唇から、呪いの代わりに呪文がもれる。とろとろと、いっそ愛撫のように音が垂れていく。涙の代わりに言葉が流れる。肩の上でシェリが強張っているのだけを感じていた。
 はじめに気づいたのは神人の子らだった。それも半エルフが最も早く気づいた。悲鳴じみた声をあげ、真夜中にもかかわらず飛び起きる。
 それから動物が騒ぎたした。犬の遠吠えに怯えたのだろうか、幼い子供が泣きはじめる。やっと、人間が異変に気づいた。
 早くに気づいたファネルは人間が起き出すより先に走り出していた。感覚を凝らすまでもない。異変が起きている場所はすぐにわかった。
「あの愚か者が――!」
 誰に向かって言ったのか、ファネル自身にもわからなかった。駆け出す腰で常に携えている剣が跳ねる。邪魔だった。
 続々と神人の子らが議事堂に向かっていた。否、議事堂の裏に。ぼんやりとした明かりが見えていた。魔法の明かり。
「違う!」
 魔術師たちが悲鳴を上げる。魔法の明かりの清浄な光ではなかった。腐った苔のような濁った緑の光。酷く忌まわしい。心の奥底に訴えかけてくる色だった。
「フェリクス!」
 光の前、フェリクスが佇んでいた。振り返らない彼の代わり、肩のシェリが長い首を振り向ける。邪魔はさせない、とばかり集まった人々を睨みつけた。
「そんな……」
「馬鹿な」
「重層立体魔法陣!」
 次々と魔術師がうろたえて悲鳴を上げた。神人の子らにはわかった。言葉の意味が、ではない。フェリクスが何をしているかが、感覚に捉えられる。
「魔族、召喚」
 エラルダが怯えた声をあげる。闇に触れたことのない半エルフは皆が彼と同じよう震えていた。
「下がれ」
 さっと腕を一振りしてファネルが半エルフたちを退ける。一度は闇に堕ちたファネル。魔族を見ても彼らほど怯えはしなかった。
「ですが、ファネル」
「お前たちには無理だ。闇が恐ろしいだろう? 妙な親和性を感じるだろう? それが、いっそう恐ろしいだろう? よくわかる。だから、下がっていろ」
 闇に堕ちた事実。それがこんなときに役立つとは。ファネルは皮肉に唇を歪めた。やっと人間たちが集まり始めた。遠巻きにする中、チェイスの姿が見えた。
「ファネル……」
 微動だにせず呪文の詠唱を続けるフェリクスに視線を向け、エラルダはファネルの名だけを呼んだ。他にはどうしようもなかった。体が震えて何もできない。そんな自分を嘲う。
 エラルダをじっと見てうなずいたファネルは腰の剣を抜き放つ。魔術師から上ずった声があがった。
「剣では!」
「さて、どうかな?」
 フェリクスと、リオンの弟子たち。経験の差だろうか、それとも能力の差だろうか。二人よりずっと子供じみて見えた。
 ファネルは抜き身を片手にフェリクスに近づく。肌がぴりぴりとした。フェリクスの肩の上、シェリが無表情にこちらを見ていた。
 助けて欲しい、そう言っているようにファネルには見えた。シェリに力強くうなずく。魔法陣の縁に、異形の何かが見えた。
 ぞっとして息を飲む音。ファネルは異形を睨み据えて足を進める。一歩ずつ、一歩ずつ。確実に。魔法陣の縁にかかった鉤爪が、ぐいと体を持ち上げようとするのが目に入る。
 そのときフェリクスの元に辿り着いたファネルが何かを言った。神人の子らが驚きに鋭く息を吸う。彼らにはわかった、ファネルが言った言葉が。
「下がれ、異界の魔族。我が友に触れるな」
 ファネルはそう言った。人間の間では神聖言語と呼ばれる彼ら自身の言葉で。かつてアルハイド大陸に君臨した神人の言葉で。
 魔族が一瞬すくんだのをファネルは感じる。剣に気力のすべてをこめた。構え、そのまま振り下ろす。嫌な感触がした。鉤爪と見えたものが、真実鉤爪ではないのを体で知ってしまった。ぞっとして吐き気がする。
 魔族が何かを言った。言ったように聞こえた。が、理解はできない。それを幸いだと誰もが思った。嘲う声、次いで信じられないとばかりの悲鳴。ずるりと体が崩れていく。
「去れ!」
 再びの神聖言語。人間には何も理解できなかった。それでも不思議と神聖さは感じた。気の弱い者は当分のあいだ悪夢にうなされるだろう、悲鳴。
 硫黄の臭いが辺りに漂う。それだけを残して魔族は消えた。すう、と魔法陣が光を失う。それでもフェリクスは動かなかった。
「フェリクス」
 どこを見ているのだろうか。どこも見ていないのだろうか。魔法陣のよう、光を失ったフェリクスの目。ファネルは剣を大地に突き刺し、丸腰で彼の元に近づく。
「私が覚えている」
 彫像のよう動きを止めたフェリクスの頬を大きな両手で包んだ。冷たく冷え切った頬、呼吸すら止めているかのよう。
「エラルダも覚えている。我々は、決して忘れない」
 ファネルにはこのフェリクスの暴挙の原因が、わかっていた。世界の歌い手が忘れられていく。なかったことにされていく。彼の実在をフェリクスが疑いたくなるほどに。
「だから、人間を憎むな」
 冷え切った頬は温まらなかった。見つめても、なんの感情も起こさないフェリクスを見ていられなくてファネルは手を離した。
