フェリクスは一人ひっそりと議事堂裏にいた。肩にシェリだけを乗せ佇む。その目は何を見ているのだろうか。
「罪って言ったら、格好つけすぎだよね」
 呟いて、視線を落とす。自分が眠っている間に誰かが浄化の儀式をしたのだろう。それでも魔族を召喚しかけた大地はいまだわずかに病んでいた。
「これだけは僕がしなきゃね」
 呼び出した者が、清める。それが魔族召喚の鉄則だ。それがなされなかったためにいまなおシャルマークは病んでいる。完全に清められることはたぶんないだろう。
 ゆっくりと呪文を詠唱する彼の肩、シェリが一緒になって魔法を行使する。フェリクスがしたことだと言うのならば、自分も同罪だと。
 それにわずかに心が慰められた。いつも一緒だと言ってくれるこの小さな銀の竜をも自分は闇に堕としそうになったのだ。それがなににもまして悔やまれる。
「そんなこと考えてなかった。馬鹿だね、僕は」
 きゅう、とシェリが甘えて鳴いた。発動していく浄化の魔法があたりを仄かな白に染めていく。
「僕は、どうでもいいかなと思ってるんだ、ほんとはね。でも、あなたはだめ。あなただけはだめ」
 もしも自分がいまだ希望の名に相応しいのならばそれはシェリのため。フェリクスにとってシェリこそが希望だった。持てるかどうか確信などどこにもないのに。
「誰も、なんにも言わないね」
 清められていく大地に腰をおろし、フェリクスは湖に細波を立てる風を見ていた。浄化の魔法と相まって、こんなにも美しいものがここにあると思わせてくれる。
 それなのに、心が動かない。綺麗なものが綺麗だと感じられない。いつもと違う景色なのは、わかる。違うことが、わかるだけ。
「甘えてるのかな、僕は。いまだに」
 魔族召喚をしかけたフェリクスを、アリルカの民は誰一人として責めなかった。魔法に痛めつけられた体を気遣って小屋に顔を出してくれた神人の子ら。その子ら。そして人間たち。恐る恐る弟子たちも顔を見せた。
 その誰一人、フェリクスを責めなかった。人間たちは自分たちこそが悪かった、そう言った。相手のことを考えてこなかった、そう言った。フェリクスが暴挙をなしたのならば、そこまで追い詰めたのは自分たちだ。アリルカの民としてフェリクス一人を責めることはできない、と。
「本当かな?」
 真実の言だろうとは、思う。顔を見せに来た人間たちは心の底からそう言ったのだと理解している。けれど、それが人間のすべてだろうか。
 違うと即座に否定した。神人の子らとて同じこと。自分の同族も。そうフェリクスは思う。種族が同じだからと言って、同じ考えをするはずがない。一人ひとり違って当たり前。
「それを受け入れて当たり前になればいいって、あなたは言ってたよね」
 それがなんと難しいことか。それすら、当然のことかもしれないとフェリクスは思う。
「叱られて、責められて、追放されたほうがずっと、楽」
 そうされたかった。アリルカを出て行きたいと願っているわけではない。そもそも拘束されているわけでもない。出て行きたかったら自分の意思を止めるものはなにもない。
 だからフェリクスは責められないこと自体に苦しめられているといってよかった。
「詫びられると、怒りの矛先が鈍るよね」
 シェリに言えば困った鳴き声。フェリクスは膝の上に抱えて頬ずりをする。
「だって、言えないけど。僕は悔いてない。反省なんかこれっぽっちもしてないよ。気づいてるはずなのにね。僕は人間を滅ぼしてやろうとした。アリルカにいる人も、王国の人も関係なく。気づいてるはずだよね。それでも、怒られなかった」
 どうして。呟きながらシェリの背に顔を埋めた。ぽつん、と湖のほとりでフェリクスは一人きりだった。
「僕はシェルマークの魔王と同じことをした。ファネルに邪魔されなかったら、確実に発動してた」
 邪魔をされたと感じてしまうこと自体、フェリクスがまったく魔族召喚を悔いていない証しだった。それをファネルはもちろん、誰にも言えない。
「あなたにだけだね」
 本心を言えるのは。続けなくともシェリは悟ったのだろう、長い首を擦り付けてきた。小さな竜の温もりが体に染みとおる。
「あんなことしでかした僕なのにね。どうしてだろうね、誰も追放するって言わないのは。リオンの杖も僕を排除しようとしない。なんでだろうね」
 自分がかかわっているせいではない。それだけはフェリクスにも断言できた。確かに守りの魔法を発動させる際、フェリクスは魔力を提供してはいる。だがかかわったのはそれだけだ。魔法そのものはリオンのものだった。
「あんたを追放するとなるとあたしも追放だからじゃない?」
 はっとして振り返った。シェリと二人きりで話しているのを聞かれたことが異常なほど癇に障る。チェイスだから、よけいにそう感じるのかもしれないとフェリクスの冷静な部分が考えていた。
「悪いけど。あたしは自分が悪いことしたとは今でも思ってない」
「同感だね。僕もだよ」
「そう? あたしはあたしが信じることを言った。それがあんたの常識から外れてるとはまるっきり考えてなかった。それだけ」
「そうだね。それだけだね。いつも人間はそう。自分が絶対に正しいと思ってる」
「だから! 言ってくれればよかったって言ってるんじゃない! どうして教えてくれなかったわけ? なんにも言わないでいきなり切れられたってこっちだって戸惑うわよ!」
「いつ言えた?」
