あれから何度、歌祭りをすごしてきただろう。リオンの杖の前でアリルカの民がみなしてたくさんの歌を披露する。杖への、延いてはエイシャ女神への感謝であり、豊かな一年への感謝の祭りだった。 フェリクスの耳には劣悪としか聞こえないイメルの歌も少しは巧くなったような気がする。 「気のせいかもね」 シェリに向かって呟けば、そんなことはないとでも言うよう竜は鳴いた。その背を撫でフェリクスは答えない。 彼の耳にはいまもタイラントの歌声が鮮やかだった。彼の歌以外に歌はない。彼のない今この世界に歌はない。 アリルカの民のうち、フェリクス一人が歌祭りを鬱々として楽しまない。それに気づいているのはおそらくファネルだけだろう。 エラルダたちも、デイジー親子も気づかない。もとより弟子たちは当然のこととして。それでいいとフェリクスは思っている。みなが楽しんでいる祭りに水を差すことはない、と。 「僕もやっと多少は角が取れたかな」 少しだけ、前に進めたような気がする。本当は、進んでいないのかもしれない。それでも前のようアリルカの民と、殊に人間と衝突することは少なくなった。 「向こうが変わったって言ったほうが正しいんじゃないかと思うけどね。どう?」 シェリを抱きかかえていた手を離せば、竜は身軽に羽ばたいて肩へと移る。陽射しにきらきらと真珠色の翼が煌いた。 フェリクスはその美しさに目を細める。それでいてやはり心の中に空虚さを認めた。こればかりはもう、どうしようもないことかもしれない。そう思っても虚しかった。 「綺麗なものを綺麗って心から思えなくなるってのも、寂しいもんだね」 耳許でシェリの鳴き声、慰めるような戯れるような竜の声にフェリクスは肩をすくめる。その拍子に竜が体勢を崩した。 「なにやってるの」 遥かな過去に言ったのと同じ言葉。同じ仕種で竜を支えれば、あのときのような照れた態度が返ってくる。 フェリクスはわずかに息を飲む。何もかもが繰り返しなのに、彼だけがここにいない。欠片だけを手にしていまここに自分がいる。 「酷いね――」 こんなもので自分が満足すると思っていたのだろうか、彼は。心の中で即座に首を振った。名残でもないよりはいい、そう思っていたに違いない。 「……あるほうが、つらいってことを学べよ。馬鹿」 今更いない男になにを言っても仕方ない。仕方ないと思えるだけ、フェリクスは時間を過ごした。諦念でも、進歩でもない。 「時間、か……」 自らの内に生命の炎を見た。リオンが最期を迎えるとき、その炎はいかなるものだったのだろう。フェリクスはそっと胸を押さえる。 「いまはいま、だね。できることをまずしようか」 シェリに言えば高らかに鳴いた。自分よりよほどこの体に宿る生命のことを悟っているだろう竜。だからこそシェリが何も表現しようとしないのだとフェリクスは気づいている。 フェリクスは黙って歩いた。アリルカの国境の外に出ていた。吹き抜ける風の匂いが違う気がする。森の外に出たということかもしれないし、魔法の結界の外に出たと言うことなのかもしれない。 彼は人知れず浄化を進めていた。旧シャルマーク国内はいまだ魔法の瘴気に侵されている。魔族を召喚した王が滅んでいる以上、根本的な浄化は不可能。 「それでもやらないよりましだしね」 シェリに向かって言ってフェリクスは呪文を詠唱する。誰もこのことは知らない。フェリクスはミルテシアやましてラクルーサのためにしているのではない。 アリルカのために。人間の王国とはかかわりを持たない、と言ったアリルカだ。唯一交流があるのはイーサウのみ。 そのイーサウとの通商路に魔族が続出するようでは人間は安心して歩けない。フェリクスの弟子たちは気軽に転移魔法を行使してイーサウに行ってしまうせいで気づいていなかった。 「だからこれは、僕の役目ってとこだね。アリルカのためにって言うより、僕のため、かな」 魔族を召喚しようとした自分。それを責めなかったアリルカの民。だからこそフェリクスは自分の意思として償う。 「謝ってるつもりはないか。悪かったなんて、やっぱり今でも思ってない。あのときは、僕にはああするしかなかったしね」 責めるでもなく同意でもなくシェリが鳴く。あるいは自らを責めているのかもしれない、この小さな竜は。フェリクスを止めることもなだめることもできなかった己を。 「いいの。気にしないで。それに、魔法に侵された大地を浄化するのは得意だよ。幸か不幸か、前にやってるしね」 彼と出会う前だった。フェリクスは思い出す。ラクルーサの王城の至近に塔の迷宮を建てた。大臣を反逆者に仕立て上げ、この世界そのものに復讐をしようとした。結果、塔のあった場所は吹き荒れ暴走する魔力に侵されて荒野となってしまった。それを元に戻したのもまた、フェリクスだった。 「なんだか僕はずっとおんなじことばっかりしてる気がするよ。進歩がないって言うべきだよね。ずっと他人を恨んでばっかり」 呟いてフェリクスは長い溜息をつく。彼がいたころだけが、幸福だった。