いまはまだ、昼過ぎだと言うのに酒場の喧騒は耳が痛くなるほどだった。門衛が、騒いでいるのだ。門衛、と言っても正規の兵ではなかった。夜勤明けの臨時の兵は、疲れを吹き飛ばそうとでも言うようエールをがぶ飲みしている。
「お前、きたねぇぞ!」
「なに言ってやがる。下手くそが喚いてんじゃねェよ」
「うるせぇ、寄越せ!」
 夜通し都の門の警護をするのは疲れる仕事だ。だが、実入りはいい。シャルマークの大穴が塞がったせいで仕事が激減してしまった冒険者たちや引退の近い冒険者たち。そんな彼らの新しい仕事先として臨時兵と言うのは人気があった。
「おやっさん、エール!」
「こっちも!」
「お前飲みすぎだって」
「どこがだよ、まだまだいけるぜー」
 けらけら笑って真っ赤な顔をした男が仰け反る。その拍子に椅子から転がり落ち、そのまま伸びた。みなが一斉に笑い出す。そんな様子を酒場の亭主が微笑ましげに眺めていた。
 いつものことだった。騒がしく喚き散らすものの、元冒険者たちはたいして悪さはしない。からりと陽気に騒いで、そして自分の足で立って歩ける者は夜の仕事が始まる前に、一眠りするのだ。そうでない者は、そのまま酒場の床で寝ることになる。
「まったく、毎度のことながらいやになっちまうぜ、弱いくせに飲みたがんだからよ」
 仲間が苦笑して亭主を呼んだ。心得たもので亭主はそのときにはすでに毛布を持っている。彼の手に小銭が渡され、毛布は床の男の上にふわりとかかった。
「どうする、まだ飲むかい?」
 亭主の言葉に少し仲間たちは考えた顔をする。彼がそう言うときは、おおよそ飲み過ぎているぞ、と言う忠告なのだ。
 答えようとしたそのとき、酒場の扉が勢いよく開いた。静まり返るわけでもなかった。だが、元冒険者たちは揃って腰の剣に手をやった。
 亭主はその様に圧倒される。ここにいるのは飲んだくれの男共ではなかった。精悍な表情をした、一騎当千の男たち。
 だが、彼らが取った態度はあまりにも異様だった。眼前にいるものの姿を見れば。
「助けて。誰か助けて!」
 ぼろぼろの衣服の裂け目から覗く肌を隠そうともせず、少女が叫んだ。十六歳か、その程度。二十歳までにはなっていないだろう。はちきれんばかりの若さにあふれているはずの、年だった。
 しかし少女は泣くこともできず、扉の光を背に立っている。誰も答えないのをただ黙って眺め、そしてがくりと膝をついた。
「お嬢ちゃん、話してごらんなさいな」
 一人が言ったその瞬間、少女の目から涙があふれだす。安堵の涙だった。少女の心を救った酒場の名を、乙女の祈り亭と言う。

