いまだ布の中でもがいているウルフにちらりと目を向けサイファは何事かを呟いた。その言葉に従うよう、布が抵抗力をなくす。不思議なほどくたりとした、ただの布へと戻っていた。
「若造。出ていい」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
 じろり、サイファが睨んでウルフが肩をすくめる。その口許に笑みがあった。そしてウルフは布の塊から抜け出した。
「大地の下にあるものは、あの男のようなもの。いたって無害、と言うわけでもないが、さして有害と言うわけでもない。暴れているものを鎮めればいい」
 言いつつサイファは立ち上がる。そして布の塊を探った。アリスが何をしているのだろう、と疑問に思ううち、サイファの手は何かを掴んで戻る。
「そして、もしかしたらよいものもあるかもしれない。期待してもらっては困るがな」
 サイファの手が小箱を差し出す。瞬きをするアリスは、知らずそれを受け取っていた。黙って開く。
「あら、可愛い」
 隣から、黙ってやり取りを聞いていたアレクの声。覗き込んできた紫の目が優しく微笑んでいる。箱の中、少女が好みそうな髪飾りが入っていた。
「つけて御覧なさいな。きっと似合うから」
「でも。いいんですか、私」
「くれたんでしょ、サイファ? だったらこれはアンタのもの」
 サイファがそっぽを向いたままうなずいた。アリスは驚く。半エルフも、魔術師でも、照れるのだ、と思って。ようやくアリスの唇に笑みが浮かぶ。ぱちり、と兎の髪飾りを止めた。
「うん、よく似合うよ。いいなぁ、サイファってば俺になんかくれたこと、ないんだから」
「え、あ……」
 ウルフが上げた声にアリスは戸惑ったわけではなかった。突如としてウルフが視界から消えていた。恐る恐る見れば、床の上でうずくまっている。赤い顔をしたサイファが思い切りよく足を振り抜いていた。これには耐え切れなかった。アリスはついに吹き出す。見れば兄弟だという彼らも揃って笑っていた。
「若造、わきまえろ」
「痛ぇなぁ、もう。容赦ないんだから」
「手加減されたければ馬鹿なことを言うな」
 ぷい、とそらされた顔。アリスはアレクの顔を見上げる。彼はにんまりと笑っていた。
「それで、サイファ。坊主からかってるばっかじゃしょうがないだろ。どーすんだ、これから」
「……よせ」
 急に男の声に戻ったアレクに、サイファのみならずアリスまで顰め面をした。それを今度はウルフとシリルが笑う。彼らといると笑いが絶えない、アリスはそう思ってはいっそう楽しくなってくる。
「とりあえず村に向かわなくてはな。その前に、武装だ」
 サイファがちらりとウルフに目を向けた。それだけで彼は部屋を飛び出していく。きっとすぐに自分の武装を整えて戻ってくるのだろう。
「シリル」
「僕は済んでますよ、大丈夫です。アレクの剣だけは持ってきましたが……」
「アンタんとこに革鎧なんてもんがあるといいんだけどな」
「そんなものが魔術師の塔にあるわけはないだろうが。こい、アレク」
 言ってサイファが始めたことは、アリスだけではなくシリルまでをも驚かせることだった。彼の言葉と共に水鏡に映し出されたのは、王宮。アレクに尋ねながらサイファは彼の武器防具をしまってある場所へと視点を移し、見つけるなり莞爾として別の呪文を唱えた。言葉が消えたとき、それはアレクの手にあった。
「アンタってほんと便利ねぇ」
「お役に立てて何よりだ」
 二人の男の間でだけ通じる皮肉めいた冗談なのだろう。顔を見合わせてにやりとする。アレクが武装を整えたとき、具合よくウルフも戻った。
 アリスが驚くほど、武装したウルフは逞しかった。ひょろりとした青年だとばかり、思っていたのに。サイファは横目でそんなウルフを愛しげに見やり、旅のマントを羽織る。それで支度は終わりだった。
