まだ歌が響いていた。フェリクスは一人、祭りの喧騒を後にする。若い者たちはこのまま朝まで歌って踊るのだろう。 いつの間にかファネルが傍らを歩いていた。言葉をかわすことなく歩いていくのが今と言う時間に相応しい気がした。 「ねぇ」 それをあえてフェリクスは破る。シェリが抗議するよう小さく鳴く。せっかくいい気分でいるのを壊された気がしているのだろう。 「なんだ」 ファネルの口調が固かった。それでフェリクスは確信する。いましか言えなかった。いま以外、言う機会はなかった。 「あなた、気づいたよね」 「なにがだ」 「僕より、僕のことを知ったよね。きっと。あなたは神人の子だ。精神力の強さが違う。あなたが気づかないはずはないんだ。迂闊だった、とも思うけど。でも、いいや。僕はアリルカにいいことが何もできなかった。あいつの歌をここに残せたことだけが、僕のしたいいこと、かな」 「お前は、この国を作った。アリルカ建国の功労者だ」 「そんなものが、なに? 僕はアリルカに元々住んでた人を僕の復讐に巻き込んだだけ。わかってるくせに」 「フェリクス――」 「あなた、気づいたことを見なかったふりしてるよね? だったらはっきり言おうか、ファネル。僕に残された時間は少ない」 肩の上、シェリがぎくりと身じろいだ。この竜が、フェリクスの時間に気づいていないはずはない。それでも彼自身の口から聞きたくはなかったとでも言うのだろうか。 ファネルは立ち止まり、じっとフェリクスを見つめる。薄暗がりの中でも明らかな苦悩の色。フェリクスは静かに彼を見つめ返す。 「だからね、ファネル」 「おい」 「聞いて、最後まで」 最後、が最期、に聞こえてしまった。ぞっとしてファネルは目をそらしかけ、強いて眼前のフェリクスとシェリを見据える。 「ファネル。もう僕のそばにいないで」 いままでになく柔らかなフェリクスの口調だった。はじめて接するそれにファネルは戸惑う。その言葉の意味と共に。 「……どう言う」 「意味? そのまんまだよ。あなたに、僕が死ぬところを見せたくない」 「待て! 私はリオンに――」 「約束したって関係ないよ。あいつは僕が一人で死んでくのが寂しいって思ってたみたいだけど、別に僕は一人じゃない。こいつがいる。いつでも、どこでも」 肩からシェリを下ろし、フェリクスは竜を抱きかかえた。ぬいぐるみでも抱くように。頬ずりをして、一度目を閉じる。 「僕を一人で死なせたくないって言うのがリオンの望みだったらね、僕にも望みがある」 「……なんだ」 「僕は、あなたを闇に堕としたくない」 きっぱりと言ったフェリクスに、ファネルは言葉を失う。これ以上ない言葉だった。一度その目で闇を見た者にとっては。 「いまでも僕はあなたの希望なのかな? だったらあなたは僕を失うところをその目で見るべきじゃない」 「私は。だが……」 「ねぇ、ファネル。僕が死ぬところを見なかったら、僕がどっかで生きてるかもしれないって思えるんじゃない?」 身をもって知っていた、フェリクスは。希望を失うということがどういうことなのか。ファネルもまた、知っているはずだった。闇エルフなのだから。 「僕はね、色々あって、不幸ばっかりで、楽しいことなんかちっともなかったような気もする人生だけどね。それでも幸せだったよ」 「本当か」 「うん、本当に。薄っぺらい気持ちじゃなくてね、本当に、楽しいこともあったな、幸せだったなって思う。いまだから、思うんだろうね。僕の時間は少ないし、歌祭りはよかったし。僕は魔族召喚をしかけたわけだけど、あれからちょっと、人間と他の種族が寄り添えるようにもなったし、不幸中の幸いってやつかな。結果を見てみれば、悪くない人生だったと思うよ」 いまでも自分たちが再現した彼の歌が響いている気がしていた、フェリクスは。心で覚えていたより鮮明で、馴染んでいたより鮮やかだった。そのせいだろうか、いつになく穏やかな気分だった。 「ねぇ。もしも僕があなたのそばで息絶えたら、どんな気がするか想像してみなよ」 言われただけでファネルはぞっとする。リオンのときを思い出していた。あれより数倍つらいだろう。言葉にすることができないほど。 「ほら、その顔。自分で見れないのが残念だね。僕はね、あなたがそんな顔するから見せられない」 「茶化すな、フェリクス」 「僕は真面目だよ。あなたが闇に堕ちるってわかってて、あなたのそばで死ぬことはできない」 フェリクスの言葉がファネルを焼いていた。死ぬことのない己が、死すべき定めの彼を送らなければならない。わかっていたことだった。理解はしていなかったのかもしれない。 「僕は近々旅に出ようと思ってるよ」 「どこに?」 「言ったらついてくるから、内緒」 どことなく楽しげに言ったよう聞こえたのは、気のせいだろう。それでもフェリクスの全身が発する和やかさにファネルは打たれていた。 