彼がそばにいたから、あらゆる人を憎まずにいられた。 フェリクスの圭角をなだめ、この世界の美醜を共に語り、いつも笑顔と温もりで包んでくれた男はもういない。 「僕は進めない。進みたくない。……あなたがいない。それなのに、僕一人でなんかしたら、いやじゃない。あなたがいなくっても平気みたいで、いやじゃない」 風に向かって手を差し伸べた。あたかもそこにタイラントがいるかのように。舞い降りたのは、銀の竜だった。 「ねぇ」 シェリが目を煌かせていた。色違いの目が日の光に輝く。彼と同じ目だ、とフェリクスは思う。同じで、違う目だと。 「そうだね。うん……いないよりは、全然いないよりは、ずっといいかもね」 胸に抱き取り、頬ずりをする。彼の温もりとは違う温度だったけれど、それでも竜は温かかった。 何度もアリルカを出るうち、気づく者が出始めた。フェリクスが無言で何をしているのかを。弟子たちは手伝う、とは言わなかった。彼らの師がなぜ黙っているのか悟ったのだろう。だからこそ遠くない将来、弟子の誰かが引き継いでくれる予感がした。 代わりに時折ファネルが同行するようになった。ファネルも言葉少なく、護衛だと最初に言ったのみであとはほとんど喋らずフェリクスに従う。 心地良い、と言うことをもしもいまでも覚えているのならばこれだろう、とフェリクスは思う。言葉を交わさずとも、何をするべきか次にどこにいくのかファネルはわかっている。 「なにあなた、妬いてるの」 そっぽを向いたシェリに言えば、思い切り顔をそむけられた。その背を戯れめいた手で叩けば上がる悲鳴。 「シェリに、妬かれるようなことをした覚えはないが?」 珍しくファネルが口を開いた。元々ファネルは寡黙な質ではない。少なくともフェリクスと共にいる限りは。いまはただフェリクスの沈黙に付き合っているだけだった。 「あなたは黙ってても僕が何したいかわかる、それが気に入らないんでしょ。そういうの無駄な焼きもちっていうんだけど。ほんと馬鹿だよね」 抗議するよう鳴きたてたシェリの首根っこを掴んでフェリクスは眼前に吊り下げた。目許の険悪さにわずかにシェリが怯む。 「仕方ないけどね、本体も馬鹿だったんだから。人のことを言えないくらい僕も馬鹿だけど。でも、あなた馬鹿の欠片でしょ。もっと馬鹿なのは当然じゃない?」 「……酷い言い草だな」 「本当にそう思う? ほらね、あなたのほうが僕のこと、わかってるじゃない。それでもまだくだらない焼きもち妬くの。それだったら、捨てる」 高らかに宣言したフェリクスに唖然とし、次いでファネルはシェリを見る。軽い眩暈を感じた。 真珠色の竜は、その全身を羞恥に染めたのではないかと思うほど美しく輝いていた。小さく、甘えるように鳴く竜にほだされることなくフェリクスは顎を上げて見せる。 「どうしようかな。ほんとに捨てちゃおうかな」 掴んだ首根っこをさらに高く掲げ、フェリクスは遠くを見やる。投げられる、と悟った竜が慌てて抗議の声を上げだすのにかまわずフェリクスはシェリを投げた。まっすぐ上に向かって。 「ほら。やっぱり馬鹿」 すとん、と肩に落ちた竜が目を白黒させるのを見もせず知ったフェリクスが半ば呆れ声でそう言う。ファネルはようやく気づく。 「痴話喧嘩ですらなく、もしかして睦言なのか、それは」 「ねぇ。ファネル。僕は時々あなたが神人の子だって言うのを忘れそうになるよ」 「半エルフよりはそちらの話に耐性があってな」 にっと笑って言うファネルだったが、わずかに顔をそむけるところを見ればやはり照れがあるのだろう。言われたフェリクスのほうこそ照れたいような気持ちがして当然のはずなのに、心の中には索漠だけがあった。 「気づいても、ほっといてくれるあなただから、捨てたりしないよ」 頬に長い首をこすり付けてくるシェリに向けて呟けば、ファネルが訝しそうな顔をした。それにフェリクスは黙って首を振る。 自らを省みれば、情けなくなってくる。彼を失って以来、負の感情だけがはっきりと残って、あとはすべて失ってしまった。 はっきりと残っているとフェリクスが考えている負の感情ですら、それが確かなものなのか確信はない。 「全部、名残」 かつて経験したことの。そして負の感情が鮮やかにあるぶん、フェリクスは自らを思わざるを得ない。美しいとは言いがたいものばかりを考え、見て、実行して生きてきた自分と言う存在の在り方を。 「フェリクス」 不意に前を向いたままのファネルに呼ばれた。何かと問うこともせずその背中を見つめる。 「お前は悪ではない。お前が立った場所と時間と。そういう問題だな」 「そういうことはねファネル。こいつが言うべきことだよ。あなたがするとまた泣くじゃない」 「彼の言葉だと思うんだな」 ふ、とフェリクスは足を止めた。ファネルの言葉の意図がわからなかった。ファネルはいったい誰を指したのだろう。シェリか、それともタイラントか。無言で首を振り歩き出したフェリクスの肩の上、シェリが小さく鳴いていた。 |