その言葉で気がついた。あの酒場で手を差し伸べてくれた人。目を丸くする彼女に、茶色の髪をした男が笑みを浮かべて歩み寄ってはカップを差し出す。 「香料入りのワインをお湯で割ってあるから。体が温まるよ」 首を傾げて微笑む姿。見ればどうやら神官らしい。ぎこちなくうなずいてすすれば、男の言うとおり体に温もりが戻る。甘かった。蜂蜜も入っているらしい。 「腹が減っているようなら、菓子くらいならあるが?」 声に飛び上がりそうになった。カップの影から盗むよう相手を見る。そこには半エルフがいた。声だけでそれと知れたものの、やはり驚く。 「アンタがいきなり喋ったりしたら、驚くでしょ」 「ちょっと、アレク。それは聞き捨てならない。サイファが――」 「いいから黙ってろ、若造」 「俺はあんたが……」 「アレクはそういう意味で言ったのではない」 問うような視線をわざとサイファはアレクに向けた。アレクは彼の言葉を肯定するよう、うなずいてみせる。 「じゃあ、どういう意味、アレク?」 「坊やには内緒。ねー、サイファ?」 「使用語彙に甚だ問題がある気がしなくはないが、まぁ、そのような意味だと思ってもそれほど間違いではなかろう」 「……サイファ」 「なんだ」 「もうちょっと噛み砕いて。俺、よくわかんない……」 「わかんないから内緒だって言ってんじゃないのよ、お馬鹿ね、坊やってば」 くすくすと笑う女の声に、少女は呆気に取られていた。確かにしがみついた体は引き締まった男のものだった。思い返せば頬が赤らむ。それなのにいま聞こえる声は、女の声。 「それで。食うのか、食わないのか」 半エルフの目がこちらを向いた。すくみあがりそうになるのを必死でこらえ、少女はうなずく。 「サイファのお菓子、おいしいよ。絶対、気に入るから!」 赤毛の男が駆け出していく。彼らの様子を窺っている限り、あまり丁重な扱いを受けているようには見えない。それでも彼は少しも気にしていない風に晴れやかに笑った。 「ちょっと、サイファー」 「なんだ」 「アンタ、女の子の扱い方って、わかってる?」 「人間の扱い方もよくわからんが」 「……だよな」 肩を落とした金髪の男が、目を向けては肩をすくめてきた。こういうやつだから、ごめん。男の目はそうとでも言っているようで彼女は少し笑みを浮かべた。 「あ、笑うと結構可愛いじゃん」 赤毛の男が戻ってきては菓子を差し出して笑う。皿が彼女の手に移った瞬間だった。背後から飛んできた何かが男の背中を強打したらしい。目を瞬いて落ちたものを見れば、どうやら陶器のカップらしい。 「サイファ!」 「なんだ」 「カップ投げんのはやめて」 「投げてない」 「そう言うのを見え透いた嘘って言うの!」 「違う。本当に投げていない」 もっともらしく言う半エルフに少女は目をむきそうになる。そっと金髪の男を見上げれば、にやにやと笑って見ていた。茶色の彼もまた、微笑んで見守っているだけ。 「じゃあ、いま俺の背中に当たったのは、何?」 「私が蹴ったカップだが」 「……嘘は、言ってなかったね」 「私を疑うのか、お前は!」 言った途端、半エルフが声を上げて笑った。いままでこらえていたのだろう、男たちが揃って笑い声を上げる。赤毛の男までもが、朗らかに笑い声を立てていた。 「さて、と」 笑いが収まるのを待つでもなく半エルフの目が少女を捕らえる。思わず少女は背筋を伸ばし、けれど緊張に耐えかねたよう皿の菓子を口に入れた。また、目が丸くなる。 「おいしいでしょ?」 優しい声は金髪の彼のもの。うなずけば、いまだ頬に残っていた涙の痕をこればかりは女のものではありえない、荒れた指先が拭ってくれた。 「私はお前を覚えているが、覚えていて助けを求めたのか?」 「え……」 「あの、魔術師嫌いの村の宿の娘だろう、お前は?」 「覚えて……いて、くれたんですか」 「生憎、半エルフというものはそういうものでな」 皮肉な声。