騒ぎを聞きつけたのだろう、宿屋から一人の男が心配そうに顔を出した。旅人に目を留め、そして真っ青になる。
「お父さん!」
 宿屋から出てきた父の元、アリスが飛びつく。驚いた顔をしたところを見れば、どうやらアリスは内緒でラクルーサまで歩いてきたらしい。
「アリス! お前は……」
「お説教は後にして。なんとかしてくれるって人、見つけたの」
「なに?」
 言って主人が目を向けた。そしてそこに立つ、あの時の冒険者を見つける。
「あんたさんがた……」
 ぐっと噛みしめた唇。見る見るうちに浮かんできた涙。アリスが涙もろいのは、どうやら父譲りだったらしい。
「なにができる、とはっきりお約束することはできませんが、とりあえず原因を見てみようと思って来ました」
 シリルが微笑んで言った。ぞろぞろと、村人が集まってくる。サイファの魔術師のローブに目を留めては、口々に何かを言っているらしいけれど、あの時のよう石を投げてきたりはしない。
「ありがとうございますだ。みんなも、いいな。この人たちに、ひでぇことしちゃなんねぇぞ」
 主人の言葉に、村人は力なくうなずいた。反抗するだけの気力もない。もしもどうにかしてくれるならば、それが魔術師でも半エルフでも何でもいいと言うところか、サイファは内心で皮肉に思った。
「シリル」
 彼にだけ声をかけてサイファは歩き出す。振り返って軽くアリスに目を向ければ、飛び跳ねるようついてきた。案内に立ってくれるらしい。
「ご主人、娘さんをお借りする」
 サイファの一礼に、主人は驚いたよう口を開け閉めし、結局頭だけを無言で下げた。
「こっちです」
 一行を率いてアリスは行く。怖くはなかった。もしもいま、自分に何かがあったとしてもきっと彼らが守ってくれる。
「ほら、ここ」
 アリスが指した場所は、確かに窪地だった。いささか窪地、と言うには深くて、確かに落ちて朦朧としたならば自力では上がってこられないだろう。
「あぁ、やっぱりな」
 サイファはうなずいて窪地に身を乗り出す。それから荷物をすべてウルフに預けてしまった。
「ちょっと覗いてくる」
 アリスは驚きに声もなかった。一動作で、下まで行ってしまった。軽い足取りは確かで、危なげはない。だが。
「心配ないよ、大丈夫」
「でも」
「サイファ、半エルフだから。毒、効かないんだって」
 凄いことだとアリスは思うのに、けれどウルフはそれを少し哀しそうな笑顔で言った。アリスが何も言えないでいるうち、サイファが窪地をよじ登ってくる。
「サイファ」
 手を出して最後を手伝ったのは、ウルフではなくアレク。不思議に思ってウルフを横目で見れば、彼は剣の柄に手を置いていた。村人を警戒しているのだ、とアリスは気づく。不愉快に思っていいはずなのに、そんな気にはなれなかった。
「どうでした?」
「あぁ、思ったとおりだ」
「と、言うと?」
「地下にはいいものがありそうだ、と言うのが一つ。この瘴気があったからあの不器用な魔術師は魔族を召喚することが可能だったのだな、と言うのがもう一つ。元凶はこの窪地で、ここをなんとかすれば被害は納まるというのが一つ。これでいいか?」
「完璧です」
 にっこり笑ってシリルが言った。その言葉の意味がアリスにはほとんどわからなかったけれど、何とかなりそうだ、と言う言葉だけを信じることにする。
「では、始めましょうか。アリス、村の人たちを呼んでくれる?」
「なんて言ったらいいですか?」
「そうだね、瘴気を払ってきれいにするからって。そうすれば普通の生活に戻れるよ。ちょっと大きな音がするはずだから、びっくりさせないようにね、見てたほうがいいかなと思って」
 ゆっくり説明してくれる言葉が、胸に痛かった。アリスは無理に笑みを浮かべてサイファを見やる。彼がシリルに説明を任せたのは、きっと村人も神官の言うことならば納得するはずと知っているせい。
 駆け戻ったアリスが再び戻ってくるのに、さほど時間はかからなかった。彼女と踵を接するよう、村人が続々と集まってくる。
「大きな音がするはずって、言っておきました」
「感謝する」
 村人すべてが集まったのを確かめたあと、アリスはサイファにそう告げた。シリルが、再びアリスがしたのと同じ説明をしている。そして彼は祈り始めた。
「防御の呪文。破片が飛んでくると危ないからさ」