 話しかけた途端、少女が気を失ったのをアレクはそっと腕の中に抱きとめる。偶然だった。確かに乙女の祈り亭には、よく訪れる。城の生活に嫌気が差したアレクは、今日もふらふらとここに飲みにきていた。
「ぼけっとするな! アンタ!」
「え……あ……」
「弟を呼びにいけ、すぐ! あ、馬は置いてけよ?」
 にんまりと言ってアレクは唇を歪める。城の衛兵が、それとなくのつもりなのだろう、ついてきているのは知っていた。
 気分のいいことではないが、彼らは仕事だったし、そもそも警護のつもりだろう。見張られているとしか感じないアレクではあったが、気づかないふりをし通して放っておいていたのだった。
「すぐに」
 敬礼をして飛び出していく衛兵にアレクは舌打ちをする。ここで正体を明らかにしたくはなかった。シャルマークの英雄だの、ラクルーサの王子だの言われずに飲める場所をなくしたくはない。
 ちらりと亭主を横目で窺えば、知らん顔をする。飲み仲間たちを見回す。口笛など吹きつつ馬鹿騒ぎを続け始めた。
「こいつら……!」
 はじめから、知っていた。知っていて、それで受け入れられていた。衛兵につけまわされる不快さなど、飛んでいくくらい、いい気分だった。
「それで、どうするね? おーじさんよ?」
「うるさいわね。ちょっと黙ってなさいよ」
 亭主の戯言にアレクは笑いながら一睨みをくれ、少女に目を落とす。酷い有様だった。誰かに虐待された、と言うわけではないらしい。ただ長い道のりを、魔物を避け怯えながらここまで歩いてくればこのような状態にもなろうか。
「おい、アンタ。馬貸せ」
「は――。え、あ……その……」
 もう一人の衛兵は、まだアレクに正体が知れていないとでも思っていたのだろう、ばつの悪い顔を隠さない。
「貸せないのか?」
「とんでもない! 私の馬でよろしければ、どうぞお使いください、殿――」
 殿下、とは言わせず、アレクは手をひらひらと振る。どうするつもりだと衛兵は思っているのだろうか。それを考えればアレクの口許に笑みが浮かぶ。
 細身の体からは考えられないような軽い動作でアレクは少女を抱き上げた。
「おやっさん」
「なんだい」
「伝言、頼んでもいいかな」
「おう。いいよ、わかった。伝えとく」
 アレクがまだ何も言わないうちに亭主はにやりと笑った。衛兵が身を乗り出すようにして亭主への伝言を聞こうとしているのに気づいていたのだろう。
「うふふ。頼むわね」
 女の顔と声で笑って言った、それで亭主には充分だったらしい。さすが冒険者が集まる酒場の亭主だけのことはある。衛兵は何も伝言らしきものを聞き取ることはできなかった。
「じゃ」
 顔だけ振り向けてアレクは亭主に礼を言う。仲間たちに向かって手を振ろうとし、そして塞がっているのに気づいて苦笑する。
「姐ちゃん、気ィつけろよ」
「街道に魔物が出たって話だぜ、ガセだろうがよ」
「そりゃガセだ。トムんとこの下の息子の悪戯さ!」
 口々に言う臨時兵。いや、元冒険者たち。彼らは知っているのだった。いま、アレクの元に新しい冒険が訪れたことを。そして二度とそれを味わうことのない自分たちを。
「おやっさん、みんなにエール! お金はそこの坊やからとってちょうだい。払っとけよ?」
 元冒険者の羨みと祝福に、アレクはわずかばかり忸怩たる物を覚えてそう言った。代金を支払え、と言われた衛兵が、ぽかんと口を開けている。酒場の中は、元冒険者たちの上げる歓声で、ひときわ騒がしくなった。その音を背にアレクは乙女の祈り亭を出る。
「まいったね」
 ちらりと少女に目を落として言うのは、彼女の体を気遣ってのことだろうか。それとも背中にいまだ聞こえる男たちの声だろうか。
 アレクは一度、振り返りかけそして止まる。少女を衛兵の馬に背に押し上げ、そして自らもまたがる。抱きかかえて馬を駆る。
「もうちょっとマシな馬乗れって」
 文句を言ったのが馬に聞こえたのだろうか。馬は街路を疾駆し始め、アレクを仰天させた。
「あら、いい子」