「サイファ、馬でいくの」
「なにも歩いていく必要もないし、時間が惜しい」
「あら、馬鹿半エルフはようやく人間様の時間を覚えたのねー」
「シリル」
「なんです?」
「少しこれを黙らせろ」
「だって。兄さん。いい子にしててね」
「兄さんって呼ぶなって言ってんだろ!」
 殴りかかる真似。よけるふり。アリスはいつの間にか一緒になって笑い転げている自分に気づいていた。
「アリス」
 不意に名前を呼ばれてびっくりとした。半エルフの魔術師から親しげに名前を呼ばれるなど、くすぐったいような気持ちだ。
「はい?」
「馬には――」
「乗れるわけないって思ってますよね」
「もしかして乗れればいい、とは思っているが」
「乗れません」
 きっぱりと言ったアリスにサイファは溜息をついた。肩をすくめているあたり、あっさりと一行に慣れてしまった人間の少女に、呆れ半分の羨望を感じているのは間違いなかった。
「では仕方ないな」
 再び溜息をついて塔の窓を開ける。風に乗って三頭の嘶きが聞こえた。それにかぶせるよう、サイファは遠い声を上げた。
「行くぞ」
 何をしたのか言うことはなく、一行もまた尋ねる気はなかった、アリスでさえ。塔の扉の前、サイファは振り返って掌を当てた。シリル以外の人間には、何をしているかわからなかった。サイファは塔を封じた。そして嘶きが聞こえた。
「お前には、多少の我慢をしてもらわなければならない」
 現れたのは、一頭の野生馬。賢そうな目をしてサイファに長い鼻面を摺り寄せている。だが、言葉はアリスに向けてだった。
「なにを、ですか?」
「武装した戦士たちは重たい。馬に余計な負担をかけれは遅くなる。わかるな? だから、軽い者が二人、相乗りするより他はないな」
 有無を言わせずサイファはひらりと野生馬にまたがった。手が伸びてくる。何を考える間もなくアリスはその手を取っていた。そして次の瞬間、馬に背にあった。そのときになってようやく気づく。手綱も何もなかった。疑問を発するより先、野生馬は走り出す。その後ろ、まるで野生馬が彼らの長だとでも言うよう、三頭の馬が疾駆していた。
 野生馬は、まるで風のようだった。それをサイファに言えば馬の名を風の娘と言う、と教えてくれた。村が大変だと言うのに、アリスは楽しくて楽しくて仕方なかった。こんなに速くて賢い獣に乗ったことなどいままで一度としてない。
 不意に目を落として気づいた。半エルフの前に乗せられているのだと。背中のほうから彼の細い腕が伸びてきている。綺麗な、人間ではない腕だな、と思った途端、それが「男性の腕」であることも思い出し、アリスは誰にも見られないよう赤面した。
「サイファ!」
 いまはアレクが先頭で馬を駆っていた。途中からサイファと交代したのだ。サイファによれば、このあたりの道はアレクのほうがよく知っているとのこと。
「サイファ、道ちがくない?」
「あってる」
「でも、あんときと違うと思う」
 ウルフの声にサイファは薄く笑みを浮かべた。彼はそれだけで喜色を露にする。アリスは、いいな、と思う。笑顔を見るだけで嬉しくなってしまうような関係をいまだ知らなかった。村の若者も、悪い人ではないのだけれど、少し物足りない。アリスはそう思う。
「別にシャルマークの王宮に向かってるわけではない。我々が通った道のとおりに進むこともあるまい? 一度ラクルーサに抜けてそちらから突っ走る」
「あ、そっか。それでアレクか」
 うなずいたウルフは納得がいったのだろう、それ以上は何も言わなかった。
「皆さん。馬、上手に乗るんですね」
 馬は時折、歩かせてやらなくてはならない。ずっと走り続けることはできないのだ。おかげでそのときになってようやくアリスは口を開くことができた。
「あぁ……」