 シリルの祈りの言葉を聞きつけてウルフがアリスに向かって笑みを見せた。それをサイファが少し驚いたような顔で見ているのがおかしい。
「サイファ、いいですよ」
 シリルの言葉にうなずいて、サイファは何かを呟く。そして手を一振り。たったそれだけだった。何か、もっと大仰なことが起こるのだと思っていたアリスは少し、がっかりする。
 だが、すぐにそんな気は消し飛んだ。窪地が、突如として爆発を起こした。地中から、迫上がるよう大粒の石と泥が吹き上がる。耳など、聞こえなくなっていた。これでは毒煙など、吹き飛ばされてしまっただろう、間違いなく。その原因と共に。
 アリスはそっと振り返る。村人がきっと怖がっていると思って。だが、彼らは恐怖におののく暇もないよう、高く上がった泥の柱を呆然と見上げていた。その体に一滴の泥の飛沫もかかっていない。アリスは自分の体を見下ろして、やはり綺麗なままだと知る。シリルが祈りを捧げてくれたからなのだろう。
「もう一押しか……?」
 サイファの呟きめいた声が聞こえた。首をかしげてまた何かをした。たぶん、別の何かなのだろうけれどアリスにはわからない。ウルフを窺えば彼も首を振った。再び爆音が起こり、そしてサイファは満足そうな笑みを浮かべた。アリスはずいぶんあとになるまで気づかなかった。吹き上げられた泥や石はみな、綺麗に窪地の縁に積みあがっていた。
「あ……」
 声を上げて、いつの間にか耳が聞こえるようになっていたと気づく。けれど村人は寂として声もない。その彼らの目の前で、窪地が驚くべきものに変貌していく。見る間に水がたまり始めた。否、水でない。
「お湯……?」
「正確に言えば、温泉だな。成分からして傷によく効くから、冒険者や兵士が集まるだろう。金でも取って入れればいい」
 サイファは肩をすくめてさらりと言った。半エルフがそのようなことを言うと、どこかおかしくてアリスは笑う。
 そしてアリスは気づいた。これが、サイファが言っていた「いいもの」なのだと。人が集まってくるようになれば、今までより村は裕福になる。アリスの顔がぱっと輝いた。
「そんな危ないもん……誰が……」
 小さな声だった。けれど誰しもが無言の中、いやによく響いた。サイファは口許に苦笑を刻む。警戒心の強い半エルフから見ても、イーサウの村人は警戒心が強すぎた。
「若造、こい」
「なに? ちょっと、サイファ! 恥ずかしいって……」
 ウルフの抗議になど耳も貸さず、サイファは村人の蘇りつつある敵意の中、ウルフの武装を解いていた。それどころか服まで脱がしてしまう。照れて身悶えるウルフを、兄弟が笑いながら見ている。手を出そうとはしなかった。
「もう、いいな」
 背後を振り返ってサイファは乳白色の湯がかつての窪地にたまっていることを確かめ、そして。
「うわ!」
 思い切りよく下着姿のウルフを蹴り飛ばして湯の中に叩き落した。
「熱いか?」
「……さほどでもないよ」
「そうか」
「サイファ」
「なんだ?」
「俺、思いっきりお湯飲んじゃったんだけど」
「飲んでも問題はない。かえって体にいいくらいだが?」
「そう言う問題じゃないでしょ!」
 しゃがんでウルフににこにこと話しかけているサイファに、ウルフがむっつりと不機嫌な顔をした。けれどアリスの目にも口許が笑っているのが見えたから、きっとサイファにはもっとよくわかっているのだろう。
「サイファ」
「なんだ?」
「アンタ、傷に効くって言ったわよね?」
「言ったが?」
 訝しげな顔をサイファはして見せた。隣にいたアリスには、それが彼の作られた表情だというのがわかる。たぶん、アレクも。だが村人にはわからなかっただろう。
「だったらアタシもはいろーっと。この前、酒場で乱闘しちゃって。打ち身だらけなのよねー」
「アレク! あれだけ喧嘩はやめてって言ってるのに」
 シリルのぼやきにアリスはつい笑ってしまった。見れば、サイファも笑っている。湯の中でウルフも笑い声を立てていた。静まり返る村人の前、それは一種異様な光景とも言えた。
 派手な水音を立て、兄弟が湯に飛び込む。飛沫を浴びたサイファが嫌そうに顔を顰め、アリスに向かって苦笑した。
「わしらはあんたがたとは違う!」
 ひときわ強い声が響いた。それほど声を張り上げる必要などどこにもなかったというのに。だからそれはきっと、恐怖を克服したいと願っての声なのだ。
