「そろそろ歌祭りだぞ」
 アリルカに戻らないのか、と言外に問うファネルをフェリクスは不思議そうに見やった。肩の上でシェリも同じような顔をしていたのだろう、ファネルが笑う。
「不思議だなって思ってたの」
「なにがだ?」
「だって、あなた。神人の子じゃない。よく毎日の時間の経過がわかるなって」
「私は――」
「メロール師もそうだったけどね」
 師匠の師匠だったという半エルフの名にファネルはどことなく面白そうな顔をした。彼からすれば何世代もあとの若い神人の子なのかもしれない。もっとも、それすらも定命の子の感覚と言えた。
「それでも僕が知る限り、日程を組むのとかは苦手だったけどね。来月の四日に会議、とかって言っても結構忘れてたから」
「まぁ……わからないでもないがな」
「だったら、あなたはどうして?」
 問いながらフェリクスは思う。結局、自分はこうして一生の間誰かに物を問いながら生きていくのだろう、と。それを悪いことだとは思わなくなっていた。善悪ではない、これが自分だ、と思う。
「リオンは知っていたのかな? 彼が杖を奉じた日は……そうだな、言ってみれば我々の祭りの日でもある」
「神人の子らの?」
「日、と言う言い方は本来正しくはない。我々は春の祭りと呼ぶが、まぁ、それも正しくはないんだが」
「ちょっと、ファネル。説明する気があるんだったらちゃんとしてよ」
 文句を言うフェリクスのことをシェリが笑う。妙に和やかな空気が流れるのが、フェリクスはかえっていたたまれなかった。
「我々の、春。だ」
 あえて区切って言ったということはそれで考えろ、と言うことかもしれない。ふとフェリクスはかつてのメロールとのやり取りを思い出す。師のカロルは怒鳴りつけ、放り出しながら教育をするような男だったけれど、メロールは一部の説明だけをして放り出す人だった。
 いずれにしても自ら問え、考えろ、そういう師匠だったとフェリクスは思い出す。懐かしい、とは思わなかった。温かい気持ちになりたいと思ったわけでもない。
「そうか……違うかもしれないけど。あなたがたって子供時代が長いんだってね? 子供から大人……違うな、幼児から子供になったお祝い?」
「そんなところだな。長い幼年期を終え自己の意識を明確にした子供たちが集落の年長者にはじめて交わって踊る」
「ねぇ……もしかしてそれって、チェスカ?」
「人間の間ではそう呼ばれる踊りだな。元は我々の祭りだ」
 あっさり言うファネルに、知らないことが今でもこんなにも多いことをフェリクスは悲しまなかった。あえて言うならば、喜びの名残のようなものすら感じた。
「それって毎年同じ時期だったんだ?」
「我々の毎年、だから定命の子風に言えば百年に一回程度だがな」
 何事もないよう言うファネルをフェリクスは罵りかけて溜息をつく。代わってシェリが鋭く鳴いた。
「よくそれで今年の歌祭りがいつかわかるよね」
 長い溜息の後に言えばファネルが目許で笑った。はじめてアリルカで出会ったときのような荒んだ雰囲気は欠片もなかった。
 闇に堕ちたことなどないように。それでもファネルは自らの歴史として、それを否定しない。必ず闇エルフのファネルと名乗る。その潔さが、強さがフェリクスは羨ましい。
「慣れだな」
 肩をすくめたファネルの腕を物も言わずに掴んだ。咄嗟にシェリがしがみつく。肩の竜はフェリクスがなにをするつもりか悟っていた。
 瞬時の転移呪文。これだけは実はカロルより速い。師に勝るものなどたいして持っていないフェリクスにとっての小さな誇りだった。
「お前な……」
 さすが神人の子、と言うべきか。ファネルは転移呪文に揺らぎはしなかった。多少の呆れ顔は隠さなかったとしても。
「慣れなんでしょ? いい加減に慣れれば?」
 突き放すよう言い、フェリクスは歩き出す。アリルカに帰還してすぐに歌祭りの準備が整っているのを知った。
 普段は広い国中に点在している民が、今日ばかりは集まっている。議事堂前は今頃ずいぶんな人だかりだろう。
「行くか?」
「僕が行く必要があるのか、ちょっと疑問なんだけどね」
「あるだろう。お前はいまだ魔術師の長だ。私が物理攻撃手の長であるように」
 戦争は終わった。とっくに、終わった。それでもアリルカは防備を欠かさない。自ら攻撃することは決してない。が、攻められればいかなる手段を取ろうとも国を守るだろう。
 肩をすくめフェリクスは返事をしない。そろそろ弟子の一人に長の地位を譲りたい、と思っている。当時は致し方なかったとは言え、もう自分がこの地位にいる必要はない。むしろ弊害が大きい、そう思っているのだが、いかんせん寿命と言うものがない神人の子らにはその考えが伝わりにくかった。これもいずれ改めていくべきことだろう。人間が魔術師に寄り添ったように、定命の子らは神人の子らに寄り添うべきだ。互いに。
「僕の役目じゃないけどね」
 いずれ、誰かが。チェイスの子供の時代かもしれない。そう思ったことでフェリクスはかすかな和みを覚えた。