けれど冷たくささくれ立った声ではなかった。もしも半エルフが人間と会話を楽しむことがあるのならば、こんな声なのかもしれない。 「やだ、アタシも忘れてたわ。偶然?」 「偶然、です。それに……」 「あら、アンタも忘れてたってわけね。じゃ、お互い様」 にこりと笑って金髪が言う。それでずいぶん気が軽くなった。改めて互いに名乗りあい、そして彼女は先程まで横たわっていた寝椅子の上、アレクと並んで座りながら話し出す。村を襲った災厄を。 「毒が……毒の煙が、村を覆って……」 きゅっと膝の上で手を握り締め、アリスと名乗った少女は懸命に涙をこらえた。 「村の窪地や、吹き溜まりにあるみたいなんです。煙って言っても、見えなくって。最初は、みんな酔いすぎて、眠ってるうちに心臓が止まっちゃったんだろうって……」 「死者が、出ているんだな?」 「はい」 サイファの鋭い声にアリスはしっかりとうなずいた。あのとき、自分を助けてくれた冒険者たち。いまもだからと言って助けてくれるとは限らない。そう思ったのはほんの一瞬だった。すでに、力を貸してくれる気になっている。ありがたくて、涙が出そうだった。 「窪地に、昼間滑り落ちた人がいるんです。みんなで、ちょっと馬鹿にしながらロープを垂らして助け上げようとしたんですけど――」 アリスが言葉を切った先を、アレクは言わせようとしなかった。そっと彼女が膝に置いた手の上、自分の手を重ねる。 「また、魔術師が……、ごめんなさい……」 うつむいたままの唇から零れ出た言葉に、アリスははっと口をつぐんだ。サイファは苦笑しているだけで咎めもしない。それどころか当然だろう、とでも言いたげにうなずいている。 「まぁ、そうだろうなぁ。あんときの村の人たちのこと考えるとさ、またって思っちゃっても仕方ないよね」 助けの言葉は、ウルフから来た。四人ともが、仕方ないよ、無言のうちにそう言ってくれる。それがアリスは痛かった。本当に、胸の奥がきりきりと痛む。 「聞きたいことがいくつかある」 「はい」 「臭いはするか?」 「たまに。風向きによってなにか変な匂いがします」 「では、火はつくか?」 「……つけようと思った人がいません」 「それはそうだな、愚問だった」 殊勝らしく言ったのが、よほど奇妙なことだったのだろう、一斉に笑い出した。サイファだけが、困ったよう笑みを浮かべている。 「普通、毒煙に火ィつけようって馬鹿はいないわよー?」 「だから、わかったと言っている!」 アレクのからかいに声を荒らげたものの、サイファは少しも怒っていないようだった。アリスにはそれが少し不思議で、そして当然のことだとも思う。彼らはずっと共に冒険をしてきた、仲間なのだから。 「あの煙は……」 「自然現象だな」 「え?」 あまりにもあっさりと言われてアリスはサイファを疑った。それを感じ取ったのだろう、彼の目はシリルを向いた。神官の言葉なら、信じるだろうと。彼もまた、うなずいている。ならばアリスは信じるしかなかった。たとえ渋々であったとしても。そしてどこかの魔術師の仕業と考えるより、そのほうがずっと気が楽な自分を見つけ、アリスはびっくりしていた。 「自然現象って」 「そうだな……」 説明を求めようとしたアリスの目の前で、サイファはいかにも楽しみで仕方ないと言わんばかり、目を細めて笑った。 サイファの笑みが、アリスはどことなく不快だった。村が、自分たちのイーサウ村がこれほどまでにも大変な目にあっていると言うのに、いったいこの魔術師は何が楽しいと言うのだろう。わずかに魔術師に対する嫌悪が蘇る。彼は違う、そう思ったはずなのに。彼は自分をあのとき助けてくれた、そう思ったはずなのに。 「魔術師って、こういうものだから」 まるでアリスの感情を察したよう、仄かな口調で言ったのはシリルだった。驚いて彼女が見やれば困り顔で微笑んでいた。 「サイファ。