湖に落ちたのを覚えていた。だからここは水の中だと思う。変な話だと自分でも思うけれど、死んだのも覚えていた。だから、おかしいと思う。目を閉じたままの鼻に届く生々しい草の匂い。 「気づいているならさっさと起きないか」 冷たい声がして、それでも目は閉じたままだった。聞いたことのない声に命じられる覚えはない。自分は死んでいる。腕の中、シェリの感触もない。ならば、目覚めたくなどない。 「いい加減に起きないか」 はっとするほどの鋭さで頬を打たれた。咄嗟に目を、開けてしまった。視界に飛び込んでくる驚くべきもの。 「……リィ・サイファ?」 伝説の半エルフの魔術師がそこにいた。腕を腰にあて、憤懣やるかたないとでも言いたげな顔をして。怒られている理由が、わからない。 「わかっているならば話は早い。こい」 言うだけ言って背を返そうとするリィ・サイファに、フェリクスは従うつもりなどなかった。動きたくない。死んでいるはずだ、自分は。 「なにをしている」 「どこに行くの。どうして僕を連れて行くの。行きたくない」 「お前が行きたくなくても私はお前に用がある」 振り返り様に睨まれた。怯みそうになる心を叱咤して、おかしいものだと思った。死んでも、怖いものがあるとは。 「僕、死んだんだけど」 「確かにな。ある意味では、死んでいる」 「じゃあ……」 「説明が聞きたければあとにしろ。私は忙しい。間の悪いときにきたものだ」 「どういうこと」 「メロールと代わったばかりで彼は動けん。メロールが迎えにくるはずだったのだがな」 どうやら説明する気がないことだけはわかった。ならばよけい、動きたくない。何もかも失って、なぜまだ働かなければならないのだろう。腕の中を見つめた。なにも、ない。 「僕の、ドラゴン……」 「真珠色の? あれならば先に行った」 「どこに!」 「いまから行くべき場所に、だ」 苛立ちが募っているらしい。言葉の端々に険がある。が、だからと言って従うつもりは毛頭なかった。断固として動かない、とばかりフェリクスは座り込んだまま膝を抱える。二人が互いに息を吸い、睨みあったそのとき人影が現れた。 「あぁあ、やっぱあんたのほうが先だったか」 のそりとした印象だった。そのくせ、彼は現れるときに足音を立てなかった。背ばかり高くてひょろりと細長い。見上げれば、茶色の目が精悍に光る。 「赤毛……」 嘘のようだった。死者が見る夢ならば、こんなこともあるのかもしれない。呆然と見上げる視線の向こう、赤毛の戦士がリィ・サイファに怒られていた。 「……お前への説教はあとにしよう。いまはまずこちらが先だ。こないのか」 問いかけはフェリクスへのもの。じっと睨んで動かなかった。 「自らくる気がないのならば、意思に反していようが連れて行くまで」 叩きつけるよう言い、リィ・サイファが手を上げる。フェリクスは弾けるよう立ち上がる。無論、ついて行く気になったわけではない。応戦しようとしていた。 「ほう……。手向かいするか。世の中は広いと言うことを実感するといい」 ふっとリィ・サイファが目許で笑う。それでも恐怖感は募るばかり。フェリクスは心を奮い立たせて対峙する。 「はい。そこまでね」 なにが起こったのか、わからなかった。リィ・サイファが魔法を放つ前、これが現実ならばウルフと呼ばれていたはずの赤毛の戦士に背後から抱きすくめられ、止められていた。 「ごめんね。あんた、フェリクスって言うんだっけ? サイファ、ちょっと気が立ってるから。念願が叶うかどうかの瀬戸際ってやつだからさ、許してやって」 「……若造。貴様、なにを知っている」 「あんたが俺に知られたくないって思ってることを、かなー。