 日のあるうちからそこかしこで歌が披露されていた。ゆっくりとした旋律、踊りを誘う速い歌。いずれもが調和して、吟遊詩人の守護女神でもあるエイシャに相応しい響きだった。
 フェリクスはリオンの杖の前にエラルダやファネル、デイジーら各部署の長たちと座っている。みなが楽しそうな顔をしているときに一人笑わずにいるのは、かえってみなのためにならないと思うのだが、出席を拒めばそれもひと騒動の種になる。
「楽しい?」
 シェリを膝の上に抱えていた。自分で演奏することのできない吟遊詩人の魂の欠片は、はじめの何度かの祭りではわずかに苦痛を浮かべた。いまは心から楽しそうに彼らの演奏を聞いている。
「ほら、イメルがくるよ。あなたの弟子だよ」
 日が落ちた。篝火が盛んに燃え上がり、祭りに色を添える。魔術師の誰かがしたことだろう、リオンの杖の立つ小島は魔法の灯りに彩られていた。
 イメルはちらりとフェリクスを見る。許しを請うような視線にフェクスは軽くうなずいた。見当はついていた。
 彼が演奏した曲、それはタイラントの作ったものだった。かつて何度も聞いている。そのたびに指摘したい個所がいくらでもあった。が、心で覚えているそれを説明できるほどフェリクスは音楽の知識を持たない。自分が彼の歌を歪めていない保証もない。
 ゆっくりと竪琴を奏で終え、歌声を収めたイメルの問うような視線にフェリクスは答えられない。以前よりはよくなった。けれど彼の歌ではない。ふと視線をそらした先に。
「ファネル。ちょっと相談があるんだけど。協力してくれない?」
「なんだ」
「あなた、世界の歌い手を知ってた。彼の歌も知ってる。覚えてるよね。忘れるわけがない。あなたは神人の子なんだから。だから、僕にそれを使わせて」
「おい、フェリクス。それは……」
「あなたの心に入れてくれない?」
 言った瞬間ファネルが赤面したのが見えてしまった。そんなつもりではない、と言いかけてファネルも理解していることを知る。理解しているからと言って羞恥を覚えないかと言えばそのようなこともないのだろう。
「いやなら……」
「驚いただけだ。かまわん。それで?」
「あなたと僕を繋ぐ。ちょっと。あなたもだからね。僕らが聞いている歌を、あなたが風に乗せる。それくらいできるでしょ、風系の使い手なんだから」
 目を白黒させるシェリをむんずと掴み、成り行きを窺っている民に目を向ける。途端になぜかみなが目を伏せる。よほど怖い顔でもしていたらしい。
「別にとって食おうって言うんじゃないんだから、そんな顔しないでよ」
 ぽつりと呟いたフェリクスに民が引きつった笑い声を上げた。フェリクスの、勘違いだった。彼がそのようなことを言うとは。世界の歌い手の音楽を再現しようとしていることはほとんどの民が理解していた。それを彼がするとは、とても思えなかっただけだ。
 そして魔術師たちは息を飲んでいた。フェリクスがシェリに向かって「風系の使い手だ」とはっきり言うところを見たことはなかった。理由もはっきりしないまま、切なさが満ちた。
「いいね? ファネル」
 うなずきを了承ととってフェリクスはファネルの心に侵入する。彼にとってはその程度の意識だった。
「……非常に淫靡なことをしている、程度の認識は持って欲しいが」
「そんな気は欠片もない」
「……私のほうは人間風に言えば近親相姦でもしている気分だが」
 聞き間違える要素のない精神の接触の中で交わされた言葉にフェリクスは無性に苛立つ。小指の先を弾いて彼の心を打った。もっとも相手は神人の子だ。その程度は虫に刺されたほどにも感じないだろう。
 ファネルの心を通した向こう側でシェリが笑っているのを感じた。到底シェリと直接つながることはできなかった。軽い接触ならばともかく、ここまで深く入り込めば、あの竜が彼の欠片でしかないのをまざまざとこの目で見なければならない。
「ファネル。誘導して」
 神人の子の、強大な精神力を感じた。フェリクスも力の強い魔術師だったが、遥かに、異質と言ってしまっていいほど強い。それでいて同じ部分もある。
「それは――」
「あなたが僕の誰かだからとか言ったら、この場で攻撃するから。僕も廃人だけど、あなたも無傷では済まないからね」
「……慎むことにしようか」
 くすくすと心の中でファネルが笑う。表に現れている人格より、実は明るいらしいとはじめて知った。ファネルの誘導に従って、フェリクスは彼の歌を見つけていく。充分集まったところで、シェリに渡した。
 接触を保ったまま目を開く。ファネルも辺りを見回していた。シェリが、輝いている。夜空にくっきりと鮮やかに、真珠色に。気を利かせた魔術師が、魔法の灯りを消した。
 竜が吼え、風が来る。風には音色がついていた。イメルが膝を立て、食い入るように音楽に聞きいる。民が陶然とする中、いつになく素晴らしい歌祭りにリオンの杖が燦然と光を放っていた。




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