泣き続けるしかできない銀の竜をファネルは痛ましげに見つめ、また溜息をついた。
「まったく無謀にもほどがある。誰に似たんだか……。師匠譲りだと信じたいところだがな」
 いまだ泣いているシェリに向かってぼやけばきょとんとした顔をする。ぽろりと一粒涙が零れ、それきり止まった。
「ファネル? どういうことです?」
 エラルダがいたのを忘れていたファネルは渋い顔をして首を振る。聞いてくれるな、と言ったのを悟ったのだろう。個人の内面を重んじる神人の子らしくエラルダは引き下がる。
「俺は、どうしたらいい?」
 苦い声のデイジーが大地に向かって呟いた。傍らでエラルダが困った顔をしている。それを見とったファネルはシェリに視線を向けた。
「少なくとも、シェリは気にしていないみたいだが。アリルカは異種族が集まりあった国だ。こういうことが起きる可能性はあると、世界の歌い手の魂は知っていたのかもしれないな。あるいは……」
 一度言葉を切る。フェリクスが完全に気を失っているのを確かめた。
「世界の歌い手自身が、予測していたのかもしれない。その、生前に」
 シェリではなく、タイラントが。それを聞けばフェリクスはいっそう悲しむだろう。この世の善も悪も共に見て歌った世界の歌い手。ある意味ではフェリクスよりあらゆる人を見る目が冷たかったとも言えるのかもしれない、とファネルは思う。
「……身びいきか?」
 小さくシェリに言えば、泣き腫らした目をしたまま竜が笑った。ファネルは言ったに等しい。フェリクスは優しいと。だから苦しむのだと。
 ファネル以外誰も今となっては認めないだろう。フェリクスの心の奥底にある優しさと言い得るものを知っていた人々は皆もういない。
「俺は――」
「アリルカを出るなどとは考えてくれるなよ、デイジー」
「デイズアイだって言ってんだろうが!」
 言い返して、デイジーはばつの悪い顔をした。ファネルがわざとからかうように発音したことに気づいてしまう。
「チェイスもだ。少なくともリオンの杖は、お前の娘をアリルカにとって悪だとは断じていない。わかるか」
「……これから、なのか?」
「だろうな。変わっていく可能性のあるものならば、すぐさま放逐するのはいいことではないだろうよ」
 肩に担いだフェリクスが重たくなってきた。それを理由に立ち去ろうかとファネルは思う。
 本心ではない。リオンとフェリクスが作り上げた守りの魔法。杖にこめられたそれがチェイスを許しても、ファネルは彼女を許す気にはなれない。
 彼女一人の咎ではないことくらい、ファネルにもわかっている。それでもフェリクスの心を破った最後の一撃がチェイスだったのだとは、知っていた。
「もういいか?」
 尋ねたけれど、エラルダが笑っているのが目に入ってしまった。訝しげな顔をしていたのだろう、彼はファネルに向かって笑って見せた。
「あなたは、自分の言葉に忠実な人だ」
「エラルダ?」
「だってデイジー。考えても見て。我々は変わることを考える必要のない長い時間を生きている。変化は緩やかであるのが当然で、それが我々の種族の常識だよ。でもファネルはいまなんて言った?」
「変わっていく可能性……」
 デイジーが呆然と呟く。神人の子が口にした言葉が、新しい意味と実感を伴って染み込んでくる。ファネルはすでに自分の言葉を実行している。
「我々も。きっと」
 人間も変わっていく。変化ならば、自分たちこそ得意とするところ。必ずよい方向へと変えて見せる。デイジーの決意にチェイスが唇を噛みしめた。
「あたし……」
 いまだ彼女は自分がなにをしたのか、本当のところで理解はしていない。辺りを見回し、詫びたものかどうか周囲に問うよう視線を巡らせる。
「今度こそもういいか? いささか重いんだが」
「あぁ、すみません! ファネル、これから?」
「しばらくはフェリクスについていてやりたい。できれば――」
「わかっています。邪魔はしません」
「その言いかたでは誤解を招く。シェリに妬かれるのはごめんこうむりたいな」
 軽く笑ってファネルは立ち去った。今更チェイスの詫びを聞く気も決意を聞く気もない。それを彼女は悟るだろうか。
「無理だろうな」
 傍らを飛ぶ気にもなれないのだろう、シェリは担ぎ上げられたフェリクスの背に止まったままファネルを見ていた。
「エラルダは言った。私はすでに変化をしていると。どうだろうな?」
 自分ではとてもそのようなことができているとは思えない。今を過ごしていくことで精一杯だった。それは人間たちも同じかもしれない、とふと思う。
「思いはするが、だからと言って傷口に塩を塗りこめるようなまねはして欲しくないものだ」
 どことなくシェリは心を読んでいるような気がする。だからファネルの言葉は唐突で、取りとめのないものだった。
 シェリはそんな彼をじっと見ていた。時折、心配そうにフェリクスの髪をついばむ。普段聞く甘えた鳴き声を漏らさない竜は頼りなく見えた。
「髪が抜けるぞ」
 あまりにも頻繁についばむものだから、ついファネルはそうシェリに言う。途端に悲しい顔をして竜がうなだれた。
「撫でてやりたくとも指はなし、か」