相変わらず嘘が下手だよ、サイファ」 へらりと笑ったウルフの目に、リィ・サイファが目を伏せる。唇を噛んでいるのが見えてしまった。 「だからさ、ちょっと悪いんだけど付き合ってくんない?」 ウルフの言葉にフェリクスはうなずかない。なにが起こっているのか、わからない。自分は死んだはずだ。そればかりが脳裏を巡る。 「そっか。いきなりそんなこと言われたって怖いよな。これ、預けるよ。こんなことしかできないけどね」 にっと笑ったウルフが差し出してきた剣を咄嗟に受け取ってしまった。戦士が自ら武器を放棄した事実と、いまだフェリクスを襲っている混乱が足を進めさせたのかもしれない。 「ほら、ちゃんと話せばわかってくれるじゃん。行こうよ」 リィ・サイファの背を抱いたままウルフが歩き始める。ふらり、とフェリクスは綱に繋がれてでもいるよう後ろに従う。 「なにをぼんやりとしている」 「僕、死んだのに。もう、終わりだと思ったのに。どうして」 「死んだからここにいる」 「ここって、どこ」 リィ・サイファとの短い言葉のやり取りにウルフがなぜか笑い声を上げた。後ろ姿を見ているだけで激しく心が疼く。自分が失ってしまったもの。彼らが得ているもの。 「幻魔界って言うらしいよ。半エルフの最後の旅の終着点って言ったら、わかりやすいかな?」 「ほう。お前にしてはわかりやすい説明だ」 「あんたが苛々してんだからしょうがないじゃん、俺がするよりさ」 「苛々など……」 「してるって。もう何十年苛つきっぱなしなんだか。俺の身にもなってよ」 いかにも情けなさそうに言うのに、やっとリィ・サイファの緊張が解けたのだろう、ほっとしたかすかな笑い声。フェリクスは自分の身を自覚した。何もない、誰もいないこの身を。 「別にね、敵対するつもりはなかったと思うよ、サイファにも。ちょっと機嫌が悪かっただけだから。半エルフって元々こんなもんだしね」 「メロール師は……」 「うん。あいつは人間に慣れたみたいだよね。でもサイファ、人付き合いよくないから」 言ってウルフがまた笑う。よく笑う男だ、とフェリクスは思った。別の、笑い声が似合う男がいない事実ばかりがそこにある。 言い返そうとするリィ・サイファをなだめるよう肩を叩くウルフの戦士らしい手。それに繊細な手を思い出す。竪琴を弾くのが一番似合っていた手。 「どうして――」 ぽつりと呟いた。死んでもまだ、こんな目に合わなくてはならない自分とは、いったい何なのだろう。 「ここにあんたがきたのか? 俺も説明は巧くないけど、なんか人間離れした人がくるらしいよ」 「僕は、人間じゃない」 「寿命がある人って意味だよ。ここにきた時点でどうも俺だって人間とは言えなくなってるらしいしね」 「どういうこと」 なにを誤解したのか説明し始めたウルフに、ついフェリクスは問い返す。黙ってそれを聞いているリィ・サイファにこそ、本当の説明を求めたかった。 「ここにきたってことは、俺もあんたも死なない身になったってこと」 「そんな……」 「あんまり嬉しそうじゃないね」 「だって! どうして! 僕は、死にたかったのに! もう終わりにしたかったのに! あいつがいないのに、どうして。どうして、僕だけ?」 座り込みそうだった。永遠に、喪失だけを抱えて生きていくなど、耐え難い。なにかの罰だとしか思えない。罰、なのだろうか。 「立て」 不意に伸ばしてきたリィ・サイファの腕に、気づけばすがっていた。立ちたくなどない、そう思ったときには立たされている。ついでとばかりウルフの剣を奪い返されているのに、反論する気も失せていた。 「歩け」 引きずるよう、歩かされた。泣いて喚いて暴れたかった。