「だったら、僕も聞こうか。あなたはどうしてこの僕の後継者になりたいと望んだの。確かに僕は一門の長だ。僕に連なることは、リィ・ウォーロックの魔術の血脈を繋ぐことだ」 「そうでは、ありません」 「だったら、なぜ?」 一門の後継者になりたいと望んだのではない、とイメルは言う。首をかしげてフェリクスはシェリを見やり、答えないと知って不思議とファネルを見やった。 「本人が答えるのではないか?」 「まぁね」 短いやり取りに、イメルが今度は首をかしげた。フェリクスの肩のシェリがイメルを見つめる。何も問うなと。 「私は……私は、忘れたくありません」 「なにを」 「……フェリクス、そう畳み掛けるな。イメルが話しにくそうだぞ」 「うるさいな、わかってるよ」 「それはよかった。それで、イメル」 軽口を叩く闇エルフにイメルは小さく笑った。励まされているのを感じる。こんな自分なのに、と。そう思う自分こそを叱咤した。 「フェリクス師のお怒りは、重々承知しています。でも、覚えています。まだ子供だった頃のこと。フェリクス師に、自分は救われました――」 なにがあったのか、とファネルは眼差しでシェリに問う。話してあげたいけれどね、といわんばかりの色違いの目にファネルはそっと溜息をついた。 「フェリクス師が、言葉通りの意味ではなく、優しいかたなのを、私は覚えています。フェリクス師は、あのころのことなど、もうお忘れでしょうけれど」 「……覚えてるよ」 「え」 驚いたよう、イメルが視線を上げた。ぽつりぽつりと語るうちにうつむいていた自分を恥じつつ。 「あなたがたがアリルカにきたときはね、僕も頭に血が上ってたから」 だからイメルの名前まで思い出せないような有様だった、とフェリクスは言葉の向こうで言う。それにイメルは唇を噛んだ。 本当に、本当にいったい自分はこの人になにをしてしまったのか。どこまでこの優しい人を傷つけたのか。 イメルの脳裏に、子供の頃のことが浮かぶ。優しいとは少しばかり言いにくい笑み。それでもお菓子をくれた。温かい牛乳をくれた。何より立派な魔術師になれると励ましてくれた。 あのころのフェリクスはもういない。今ここにいるのは同じ姿の別人。そう思った瞬間、シェリが鋭く鳴いた。イメルの師の魂の欠片がそれは違うと鳴いた。 「……いま、あなたがたの間になにがあったのか僕は想像するしかない。それなのにね、僕にはその想像力と言うものが欠けてるんだ」 「つまりそれは、私に補足して語れ、と言うことか、フェリクス」 「できれば黙って喋ってほしかったけどね」 「あの、フェリクス師」 「なに」 「その、ファネルは、なんと言ったらいいのか……通訳のようなもの、と言うことでしょうか」 まったく違うし、そもそもイメルとは別件でここにつれてきた、と言うことをすでに彼は忘れているのだろうか。それなのに子供のころ云々などよく言える。そう思ったのに、フェリクスは軽くうなずいていた。 イメルの、あるいはそれは優しさとでも言うべきものだったのかもしれないと思ったせい。肩のシェリが、それに気づかせてくれた。 「いいか? イメルは過去のお前を知っていた。どうやら弟子と言うわけではなさそうだがな。だが、近しいところにいたのだろう、フェリクス?」 「そうだね、僕の弟子ではないけれど、近くにはいたよ」 それで、ファネルにはわかってもらえるだろう。あの男の弟子だったから、近くにいたのだと。それ以上は言わなくていい、とファネルが静かにうなずいた。 「だからこそ、イメルはお前の変化がまだよく飲みこめん。まるで別人のようだと思ってしまった」 そうだな、とファネルが問うのにイメルは驚いている。闇エルフの子に、人の気持ちがわかるなど、信じがたかった。そしてそれが、アリルカと言う国がなしたことなのだと思う。 「だがな、シェリは否定した。これもまたフェリクスだと」 「……なるほどね。あいつらしいよ」 肩に手をやり、フェリクスはシェリに詫びる。銀の竜ではなく、世界の歌い手の魂を語ったから。そこにいる竜では足らないと心のうちに言ったから。 「イメル」 「はい!」 「別に緊張しなくてもいい。