「いつかどこかで、思いがけないどこかで会うことがあるかもしれないね。――お父さん」 フェリクスは、笑ったのかもしれない。唇の端を吊り上げて、一度だけ目を煌かせた。そのまま立ち尽くすファネルに背を向け、静かに歩いていく。何事もなかったかのよう。 いつまでもその背を見送っていた。気づけば唇を噛みしめていた。血の味がするほどに。体中が震える。嗚咽をこらえるために。 歌祭りの晩以来、何事もなかった顔をして過ごしているフェリクスだった。旅立つときも、決してそれを見送らせることはしないだろう。 わかっているからこそ、ファネルは気をつけていた。見送りはいらない、と思っているならよけいに、自分ひとりだけは、見送ってやりたかった。せめて、笑顔で。 ファネルのたった一つの希望。長い年月追い求め、探し続けてきた希望。一度は捨て去った希望が、希望と呼ばれていることすら知らなかった。 「また――」 失うのか、この手から。フェリクスは失うのではない、そう言ったけれど、そば近くないことだけは確かになる。 「おかしなものだな」 ファネルは皮肉に笑った。自らは親を知らない。神人の子の常として、母は物心つく前に亡くなっているし、父親と呼ぶべき神人が誰なのかも知らない。 フェリクスもまた親子の情愛など知らない。知らない二人が、まるで糸を手繰りあうようにして出会ってしまった。 「人間ならば、運命とでも言うところかな」 苦い声でファネルは言い、フェリクスの小屋をちらりと窺う。監視しているつもりはない。そう解釈されるのは心外だった。 もっとも、フェリクスがそのように感じるはずはないと思ってはいる。彼がファネルの視線を悪意に解するならば、はじめからあのようなことを言うはずがない。 「旅、か……」 自分が最後の旅に出るのは、いつだろうか。神人の子としても、ずいぶん長い時間を過ごしていた。アリルカの同族はその大半が世代すら違うほど若い。 いままでに何度か旅に出ようと思ったことはあった。あったけれど、実行はしなかった。それが時というものだとファネルは思う。いまは少しだけ、旅に出てしまいたいと思う。 長い溜息をつき、フェリクスの小屋を見上げた。シェリが遊んでいるのだろうか。水音が聞こえている。楽しげに鳴く竜の声に、ファネルは視線を落とす。 「一度くらい見たかったものだな」 フェリクスが笑った顔を。彼が幸福であったところなど、一度も見たことのないファネルは、口の中でそっと呟いていた。 ある晩のことだった。妙な胸騒ぎを感じてファネルが飛び起きたのは。夜も更けて、あたりは寝静まった人々の気配だけがある。 「なんだ、これは……」 背筋がぞくぞくとした。とるものとりあえず、剣だけを手に小屋を飛び出す。樹上の小屋から下りるのに梯子を使う手間もかけなかった。一気に飛び降り、辺りを窺う。 「フェリクス?」 呼んだ途端に寒気がした。行ってしまうのか、と一瞬思う。こんな夜中に、一言もなく。誰にも知られず、黙って。 脳裏を駆け巡った問いはわずかのこと。すぐさまファネルは否定した。それならば、このような寒気は感じない。 「どこだ!」 誰に問うと言うのだろう。己に、かもしれない。己の血にかけて、問うたのかもしれない。走り出したファネルに迷いはなかった。 「ファネルの馬鹿。逃げ損ねたじゃないか」 議事堂裏の、フェリクス気に入りの湖のほとりに彼はいた。ゆっくりと息をするのもつらそうにしているのに、シェリだけはしっかりと抱いて。 「思ったより、早かったってことかな。魔族召喚はしてるし、仕方ないか」 体から魔力も体力も尽きていた。燃え盛っているはずの生命が衰えているのをあの晩ファネルははっきり見ただろう。湖に、自分の顔を映し出す。 「悪くない顔してるよね。いかにも不幸ってわけじゃない」 息をつき、体を起こそうとして果たせない。ほっと息を吐いた。そのままほとりに横たわる。水の音が心地良かった。 「あなたがそうしたいって言ってて果たせなかった最後のことをしようか」 ちょんとすぐそばに座り込んだシェリの鼻先をフェリクスはつつく。 「あぁ楽しかったって言って死にたいって言ってたよね。楽しかったよ、とっても。本当に、楽しかったよ。――あ」 不意に、シェリが夜空に向けて飛び立った。真珠色だけが煌く。手を伸ばしフェリクスは届かない。さらりと手首の鎖が涼しく鳴った。このときになって、シェリはフェリクスを残して飛び立った。 「行かないで」 伸ばした手の先に、光がある気がした。指先にすべての意識が宿る。光が大きくなった。 いまだ黎明の訪れる前。夜の闇の最も深い時間。ファネルは星明りに彼を見た。 「フェリクス……」 湖に漂う彼の体を。ファネルの声が聞こえたのだろうか。それとも、風のしたことだろうか。答えるかのようフェリクスの体が流れた。 そして。見る間に沈んでいく。ほとりに佇むファネルを残し、フェリクスはこの世界から痕跡を絶った。 |