そのどれも、できなかった。やはり、涙はいまだ枯れたまま。 「メロール。待たせた」 「いいえ。それほどでも。あぁ、きたね」 にこりと、メロールが笑っているのが目に入る。それでもフェリクスはなにを感じることもできずにいた。ただ呆然と立ちすくむ。 「嘘――」 メロールの背中を守るよう、アルディアがいるのもわかっていた。リィ・サイファが、銀髪を短くした戦士のような男の腕の中に飛び込んでいくのも、見ていた。それでも、動けなかった。ありえないもの。人影。これが現実ならば正に幸福な悪夢。 銀髪の男の腕の中から、リィ・サイファが振り返る。目が、嘘のように和んでいた。 「さっさとしないか」 言葉に促されるよう一歩、前に進む。それでもまだ嘘のよう。銀髪の男のそば、甘い真珠色の髪の男が眠るよう座っていた。悪夢でもかまわない。二度と会えるはずのない、失った彼がここにいる。 近づく。ふらりと。現実だとは、とても思えないまま。閉ざされている目を、見たい。痛切にそう思う。 「あ――」 また一歩、近づく。そのときだった。開かれた目。色違いの、優しい光。 「お前は彼の魂の最後の欠片。お前は彼の半身なのだから」 リィ・サイファの言葉など、耳に入っていなかった。目覚めた男が腕を広げる。竜の深呼吸によく似て。ここに、凍りついた悲しさ寂しさ痛みが、解けて流れて数十年分の涙になって頬を洗った。心を覆う淀みと共に。 「タイラント――!」 数十年ぶりの、笑み。凍りついた心が張り裂け熱い迸りとなる。駆け出した。腕の中、有無を言わさず飛び込んだ。 「うわ。ちょっと待て! シェイティ!」 数十年、聞く事のなかった己の名。泣き笑いのまましがみつく。これがもし現実でないとしてもかまわない。いまここにタイラントがいる。 「君ってやつは!」 懐かしく耳慣れた鮮やかな笑い声。いっそう強くすがり付いてきたフェリクスにタイラントは忍び笑いを漏らした。 抱きしめたまま、竪琴を奏でようとして手を掲げる。どう考えても無理だった。ふっと笑ってフェリクスの髪に顔を埋める。水の匂いがした。彼の髪を撫でれば、蘇る懐かしい感触。心が弾みだす。 「……もう、怒ったりしない。喧嘩なんか、絶対しない。だから。ねぇ! ねぇ。大好きだから。何度でも言うから。だから」 タイラントは宙に手を遊ばせ、風を弾いた。その手首に、銀の鎖。薄青い宝石がきらきらと輝く。 「シェイティー。できない約束はしないほうがいいと思うけどなー。喧嘩、たくさんしようよ。大好きだなんて、言ってくれなくっていいよ。知ってるから。ちゃんと、知ってるから」 見上げれば、笑っていた。自分もまた、笑っているのをフェリクスは知った。気づけばうなずいている。いつの間にかまた彼の肩に顔を埋めていた。 歌が、聞こえる。世界の歌い手の、タイラントの歌。体中に満ちていく。 世界を寿ぐ歓喜の歌をあなたに聞いて欲しかったの。誰かにそう言ったリィ・サイファの声がした。聞こえていたけれど、フェリクスは聞いてなどいなかった。そんなことはどうでもよかった。いまここに。 「もっと歌って」 自分だけのために。誰のためでもなく。彼の心の中に、自分を慰め続けてくれたあの小さな竜を感じる。寂しくはなかった。あの竜もここにいる。シェリとタイラント。違って同じだった存在が一つになった。フェリクスの世界が鮮やかに色づく。太陽は輝き、風は息吹を取り戻す。 「いくらでも」 タイラントの声に、一人、また一人と立ち去っていくのを感じた。彼の腕の中に包まれて、彼の歌だけを聞いていた。陽が昇り、月が欠け、季節が変わっても醒めない夢。尽きることのない時の中、世界は再生した。 |