 けれど見捨てはしなかった。両腕で、彼の体をシェリごと包み込む。腕の中、温もりにフェリクスが震えた。
「……無理」
 小さな声だった。迷子の子供が泣き出さないよう必死になってでもいるような、頼りない声。ファネルは彼らを強く抱きしめる。
「強すぎる憎しみは、お前を闇に堕としてしまう。そんなことを彼が望んだか?」
「あいつが? 僕がすることをだめだって言うわけないじゃない。僕がしたいことを止めるわけないじゃない」
「フェリクス。勘違いするな。それとも曲解してるのか? 私は彼が望むのか、と聞いたんだ。彼が許すのか、ではない」
 またフェリクスが震えた。耐え切れない激情に、もしもそんなものがいまだフェリクスに残っているのならば。
「人間を憎むな。お前自身のために。彼のために」
「無理、言わないでよ……。ねぇ、どうして。どうして人間は忘れろなんて僕に言うの。自分たちの常識をどうして僕に押し付けるの。僕は魔術師だ。人間とは違う。あいつを失った意味を、いったいどの人間が理解してるの。誰か、理解してる人、いるの。わかりもしないくせにしたり顔で明日があるとか、次のことを考えろとか! ねぇ。どうして」
「我々にはわかる」
「だからあなたもエラルダも、神人の子らはみんな誰一人として僕に忘れろなんて言わなかった」
「だろう? だから、信じろ、フェリクス。私をでなくともいい。エラルダでもいい。誰か、我々を信じろ。我々は、アリルカに生まれた子供たちに語るだろう。この国ができた成り立ちを。お前のことも、彼のこともリオンのことも語るだろう。決して忘れられないよう、何度でも。いつかアリルカで生まれた者はみな、お前たちの歴史を自らのものとして記憶するだろう。我々が旅立ったあとでも、決して忘れられはしない。それではだめか、フェリクス」
 だめだとは、言えなかった。言いたかった、本当は。何もかもが嫌だと言いたかった。それでもフェリクスはうなずかざるを得ない。もしも泣くことができたならば、今ファネルの胸で泣いたかもしれない。ぼんやりとフェリクスは思う。
「アリルカの人間たち」
 腕にフェリクスを抱えたままファネルは首を巡らせた。いまのやり取りを理解した者もいれば、まるでわかっていない者もいた。
「お前たちはみな、王国でつらい思いをしていたのではないのか。だからこの国に新しい大地を求めたのではないのか。そのお前たちが、なぜ苦しめるほうにまわる。自分たちのしたことを、他人に返したいのか。それはアリルカの民に相応しい資質ではないのではないか、私は疑問を呈する。……リオンが逝ったばかりで、彼の守りの杖の選択基準が緩すぎるのではないかとは、言いたくない」
 苦い声だった。恥じて目を伏せる者には見込みがある、ファネルはそう思う。だからこそ、言葉を添えた。
「お前たちにはお前たちの常識がある。それを疑ったことはないだろう。お前たちは同族の中で暮らしてきたのだから。が、アリルカは異種族が集まりあった国だ。自分の常識を、他族に押し付けないでもらいたい。せめて、世界の歌い手のことを、過去のもう済んでしまったことだなど、フェリクスの耳に入るところで言わない程度の配慮を求めてはいけないのだろうか。その程度の優しさもないのか、お前たちには」
 胸に顔を埋めたままフェリクスが唇を噛んだのを感じた。頭でも撫でてなだめてやりたいとは思うものの、彼は望まないだろうこともわかっている。もどかしくてならなかった。
「フェリクスは愚かではない。彼にも、わかっている。わかっていても、自分の耳で聞くのは、つらい」
 胸元をフェリクスの指がきつく掴んだ。どうしようもない心を秘めたシェリの鳴き声。腕の中から聞こえるそれは酷く濁って悲しかった。
「俺たちが、原因なんだな、これは」
 デイジーの声に、チェイスが驚いた顔をした。彼女はいまだ理解していない者の一人だった。
「アリルカに暮らすならば、異種族を理解する心を持ってほしい。我々も、努めよう。リオンに、託された気がする。この国を良くするも悪くするも、これからの我々アリルカの民にかかっていると」
 その言葉に理解の及ばなかった者の半数程度がはっと顔を伏せる。異種族の言葉は理解できなくとも、リオンを引けば彼らにも理解ができた。
 それを新鮮に感じつつファネルは視線を落とす。泣けないフェリクスが震えていた。痛ましいと思いつつ無言で首筋を打つ。くたり、と彼は気を失った。抗議もしないシェリごと肩に担ぎ上げる。長い溜息をついた。
「ファネル、待ってください。浄化を――」
 魔族召喚をした者は、異界の瘴気にさらされる。慌てた魔術師と神官にファネルは肩をすくめた。
「シェリがいた。シェリが、フェリクスを守っていた。必要ない」
 それしかできなかったシェリ。止められなかったシェリ。顔を上げた銀の竜は色違いの目からぽろぽろと涙を零していた。




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