 しん、と静まり返ったフェリクスの声がチェイスの激情に水を差した。正しく氷のように。
「いつ、言えたの。君は自分が絶対に正しいと思ってた。信じるも何もない。そう思い込んでたじゃないか。僕が悪い、そう言い募る君にどこからどうやって説明すればよかった? 説明したら聞いたの? そんなの気の持ちようだとかなんとか言ったんじゃない? 忘れてるみたいだから言っておくけど。僕はずっと人間の中で暮らしてきた。人生のほとんどをラクルーサの宮廷魔導師としてすごした。わかる? 僕は人間の考え方を知ってる。僕がなに言ったって聞く耳持つことなんかないのも知ってる」
「待ってよ! それって酷くない? あたしはあんたが会ってきた誰かじゃない。言ってくれれば聞いたと思う」
「今更言ってもね。僕の知り合いの人間の中でも、聞く耳持つ気がある人は最初から言うんだよ。自分はこう思うんだけど、お前はどう考えるかって」
 差異がそこにあること。違うからと言ってそこに上下はないこと。たったそれだけの言葉にその意思をこめられる人がかつてはいた。いま世には、いるのだろうか。
 フェリクスの言葉の意味が理解できたのだろう。チェイスが唇を噛んで青ざめる。やっと、ファネルが言っていた意味がわかった気がした。
「今更だよ、チェイス。僕らはすでに信頼を結ぶ余地がない。元々僕のほうにその気があんまりないからね、君に限らず。僕も悪かったとは思う。僕に残されてる生き物らしい何かが許す限り。僕は別に世の中を拗ねてるわけでもないし、感情がないって言うのも修辞じゃない。巧く説明なんか、できないけどね」
「……失ったのって、どういう意味なの」
 チェイスは尋ねた。フェリクスはシェリを膝に抱えたまま眉を上げる。質問の意図を取り違えはしなかった。ただ、こう思っただけ。これだけ言ってもまだ聞く気かと。長い溜息をついて湖面を揺らす細波を見る。
「君が……そうだね、心臓をもぎ取られて手足を引き抜かれて、視力を失い言葉を失い、耳も聞こえなくなった、その気持ちを僕に聞かせてくれることができるなら、僕も答えられると思うよ」
 今度こそはっきりとチェイスは血の気を失った。はじめは侮辱されたのだと思った。すぐさまフェリクスは本心を今だけは語っているのだと悟った。想像してみる。無理だった。
「わからない……」
「だろうね」
 短く言ってフェリクスはシェリを抱きなおす。今のいままでチェイスは、フェリクスは単に恋人の一人に先立たれただけだと考えていた。殺されたらしいとは聞いていたけれど、それだけ。そこまでいつまでも悩むようなことかと思っていた。
 まったく違うのだと、いま知った。フェリクスが言ったようなことがもしも彼の苦痛の一部なりともを掠めているのならば、想像を絶する。
「例えば、あたしが将来結婚して、旦那に先に死なれたとかって言うのとは、全然違うんだね」
「さぁね。僕は君じゃない。君も僕みたいに感じるかもしれない。そんなことはそのときになってみなきゃわからない。僕の苦痛が魔術師特有のものだとは言ってないよ。確かに僕は魔術師で、君たち人間とは違う常識を持ってる。闇エルフの子でもあるわけだしね。感情の在り方も人間とは違う。だからと言って人間が同じ目にあわないわけでもない」
「そう、なの?」
「純粋な人間だって伴侶を持つことがある。この言葉が原因なのかな。あとで神人の子らはなんて言うのか聞いてみようかな」
「普通の結婚相手とか、恋人とは違うってことは、わかった。でも――」
「リオン。考えてみなよ。あれは普通の人間だよ、はじめは」
「そうなの? だって、魔術師でもあったわけだし」
「あぁ……そうか。僕が最初に会ったとき、あいつはただの神官だった。普通の人間らしく、それなりの年齢で死ぬはずの。でもカロルに会った。それが運の尽きだよね。結局カロルの伴侶として過ごした」
「それって、悪いことでもあったみたいに聞こえるんだけど?」
 チェイスの言葉にシェリが喉の奥で笑いをこらえる。が、竜のそれは相当に恐ろしい。慣れているフェリクスですら顔を顰めたほどに。
「ちょっと。よしなよ。笑うんだったら笑えよ。それ、けっこう怖いよ」
 ぺちりと戯れめいた手つきでシェリの背を叩いた。途端に大きな笑い声が上がる。慣れていないチェイスは、それでも充分に恐ろしかった。
「僕がリオンを気に入らないだけ。仲はよかったよ、たぶんね」
 じゃれるように切り合いをしていたのを思い出す。お互いつい本気になって怪我をしていたのも。最初の血が流されると決まってリオンが正気に返って慌てて治療をするのも。掠り傷だと言って気にも留めないカロルも。
「リオンは自分の感情を表に出さなかっただけ。カロルが死んだあと、リオンも半分死んだんだと、僕は思ってる」
「……それでも、リオンとあんたは違うんだね。あんたは伴侶を殺された」
 初めてチェイスの言葉に熱が通った。フェリクスは煩わしそうに顔をそむける。これ以上話していたくなかった。今でも必死に暴れだそうとする何かを抑えているとは、彼女は思いもしないだろう。
 不意にフェリクスは気づく。この気持ちの幾許かなりとも理解してくれて、なおかつ話し合えるほど信頼できる人はここに一人もいないのだという事実に。慰めるよう、シェリが鳴いた。




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