 サイファが首をかしげたのを背中に感じる。それからほくそ笑むような気配も。
「アレク、いいか?」
「いいわよ、別に」
 一行は、易々と馬に乗っている。アリスはそれが不思議でならなかったのだ。サイファが何事かを問えば、アレクが肩をすくめる。
「彼らはどういうわけか皆、王族でな。乗馬は得意らしい」
「え――」
「ちなみに赤毛の馬鹿もそうだ」
「俺はもう違うって言ってるでしょ。それに……」
「なんだ?」
「馬鹿はないでしょ、サイファ」
「馬鹿を馬鹿と言ってなにが悪い。愚か者」
 罵り声が、笑っている。だからアリスは深刻な言い争いではないのだろう、と思う。思いはしたけれど、それどころではなかった。
「王家の、人?」
 王子様とか王女様とか、そういう人たちは、もっと綺麗な服を着て、上品な言葉でお話をして。少なくともくたびれた旅の装束に武装をして剣だこのできた王子様と言うのは考えたこともなかった。呆然としたアリスの目をアレクたちが受け止め、揃ってにやりとした。
「もしかして」
 ふと思いつく。シャルマークの大穴を塞いだ冒険者たち。その噂。なんだか凄いところで儀式があったとか。
「うっかりシャルマークの大穴塞いじゃったのって俺たちなんだよねー」
 正にサイファが言ったとおりの馬鹿みたいな声でウルフがからからと笑った。
「うっかりってねぇ、アンタ死んだくせに」
「うん、だからそれがうっかり」
 茶化すアレクの言葉にまだウルフは笑っていた。アリスの背後、なぜかサイファが少し体を硬くした。
「ほーら、サイファが嫌な顔してるわよー? うっかりで死なれたサイファの身にもなってみなさいって」
「あ。ごめん、サイファ。俺、できるだけ死なないから」
「うるさい、黙れ。若造」
 アリスはきゅっと胸が痛くなった。いったい半エルフはどんな気持ちで人間の恋人を持つのだろう。死なない彼が、恋人を死の腕に送るのは、どんな気持ちなのだろう。
「皆さんと一緒で、楽しいです」
 唐突なアリスの声にサイファは彼女の顔を覗き込みそうになった。だが、口にしない思いが伝わったのかのよう、サイファは動かない。その代わり、無言のままの彼の唇には柔らかい笑みがあった。
 野営を繰り返し、村に着いたのは数日後のことだった。何度か魔物に襲われはしたものの、男たちはあっさりとそれを退けてしまっている。アリスが目を丸くする暇もないほどに。だから野営にもなんの不安もなかった。
 だが野営も、本当ならばもっと気詰まりでいいはずなのだ、とアリスは思い返す。男性四人の中に自分ひとり。だが、アレクはあまり男の人のような気がしなかったし、サイファは男だとわかってはいても人間の目には綺麗すぎた。だからアリスは少しも嫌な思いをすることなく村までたどり着くことができた。
 そんな彼女を見て、アレクとサイファはほっとしていた。村が大変なことになっているのは、わかっている。彼女の、あの泣き声が耳について離れない。だから、少しでも他の気を使わせたくはなかった。望むらくは楽しい旅でさえあって欲しい。どうやらそれは叶えられたらしい。二人して顔を合わせて苦笑した。相談して、決めたことではなかったから。
 馬を繋ぐことはしなかった。風の娘がいれば、きちんと群れを率いてくれる。何の心配も要らない。アリスが村の中に駆けていくのについていきつつ、サイファは別の問題を今更ながらに思い出した。
「しまった」
「どうしたの、サイファ」
「顔」
「あ……」
 半エルフの、その上に身なりからも明らかな魔術師。村の敵意をかきたてることになってしまうかもしれない。
 だが、いらぬ懸念だった。それはあのとき魔術師を滅ぼした冒険者たちだから、と言うわけでもアリスが説明してくれたからでもない。村は敵意を持てるほどの気力も、なかった。




モドル   ススム   トップへ