最初で最後だ。あの男の話をしようか」 ゆるりと寛いだ姿勢。それが真実だとは誰も思わなかった。何よりシェリが。 「そんなに大きな声ださないで。大丈夫だよ、平気。この機会、一度だけ。イメルにはその権利があるよ」 自分の後継者なのだから。あなたの弟子なのだから。 フェリクスの声なき声にシェリはうなだれる。そっと腕の中に抱きかかえ、竜の背に頬を寄せた。顔を上げたとき、フェリクスは常態となってしまった冷ややかさを取り戻していた。 「あなたは知らない。あなたにとって、あの男は優しくて面白い師匠だっただろうけれど、あなたは知らない」 「怖い、師でもありました」 「当然だね、師匠なんだから。でもね、そんなことじゃない。今更だけど、僕は闇エルフの子だ。最初、あいつはそれを知らなかった」 淡々と、過去にあったことを語るフェリクス。ファネルは止めるべきだろうと手を伸ばしかけ、真実を知る。 イメルにではない。フェリクスが真に語っている相手はこの自分。息を飲み、強張りかけた体を強いて戻す。 「僕の正体を知った瞬間、あいつはなにをした? 僕を蹂躙して、嬲り尽くした」 冷静さを取り戻したと思ったのも束の間、ファネルがひくりと痙攣した。 「フェリクス師……それは……」 「わかりやすく言おうか? あの男は僕を繰り返し強姦したってこと。まぁね、それには理由があったし、僕には僕の理由があったから、ある意味では和姦だけどね」 「そんな……!」 「ねぇ、ファネル。神人の子には刺激の強すぎる話だったの、忘れてたよ。お茶でも淹れにいく?」 「けっこう。一応、聞いておこう」 「今後の参考ってやつかな。よくわからないけど」 「そう思ってもらってかまわん」 ぎゅっと拳を握り締めていた、ファネルは。腕の中でシェリが震えているのを感じて、フェリクスは少しだけ和やかな気分になる。 「あいつは僕に怒る正当な理由があったけど、それにしたって強姦だ。どうしてか、わかる? 僕が闇エルフの子だからだ」 「そんな、……師が、そんな……」 「イメル、見てご覧」 フェリクスがシェリを持ち上げてイメルの眼前に突き出した。 「色違いの目。人間の間で、なんて言われてるか知ってる? 邪眼って言われてた。人を呪う忌まわしい目だって言われてた。言うまでもないけど、迷信だよ」 「だったら、どうして……!」 「僕に酷いことをしたか? たかが、種族が違うってだけで?」 震えながらうなずいたイメルを確かめて、フェリクスはシェリを腕の中に戻した。抗議するように見上げてくる色違いの目は、けれど柔らかな色合いを宿していた。 「……わからないよ、僕にも。僕はあいつじゃない。僕が言いたいのはね、イメル。あの男は決して優しいだけの男じゃなかった。差別もされて苦しんだ。僕を徹底的に差別した。そういう男でもある」 「お前は、別にイメルの師を貶めようとしているわけではない、と思っていいんだな、フェリクス?」 「もちろんだよ。どうしてそんなことになるの。僕らは色々あったけど、結局お互い相手が好きだった、それが事実なんだから。僕が言いたいのはね、イメル」 何度も言いたいこと、とフェリクスは言う。伝わっていない懸念。イメルは胸を打たれていた。生前の師が語っていたことを思い出す。 「どんなに言葉を尽くしても、君たちにどれほどのことが伝えられているのか、俺はとっても怖いよ。でもね、いまはわからなくっても、君たちの血となり肉となり、俺の言葉は生きていく。だからきっといつか、思い出してくれる。そう信じて語るしか、ないんだ」 あの時の、表情すらイメルにはまざまざと思い出せた。無表情なフェリクスが、同じことを語り、同じ不安を告げる。不意に、どうしようもなく泣きたい気になった。 「僕が伝えたいのはね、イメル。あなたには優しかった師匠と、僕が知ってるあの男は、別人?」 「いいえ! 違うと、……違うと、思います。実感は、ありませんけれど」 「まぁ、そうだろうけどね。だからね、あなたが知ってた僕も、いまの僕も、同じ僕なんだ。あぁ、そうだ。