黙然とシェリを撫でるフェリクスを、チェイスはじっと見ていた。突如として悟った。もしかしたらこんな話をしてくれるのは最初で最後なのかもしれない。彼の弟子ですら聞いたことのない話なのかもしれないとも。
「ねぇ。もう一つ聞いてもいいかな。……他の人じゃ、だめなの。別の誰かをまた好きになるってこと、ないの」
 それがチェイスの理解の限界だった。フェリクスは思う。彼女はいまだ表面的にしか言葉を理解していない。あるいは生涯理解できないかもしれない。
「もしも君が別の誰かになることができるっていうなら、僕に教えて。そうしたら僕も考えてみるよ」
 それしか言いようがなかった。言葉で言い尽くせることではない。選んだとか選ばれたとか、そういうものではないのだとフェリクスは言いたかった。が、それも違うと思う。いまそれを言えばチェイスは運命だと言うだろう。フェリクスにはそうではないとしか言えない。では何なのだと問われてもやはり言葉はなかった。
「そっか……」
 納得しかねる声、と言うよりははぐらかされた不満に聞こえた。フェリクスは肩をすくめてシェリを撫で続ける。
「君は僕にはっきりものを言ったね」
「別に悪意はなかったわよ。わかってくれてると思うんだけど」
「わかってるよ、それは。だから、僕も忠告をしよう」
 フェリクスが目を上げる。その視線にチェイスは射抜かれるかと思った。この不満だらけの鬱々とした男が、真に偉大な魔術師なのだとはじめて感じる。思わずごくりと唾を飲む。
「君はまだ若いね。それってどういうことだか、わかる? 君はまだ新しい考え方に馴染むことができる」
 自分で言いながらフェリクスはふと自分に残された時間を思う。そして過ごしてきた時間を。長い年月、いったいなにをしてきたのだろう、この自分と言う存在は。
「君が僕をどう思っているか、僕にも理解できる。君が感じている不快さを、僕自身、否定しない。ただね、チェイス。考えてごらん。君はいつも正しいことを言ってる」
「そうでもないけど?」
 わずかに冷笑を含んでいた。そのようなものに惑わされるフェリクスではない。視線はまっすぐにチェイスを見据えていた。戸惑ったよう一度顔をそむけ、そして顔を戻したときチェイスはうなずく。
「……そうありたいと思ってるけど」
「それが悪いとは言わない。君には信念がある。たぶん、正しい信念が。でもね、それっていいこと?」
「え?」
「君はいつも正しい信念のもと、相手に接している。それって正しい? 正しい信念が、いつも正しいとは限らないよ、チェイス」
 自らの言葉が、フェリクス自身を撃った。思わず仰け反りそうになって、シェリを抱きしめる。しがみつくように。
 長い月日、フェリクスはなぜ、と問い続けてきた。いつも相手の意図が理解できない、なぜかと問い続けてきた。
 それは同時に自らが相手を理解しようとしないことだと今更ながらに悟る。自嘲したくなった。
「忘れちゃいけない」
 チェイスに、そして同時に自分に言う。シェリが小さく鳴いた。励ましの声にフェリクスはうなずいて言葉を続ける。
「君は君なりに色んな目に会ってきたんだと思う、王国で。まだ小さなころに父親はアリルカの味方になっちゃったわけだしね」
 チェイスが唇を引きしめた。同情ならば許さないとでも言いたげな視線にフェリクスは答えない。その必要を感じなかった。
「……まぁね」
 チェイスは実際、フェリクスが示唆したような不幸にあっている。父親が異種族の味方をした。母親と年端もいかない自分だけが人間の中に残された。後になって人間の中、と思ったものの、当時はなぜ自分たちが迫害されるのか少しもわからなかった。
「でもね、思い出してごらん。アリルカの民はみんな多かれ少なかれ、つらい目にあってる。自分が耐えられることが相手に耐えられなかったからと言って責めるのは、正しい?」
 はっとしてチェイスは息を飲んだ。こうして言われてみるまで、自分のしていることを心から考えたことはなかった。
「アリルカの民はみんな、つらかったから、ここにいる。みんなどこかに傷を負ってる」
 チェイスが胸に手をあてるのをフェリクスは見ていた。体の傷ばかりではなく、心にも傷を負っている。それを彼女は理解できるだろうか。
「君は君が正しいと思うことを言ってる。でもね、チェイス。怪我人に怪我を治せって責めるより、傷を治す手助けをするほうが僕は建設的だと思うよ」
 たとえ話のほうが彼女には理解しやすいだろう。理解して欲しい、是非ともさせたいとフェリクスは思っていた。
 いまだ若いチェイスに。これからのアリルカを背負っていく世代に。相手に向かって問い続けるばかりであった自分が、誰かを理解しろなどと言う日が来たのを、カロルはいったいどう思うだろうか。それを思えば不思議な気がした。
「アリルカは、多種族の国なんだね」
 ぽつりと言ったチェイスの言葉にフェリクスは理解の萌芽を見た。久しぶりに物を教えることを思い出した。かつて感じた喜びの名残と共に。
「色んな人がいて、色んな種族がいて。考え方も多種多様で。まとまりなんかなくっても、一緒に生きていかれればいいよね」
