小さく鳴く。だからイメルの言葉が誤解だとファネルには知れてしまった。フェリクスの言葉は自分に向けられたもの。そっと笑みを浮かべ、ファネルはシェリにうなずいて見せた。 「これをね、あなたに見せておくべきかなって」 振り返ったフェリクスの言葉は唐突だった。それでいて、これが目的だったとはっきりわかる。ファネルは首をかしげ、そしてカロルの肖像を見つめる。 「……これが」 まるで触れられそうな肖像。代々の後継者たちがその師の肖像を作り上げてきているというのならば、やはりフェリクスの技量は素晴らしいものだと言えた。 「お前が父のように慕ったと言う、師なんだな」 「……まぁね」 「会ってみたい、いや、みたかったものだな」 「そうだね、会わせてみたかったよ、僕も」 何かを隠したような会話にイメルはついていかれない。きょとんとした顔で口を挟みそうになるのをシェリの視線が止めた。 「……師よ」 これはなんなのでしょうか。イメルの問いに答えてやりたくとも、シェリは口がきけない。いいから黙っていろ、とでも言うよう眼差しがきつくなる。 「これ? これがあなたに他言無用を誓わせた会話ってやつだね。わけがわからない? そうだろうね、イメル。僕は用心してるだけ。不用意な一言でも、漏らしてほしくないだけ」 「私は……」 何も言わない、信じて欲しい。言うことはできただろう、イメルにも。だがフェリクスが信じるはずもない。 イメルは思う。あのとき自分はなにをした。リオンの言葉を軽く見たのみならず、あれほど自分を励まし、支えてくれたフェリクスを激怒させた。激怒させるくらい、どうと言うことはなかった、あれに比べれば。 イメルはフェリクスを悲しみのどん底に突き落とした。もしも底などと言うものがあるのならば。あのとき、フェリクスがイメルの、否、タイラントの弟子を目にするということは、そういうことだった。 あれから幾ばくかの時が流れ、イメルにもぼんやりとそのことがわかりはじめている。実感などとは言えない。とても言えるはずがない。 あの時のフェリクスの怒りと悲しみが、絶望が想像できるかもしれない、と言うだけのことだ。 だが、想像は、できるようになった。だからこそイメルは多くの言葉を費やさない。わかってもらえるはずがない。自分がしたことを思えば。だから、実行するのみ。 「いいよ、イメル。それで充分だ」 「フェリクス師!」 「僕にはもう他人を慮るってことがどういうことかわからない。弟子ですら、かけがえがないとは思えない。酷いことをいま、言っている。その自覚はある。でも、実感はない。わからないね」 「わかるよう――」 「努力なんかするなよ。わからなくっていい。わかって欲しくない」 自分を理解されたくない、とフェリクスは言っているのではなかった。師として、弟子が同じ目に合うのを見たくないと、願っていた。祈ってすらいた。イメルは言葉がない。吟遊詩人の訓練も積んだ、タイラントに習った、世界の歌い手に導かれたイメルが。 「さぁ、イメル」 「はい――」 「権限委譲の術式を始めよう」 今現在、フェリクスが維持管理しているリィ・サイファの塔。管理者としての権限をイメルに渡すことで、後継者が決まる。ごくり、とイメルはその事実に今更ながら唾を飲む。 「フェリクス師――」 「なに」 「私は、望みました。自分の意思です。ですが……」 「あぁ、どうして僕があなたを選んだかわからないってこと?」 「はい」 きっぱりと言うその姿に、彼の師の面影を見る。フェリクスは視線をそらしかけ、肩によじ登ったシェリへと手を伸ばした。自分で自分がわからなかった。 |