 フェリクスの髪を梳いて何度も撫でてやりたい。自分がここにいる。大丈夫。そう伝えたいのにシェリには手がない。じっとシェリは己の前脚に視線を落とした。
「シェリ。おろすぞ」
 はっと驚いてシェリが飛び立つ。あたりが薄暗かった。いつの間にかフェリクスの樹上の小屋にまで上がっていたらしい。恥じるよう、やっとシェリが鳴いた。
 青ざめた顔で寝台に横たえられたフェリクス。この顔を何度見たことだろうかとファネルは思う。
「アリルカは、お前にとっていい国なのか?」
 体を損ねるほど魔法を使って、戦って、こうして失神させられることが何度あったか。いずれにもかかわってしまったファネルは忸怩たる思いの内にいた。
「シェリ?」
 励ますような声だった。シェリがファネルに向かって鳴いている。ファネルにはこう聞こえた。つらいことがあっても、フェリクスはここが好きだと。
「どうかな? アリルカ以外、行く場所がない。それだけのことかもしれん。お前が好んでいるから、ここにいる。それだけのことかもしれん」
 それには竜も黙った。うなだれてフェリクスの枕元に丸くなる。小さな竜が、いっそう小さくなった。
「私はそう思うが、だがお前はお前のままでいいのではないか。フェリクスが言っていたように記憶するが、お前は何度となくこれを泣かせたそうだな?」
 またシェリが小さくなった。これ以上なれるものならば見てみたい、と思わせるほど小さく。それにファネルは忍びやかな笑い声を漏らす。悪意はなかった。
「そんなお前でも、と言うか、お前の魂の元でも、フェリクスはお前が好きだったんだろう? だったらそのままでいればいい。そう難しいことは言っていないつもりだが?」
 多少のからかいを含んだ声だった。エラルダか、他の半エルフがもしもここにいたならばやはり驚くだろう。あるいは同族たる闇エルフならば驚かないだろうか。
 考えてファネルは驚くだろう、と思わざるを得ない。確かに自分は変わりつつはあるのかもしれない、とそのとき認めた。
 人と人とのかかわりに、極力口を挟みたくないのが神人の子らだ。ましてそれが愛情の絆で結ばれているのならば、間違っても口にはしない。
 個人を重んじるから、ではなく羞恥心の問題だった。恋人の、もしくは伴侶の話題など、通常は決してしない。そのようなことは耐え難い恥ずかしさを伴う。
 それをいまの自分はどうだろう、とファネルは内心で笑った。アリルカは起ったばかりの国だ。多かれ少なかれ他人に介入せざるをえない。それはそれで致し方ないことではあったし、異種族の集まりあう国としては神人の子らが人間たちにあわせるため努めるべき部分でもある。
 だが最も個人的なことを自分は平然と、ではないにしても口にしている。それがどことなくおかしみを誘った。
「シェリ。丸くなっていては何もできんぞ」
 固く丸まった竜は、それでも動かない。ファネルはフェリクスが起きていないのを確かめてシェリに手を伸ばす。
 悲鳴が上がった。首と尻尾を持たれて無理やり体を伸ばされたシェリが華やかな悲鳴を上げている。
「その調子では、本当は痛くなどないんだろう? 私には通じないな」
 にやりと笑ってファネルは手を離した。咄嗟にシェリは羽ばたいて、それでもフェリクスの上に落ちた。
 慌てる竜を尻目にファネルは席を立つ。フェリクスの呻き声が聞こえたけれど、まだすぐには目覚めないだろう。
「シェリも飲むか?」
 熱い茶が欲しかった。フェリクスは自分で傷の手当も疾患の治療もしてしまうのだろう。小屋の中には薬草や薬用の種、果実を干したもの、薬用動物の脂や植物性のそれなどがいくらでもあった。
 振り返ったファネルは視線が向いた途端にそっぽを向いたシェリを目にした。喉の奥でくすくすと笑う。
 こんなときだった。こんなときだからこそ、ファネルは笑えた自分が嬉しかった。一度は闇に堕ちた。還ってくることがあるなど、考えてみたこともなかった。もう一度この目で光を見た。
「フェリクス」
 希望。明日を信じることのできる幸運。その名を授けてくれた彼の師に会ってみたかった、とふと思う。
「フェリクスの師匠と言うのは、どんな人だったんだ?」
 かつて父親と言うものがもしも実感としてそこにあるならそれは師だ、とフェリクスは言った。それを思い出してファネルはシェリに問う。
 返ってきたのは絶叫じみた悲鳴。唖然としてファネルはシェリを見る。何かとんでもないことをしてしまった気分だった。
 泡でも吹きかねないシェリにそっと近づいて背を撫でれば、ぴたりと悲鳴が止まった。それからシェリが首をかしげて見上げてくる。
「……つまり、そういう人だった、と言うことか?」
 恐る恐る尋ねてしまった。傍から見れば滑稽な場面だっただろう。真珠色の小さな竜と神人の子に浮かんだ表情は同じものだったのだから。
「やはり、師匠譲りだな」
 断言するファネルにシェリが、それはどうかな、とでも言いたげに首を振っていた。




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