「魔術師が作ったもんなんか、きっとあとで悪いことが起きるに決まってる」
 サイファは声に振り返らなかった。湯の中から、シリルがきつい視線を村人に向けていたから。だがしかし、言い返したのはシリルではなかった。
「そんなことない!」
 少女の透き通る声には、色がついていた。例えるならば青い哀しみの色。
「この人たちは、前にも私たちを助けてくれたじゃない。悪い魔法使いを倒してくれたじゃない。いまだってこうやって、なんの得にもならないのに来てくれたのに! どうしてそんな酷いことばっかり言えるの。恥ずかしくないの!」
「アリス……!」
「お父さんだって、この人たちが悪い人だなんて思ってないでしょ。ねぇ、魔法使いってみんな悪い人なの。普通の人間はみんな善人なの?」
 激情に息を荒らげ、アリスは言葉を切った。きゅっと唇を噛む。村人はアリスに目を向けられるたび、一人、また一人と目をそらす。
「サイファ。アンタも入ったらー?」
 茶化したアレクの声は、たぶんアリスをこの場から救いたいと願ってのことだろう。彼女は村の中で生きていく。少なくとも、まだしばらくは。彼女が願うならば、ずっと。それならば、村人と対立させたくはない。
「半エルフが入った湯など、人間は余計嫌がるだろうが」
 サイファは苦く笑った。本物の苦さではない。だが、苦いことに違いはなかった。
「当たり前だ!」
 村人の中から声が上がる。それが誰ともわからないよう、こっそり言っているのがアリスは腹立たしくてならない。
「この人たちは、シャルマークの英雄なんだから!」
 そのようなことを言ってもきっと無駄だとわかっている。それでもアリスは言わずにいられなかった。間違いなく、言っていいと無言のうちに示したからこそ、アレクは湯に入ってくれたのだから。
「嘘つくな!」
「本当だもの!」
「半エルフで、魔術師……」
 どこからかまた声が上がる。サイファは心底、仲間たちの武装を解いておいてよかったと思う。この場で剣に手をかけられたりしては、アリスの立場が余計、悪くなってしまう。
 険悪な表情が浮かびそうなのを、必死でこらえている仲間たちを見やっていたサイファははっと驚いた。何者かが手に触れている。
「アリス?」
 彼女がきつく手首を掴んでいた。村人が、半エルフに触れた彼女を恐れるよう見ているのが手に取るようわかる。その手がぐっと引っ張られた。
「私が入ります!」
 サイファが口も開けないでいるうちに、アリスはサイファを湯の中に引きずり込んだ。自身と共に。見る見るうちにサイファのローブにも、アリスのスカートにも湯がしみこむ。
 アリスが目の前で涙を浮かべていた。サイファはたじろぐ。手を振りほどくこともできなかった。彼女の目から、涙は零れ落ちることはなく、ただ唇だけが震えていた。
「私……」
 アリスは言葉を見つけられなったかのよう、顔を伏せた。そのとき初めてほろり、涙が零れる。それが湯に落ちた瞬間だった。
「あ……」
 村人から声が上がった。先程までの声とは違う。神の御業を見たかのような。そしてそれはある意味、間違いではなかった。
 アリスの涙が滴った湯は、鮮やかな水紋を描き、波紋に押されるよう透明になっていく。ゆっくりと、村人が膝をついて祈り始めた。サイファはちらり、シリルを見やる。とぼけた顔をしてそっぽを向いたまま片目をつぶっていた。
「ありがとう……」
 サイファは喉に息が詰まった。アリスが自分の体にしがみつくよう、泣いている。嫌だとか、触るなだとか、そういうことではなく。
 気づけばサイファはアリスの体を振りほどき、呆然とした彼女を残したままウルフの腕の中にいた。
「えーと、ごめんね、アリス。サイファ、照れちゃったみたい」
 くっと、まるでアレクのようウルフが喉の奥で笑った。サイファは何も耳に入らない。不思議とウルフを殴ってやろうとも思わなかった。
 笑い出したアレクがアリスを手招き、彼女は泣き笑いのまま彼のほうへと泳いでいく。本物の少女のくすくす笑いと、贋物の癖に真実味のある女の笑い声が豊かに湯煙と共に空に上っていった。
 その後、イーサウの村は豊かになった。神の湯と呼ばれた温泉は、傷を負った冒険者や兵士たちに殊の外、愛されたという。ましてシャルマークの英雄が傷を癒した湯だとなれば。




モドル   オワリ   トップへ