 チェイスの言葉にフェリクスはうなずく。彼女がこのまま新しい考え方を自ら選んで吸収して成長していくことができたなら。アリルカはいい国になるだろう。寿ぐよう、シェリが鳴いた。
「君は若い。いくらでも新しいことができるはずだよ。住み易い国にするのも、アリルカを瓦解させるのも、君たちの世代だ。……弟子ども、聞いてたな。僕の遺言だと思って覚えときな」
 まっすぐチェイスを見たままフェリクスは言った。驚きに瞬きした彼女が辺りを見回す前、ばつの悪い顔をした魔術師たちが三々五々、顔を出す。隠れていたのだろう、髪に木の葉や蜘蛛の巣が絡んでいた。
「フェリクス師!」
「一応、言っておこうか? チェイスに仕返ししようなんて馬鹿な考えを起こした愚か者は子々孫々に至るまで僕に呪われると思っておきなよ。僕は言ったことは守るからね。たとえ僕が死んでても、呪われると思っておきなよ」
 弟子たちを睨みつけるフェリクスの眼差しに、彼らだけではなくチェイスもが震えた。彼の視線の強さにだけではなく、自分が魔術師たちに暴力を振るわれる可能性があるほどのことをしたのだという事実が、ようやくチェイスに染み渡る。
「フェリクス師、まさか……」
「まさか、なに? そんなこと考えていなかったとでも言うつもり? 師匠を侮るにもほどがある。弟子ども、お前たちの師匠はそれほど愚かじゃない」
「いえ、その……。ははは」
 虚ろでばつの悪い顔。チェイスに向けてわずかに頭を下げた。それを再びフェリクスは睨む。
「なにかしたいんだったら、自分の責任においてやるんだね。僕に代わって仕返しする、とか馬鹿な理由をつけるなよ。そういう理由だから僕が怒ってる。理解はしてると思うけど?」
 もちろんだ、と口々に言う魔術師にチェイスは唖然とした。何より理由を挙げたフェリクスに。
「自分がすることは自分で責任を取る。当然じゃない?」
 それができないのならばするな、他人に理由を求めるな。そう言うフェリクスにチェイスは毅然としたものを感じる。が、納得はできない。自分と他者の正義感の違いだ、と悟った。正しいことは一つではない。はじめてそれをチェイスは知った。
「あの、フェリクス師。例えば、の話ですが」
「なに」
「師に呪われるとします。が、もし自分が結婚せず、子供もいなかったとしたらどうなるのでしょうか」
「お前ひとりに子々孫々ぶん祟ってやる。……あのね、そもそも呪われないことを考えなよ」
 そうしてフェリクスは長い溜息をついた。シェリに向かって無言で問いを発する。シェリも器用に肩をすくめた。
「……馬鹿な弟子ほど可愛いって言うけど。つくづくカロルの偉大さがわかるってもんだね。僕はそこまで寛容になれないよ」
「それってあんたが馬鹿な弟子だったってこと?」
 チェイスの言葉に魔術師たちが揃って体を震わせた。それを面白く見ながらチェイスは眉を上げる。
「否定しないね」
 わずかに顔を顰めてフェリクスは立ち上がる。引きつった口許が見えた。あるいはそれはフェリクスの好意の名残、それに似た片鱗だったのかもしれない。
「弟子ども。働け」
 その厳しい声に魔術師たちがきりりと姿勢を正した。髪に蜘蛛の巣をつけたままでするものだからチェイスは笑いをこらえるのに必死だ。フェリクスは弟子もチェイスも見ず背を向けた。
「僕が、こんなことを言う日がくるんだね」
 少しばかり疲労を感じた。それでもシェリを肩には上げず抱きかかえたままゆっくりと足を進める。
「あなたにもどうしてって、言い続けてばかりだったね。少し、前に進めたのかな、僕も。前に進むってどういうことだか、なんだかもうよくわかんないけどね」
 心の中に淀んだ疲れは、ただの疲労ではないのかもしれないと不意に気づいた。思わずフェリクスは空を仰ぐ。
「……いまの僕が、もしもあなたにもう一度会えたなら。前みたいに喧嘩ばっかりしないで済むかな。それとも、わかった上で、やっぱり喧嘩するかな」
 どちらだろうとフェリクスは思う。答えはなかった。シェリも黙っていた。なにを言ってもフェリクスを傷つけるとばかりに。
「……考えても、無駄かな。もう、会えないものね」
 空に向かってフェリクスは言う。彼の砕けた魂が、いまだこの世界のどこかを漂っているのなら、風に向かって言えばいい。風が彼の元に届けてくれるだろう。
「この世のどこにも、いないね」
 フェリクスの魂がそれを感じている。伴侶がもうどこにもいないことを。シェリと言う小さな銀の竜だけを形見に残して。
「寂しいね」
 シェリをぎゅっと抱きしめた。寂しいとしか、言いようがなかった。それでいて、なんて薄っぺらい言葉だろうかと思う。こんなものじゃない、そんな生易しいものじゃない、心はそう叫ぶけれど、他に言葉が見つからない。
 シェリを抱きしめたまま歩くフェリクスの耳にアリルカの喧騒が届きだす。日々の暮らしの立てる物音に宿るその活気。
「ねぇ」
 誰に問うでもなく、フェリクスは他の誰かが立てる物音の中に佇むばかりだった。




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