 くっと笑ってアレクは少女をしっかりと抱えなおす。今は荒れ馬同様の走りを見せている馬の背から振り落とされることのないように。


 シリルが乙女の祈り亭に駆けつけたとき、男たちはまだ騒いでいた。アレクが立ち去ってから、さほど時間が経っているわけではない。
「おやっさん」
 何も気づかないふりをしている男たちの間を抜けたシリルは亭主に近づいた。
 シリルは、実は亭主も客も、アレクの正体を知っている事に気づいていた。シャルマークを訪れる前までは、金離れがよく気風のいい女としか思っていなかっただろう。それほど何度も飲みにきていたわけではない。
 だが、アレクはシャルマークの英雄とやらに祭り上げられてしまった。それを言うならシリルだとてそうなのだが、彼は街にいるより城にいるより、まず神殿にいる。それほど騒ぎに巻き込まれているわけではない。
 神殿にくるものは、そもそもが心や体の助けを求めてくるのだ。英雄だからと言って馬鹿騒ぎなど起こりはしない。
 けれどアレクは兄王にいいように使われてしまっている。式典だと言って駆り出され、宴だと言っては貸し出される。だからシリルはアレクが時々姿を隠したくなってしまうのもわからなくはないと思うのだ。
「あぁ、久しぶりだね」
 にこりと亭主が笑った。それだけでもシリルにはぴんと来る。
「金髪の姐さんなら、馬に乗っていったよ」
 それで確信した。ちらり、と辺りを窺う。所在無く立ち尽くす場違いな男。城の衛兵。亭主がシリルの視線に気づいたよう、片目をつぶって見せた。思わず、吹き出しそうになる。
「ありがと、おやっさん。これ、みんなで」
 最前アレクがエールを振舞ったことなど知らないシリルの手から亭主はほくほくと金を受け取り、そして元冒険者たちはいっそう高らかに歌いだす。
「あ……」
 衛兵が、シリルに話しかけようと近づくその前で「酔った男」がふらりとよろめく。
「お、にーちゃん。すまんなー」
 へらへら笑って、男は詫びるよう手を引っ張っては衛兵の手にエールのジョッキを押し付けた。
「おやっさん、にーちゃんにエールなー」
 まるで旧知の仲のよう、男は衛兵の肩にがっちりは腕をまわし共に飲もう、騒ごうこの一時を、と喚き散らしている。
 シリルはちらりと感謝の眼差しを投げた。男はぱちりと片目をつぶった。少しも酔ってなどいなかった。シリルは笑みを口許に刻み、男が足留めを試みている間に酒場を抜け出す。
「さて、と」
 幸いと言おうかアレクの掌の上と言おうか、衛兵のものとしか思えない馬がもう一頭、厩に繋がれたままだった。
「助かるね」
 シリルは苦笑して馬にまたがる。先行するアレクは今頃どこにいるのだろうか。時間はそれほど経ってはいないはずだった。だが、アレクの乗馬の腕は、シリルより上だ。その気になれば、信じられないほど速く馬を駆ることができる。
 そしておそらくいまは、その腕を存分に発揮しているはずだった。シリルは腰に下げた剣を意識する。使うことになるのだろう、たぶん。そこには自分の剣の他に、アレクの小剣も、下がっていた。


 風の音が聞こえていた気がする。まどろんでいたのか、起きていたのか。それともすべてが夢の中だったのかもしれない。
「まったく、何を考えているんだ!」
「だから言ってんじゃないのよ。あのまま戻ったらアタシ、外になんか出れなかったんだってば」
「だからと言って怪我人抱えて馬を走らせるなど!」
「怪我って言うより疲れてるだけだって」
「若造」
「なに?」
「黙れ」
「あーら、ひどい。可哀想にねぇ、坊や」
「うるさいなぁ――」
「あ、気がついたみたいだけど。アレク?」
 四人の声が途切れ途切れに聞こえる。もしかしたら自分のことなのかもしれない、と思って聞き耳を立てていたのに気づかれてしまった。
「気がついた?」
 怯えたよう、彼女が目を開けたときに見たのは、はらはらと流れ落ちる金髪だった。
「あ……」
 何を言おうと思ったのか、忘れてしまった。横たえられていたらしい体を起こし、金髪の人を見上げる。途端に涙があふれてきた。
「やだ。泣かないでよ、もう平気だから、ね?」
 優しい声に何度もうなずく。気づけば彼女はしがみついていた。わんわんと、声を放って泣くなどしばらくぶりだと思う。思ったことで少し、正気に返った。
「うーん、女の子っていいなぁ。柔らかくって」
「悪かったね、男で」
「あ、いや。そうじゃなくってね、シリル。アタシ、妹が欲しかったなぁ、と思って」
「弟で悪うございましたね」
「だから、その……な?」
 照れたような、困ったような声が自分を抱いている頭上からする。何か変な気分で見上げれば、金髪の人が苦笑していた。何度か目を瞬く。
「女の人じゃない……」
 呆然とした声に、その場にいた人すべてが笑った。からからと陽気な声は、けれど彼女を蔑んでいるものではなかった。慌てて金髪の男から離れる。顔が赤かった。
「それで。お嬢ちゃん。話を聞かせて欲しいな?」




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