そういう顔をするから、魔術師は誤解されるんですよ」 「なにがだ?」 「あなたにとっては興味深い自然現象でも、被害にあってる人には大変な事件です」 「あぁ……なるほど」 思い至らなかった、と言うようサイファはうなずく。それからアリスが驚いたことにサイファは詫びたのだ。 「すまなかったな」 魔術師が、謝罪する。そのようなことがこの世にあるとは思ったもみなかったアリスは、なにを答えていいのかわからない。いまでも心のどこかで思っている。アリスにとって、魔術師は村を支配する魔物に等しい、と。 「いえ……」 強いてそんな思いを心の中から吹き飛ばす。彼はあの魔術師と同じではない。魔術師すべで悪人ではない。自分の心に言い聞かせれば聞かせるだけ、恥ずかしくなった。 「その現象についてだが」 アリスの忸怩たる思いをサイファは嗅ぎ取っていた。ふと頬に笑みが浮かびそうになる。また誤解されてはたまったものではないのであえて無表情を取り繕っていた。 けれどサイファはすでにこの少女を気に入っている自分に気づいていた。仲間たちと出会ったせいだろう。人間に対する警戒心が薄れている。それを心楽しく思う自分がいる。 それに、とサイファは思う。アリスは精一杯頑張っているではないか、と。半エルフを前に悲鳴一つ上げていない。魔術師に対する恐れのほうが、たとえ強いのだとしても。 「はい」 アリスが顔を上げた。まっすぐにサイファを見る。サイファもまた、視線をそらさず彼女を見た。そしてウルフが妬くほど、にこりと笑った。 「できるだけわかりやすく説明しようか」 思いがけない笑みにたじろいでしまったアリスは、彼の言葉にうなずくともなくうなずく。それを見て取ったサイファの笑みが今度は別の場所へと向かった。 「ウルフ」 「なに」 警戒するウルフに、サイファは蕩けるような笑みを向けた。ぱっと赤毛のウルフの顔が輝く。アリスに、いままでわからなかった事情が飲み込めてしまうような、喜びの顔だった。 「私を愛してる?」 「もちろん!」 嬉々として晴れやかに言うウルフに、サイファは笑みの質を変えた。薄く、口許に浮かんだもの。思わずウルフが一歩、下がりかけた。 「では、犠牲になれ」 言った途端だった。サイファが口の中で何を呟いたともわからないうちに一枚の白い布が出現した。見る間にウルフを覆い尽くしていく。アリスは目を瞬く。いままでどこにもなかったはず、と。 「あの布を大地だと思え」 サイファの言葉にアリスは慌ててうなずく。 「大地の下に、毒煙が、と言うよりその元がある。大地に押し込められたそれは行き場をなくして暴れる。あの若造のように」 「サイファ! 出してってば!」 ばたばたとウルフが布の中でサイファの言葉通り暴れていた。ただの布に見えるけれど、どうやら抜け出すことができないらしい。 「ここに一つ裂け目ができたとする」 彼の言葉に従って、ぴしりと布に裂け目ができた。 「すると、どうなる?」 「いっぱい暴れて、出てくると思います」 アリスが答えるのを待っていたよう、ウルフが布を裂け目から引き裂いて顔を出す。真っ赤になっているところを見れば、よほど焦ったのだろうか。 「サイファってば……」 「なにか一言でも言ってみろ、腹に風穴開けてくれる」 「もう……」 言いかけ、ウルフが忍び笑いを漏らした。あの若者は、この半エルフを信用して、それどころか本当に愛しているのだと、アリスは思う。異種族の繋がりが、不思議だったけれどどこか心が温かい。 「いまのところお前の村に被害をもたらしているのは、あの男の顔のようなものだな」 「全部じゃないってことですか?」 「大地の下に大本がある、と言う意味では」 「だったら……」 さらに凄まじいことが起こると言うのだろうか。シャルマークの大穴は塞がったのだ、と聞く。どこかの冒険者がそれを成し遂げたのだ、と。それなのにイーサウにはまだ悲劇が襲うのか。 |