確かに僕は覚えてるよ、小さなあなたに言った言葉も、あの時の期待も、覚えてるよ」 そしてその直後にあの男と喧嘩をしたのだ、とフェリクスは思い出す。懐かしいような気がしてもいいはずなのに、心は動かない。それを寂しく思うことももう、なかった。 「その同じ僕が、大量虐殺を計画した」 「いいえ! フェリクス師は、それを回避なさろうと――!」 「違う、違うよ、イメル。もしも僕になんのしがらみもなかったならば、僕は大陸中の人間を全滅させることになんらためらいはなかった。それもまた僕だってことを、あなたは忘れないで。さぁ、イメル。それでもまだ後継者になりたいの」 「先に、フェリクス師のお考えを、聞かせていただけますか……」 色々と、考えることがあるのだろう、まだ若いこの魔術師には。ファネルはそれよりシェリと話したくてたまらなかった。徹底的に、聞かせて欲しいことがあった。が、二度と再びこの話題を持ち出すことはフェリクスが許さないであろうことも感じていた。 「……そうだね。これはね、イメル。あなたに対する一種の罰だ」 「それは……え?」 「あなたは、僕に対してなにをした? 言うまでもないね。別に、責めてるんじゃない。僕はあのとき怒ったし、それで終わり。子供じゃないんだ、いつまでも怒り続けたりはしないよ」 タイラントが殺されたこと以外は。フェリクスの声が聞こえたようでファネルは彼の横顔を見つめる。シェリが同じことをしていた。 「怒ってはいない、それは本当だ。なんと言ったらいいのかな。あなたは、自分がなにをしたのか、理解してる?」 「はい、と自信を持って言うことができません」 「それでいいんじゃない?」 「いい、わけはないと思います」 「そう言うあなただからこそ、僕はいいって言うんだ。その気持ちを、あなたは生涯忘れないで」 「もちろんです……もちろん……忘れられるはずが……!」 「忘れないだけじゃない。僕ら魔術師は、地上の生き物としては、長い寿命を持ってる。――その長い人生の中で、同じ過ちを繰り返すな、決して」 強い言葉なのに、熱がない。それでもいまこの瞬間、イメルはフェリクスの熱意を幻視した。 「忘れません、絶対に。繰り返しません、二度と」 「そうして。その上で、あなたは弟子を持たなければならない。自分がなにをしたのか、弟子に伝えなきゃならない。過去の過ちも、功績もすべて。――後継者になるってことはね、イメル。あなただけは絶対に弟子を持たなければならないってことだ。僕がカロルから受け継いだ血を、僕はあなたに伝える。さぁ、イメル。間違っても途絶えさせたりするなよ」 「……はい。……はい、決して。絶対に。絶対に……!」 この先の人生に待つ恐怖を思うのか、それとも別の何かか、フェリクスにはわからない。目の前でイメルが泣いているのだけが、事実だった。 「……忘れないために。自分と同じ過ちを誰かがしないために。そのために、後継者に、自薦しました」 しゃくりあげながら、イメルが言う。それが、イメルの最初からの思いだったのだろう。誇らしげにシェリがフェリクスの頬を舐めた。 「だったら最初からそう言いなよ、面倒だな。こんな話、する必要なかったじゃない」 突き放すようで、かつてのフェリクスの戯れめいた照れ隠しを思い出す。いまの彼はどうなのだろう。照れてはいない。だからたぶん、それはイメルへの、フェリクスに残っていた優しさの欠片だったのかもしれない。 「さぁ、仕事をしようか。ファネル。少し待っててくれる」 まるで言い捨てるようだった。だからファネルは二人が去ったあと、唇を開く。 「お前はまだ人を思いやることができる。弟子を慈しむことができる。そうだろう、フェリクス」 かつてはリィ・サイファの居間であった部屋の中、呟きがこだまして、なぜかいつまでも消えない。そんな気がした。 もう二度とフェリクスの口から二人のことが語られることはないだろう。イメルのため。そう理由までつけて、聞かせてくれた。ファネルにとっては、胸をかきむしられるような話ではある。それでも。 こだまの中、フェリクスの過去の痛みといまの苦痛が響く。ファネルは胸に手をあて瞑目する。まるで彼の痛みをその身に取り込もうとするかのように。 |