ファネルが密やかにフェリクスを呼びにきた。その表情にフェリクスは彼の言葉を聞くより先に悟った。
「リオンだね」
 カロルもそうだった。昨日まで元気にしていたはずなのに、床についてからは早かった。リオンも病床に横たわってから数日を経ている。
「あぁ」
 沈鬱な顔をしているファネルを少しだけ嬉しいと思う。名残のような感情だった。自分の代わりにシェリが喜ぶ。だからそれでいい、とフェリクスは思う。
「行こうか」
 連れだってリオンの小屋まで歩いた。言葉はない。ファネルもまた何を言うべきか言葉を探すうち、それをなくしていく。
 死すべき定めにない身が、何を言えるのだろう。仲が悪いと言いながら、ずっとここまで共に歩んできた仲間をフェリクスは失おうとしている。
 小屋の中は明るかった。静謐と安寧に満ちた空気。リオンが微笑む。ぞっとしてフェリクスは足を止め、そんな自分を厭うては強いて足を進めた。
「誰もいないの」
 見舞い客がいなかった。ここにいるのは自分とファネルだけ。そしてシェリと。肩の上で抗議が聞こえてフェリクスは竜の背を撫でる。
「ちょっと煩わしいですからね、我がまま言っちゃいました。フェリクス、ありがとう」
「なにが? 礼を言われるようなことはしてないと思うけど」
 いつもどおりの憎まれ口を叩きつつ、フェリクスは我知らず動揺していた。リオンの笑みが今日に限って癇に障らない。彼の死がそこまで迫っているのだと思う。
「シェリですよ。寄越してくれたでしょう、この前?」
「別に僕がしたわけじゃない。こいつが行きたいって言っただけ」
「それでも。とても素敵な音楽でした。あれを聞かせてもらえてとっても嬉しかったです、私」
 微笑むリオンに笑みを返せたら。フェリクスは思う。強張った顔は少しも動かなかったけれど。
 リオンは聞いてくれたのか、とぼんやり思う。自分にしか聞こえなかったシェリの音楽を、リオンはちゃんと聞いてくれたのだと麻痺したよう感じる。
 自分の、妄想ではなかった。聞きたいものを聞いていたのではなかった。ぎゅっと握り締めた拳に気づいたよう、シェリが鳴いた。
「一応、礼を言うのは僕のほうみたいだけどね」
 確かにここにシェリがいる。自分だけではなく、リオンが、人々の本質を見るエイシャの神官が認めてくれた。泣きたいような気がしたのに、心は少しも動かなかった。
「ねぇ、あなた。死ぬの」
 心ここにあらずとフェリクスが呟く。咎めるよう鳴くシェリの声に、酷いことを言ったものだと思う。
「えぇ、死にますよ」
 それなのにリオンはにっこり笑ってそう言った。見ていられなくなったファネルが二人から目をそらす。
「私は私の務めを一応は果たしたんじゃないかなぁって思うんです。だから最愛のエイシャがもういいよって呼んでくださったんだと思うんです」
「あなた馬鹿? 自分で寿命削ったくせによく言うよ」
 言った途端それまでの温顔が嘘のようリオンは目許を険しくさせた。厳しい目でファネルを見やり、そしてとっくにフェリクスが話していたと悟ったのだろう、長い溜息を吐いた。
「ファネル、いつから知ってたんです?」
「最初からだな。あの日のうちに聞いていた」
「実に、意外です。フェリクスの口の軽さと、あなたを信用した気持ちが」
「リオン!」
 二人分の怒鳴り声が病室に相応しくなく響き、それをリオンは笑った。不意に二人ともが気づく、リオンはそれで彼らを許したのだと。むっとしたフェリクスが壁を見つめる。
「あなたが一人ぼっちで残されなくって安心って言ったら、怒りますか、フェリクス?」
「怒るに決まってるじゃない。僕はなに、寄る辺ない幼子? いい加減、僕もいい大人なんだけど。大体あなた、忘れてる。僕は一人じゃない。二人とは言いがたいけど、少なくとももう一匹いるよ」
 一匹、と言われたシェリがうなり声を上げ、リオンの寝台に飛び降りては彼の味方をしてフェリクスを睨んだ。
「そんな風に睨んでもだめ。ちっちゃな手乗りドラゴンじゃない。怖くないよ。おいで」
 昔の戯言。リオンに聞かせるつもりではなかったけれど、心のどこかで聞かせようとしたのかもしれない。心配しなくていい、と。
 拗ねた顔をしてふわりと飛んだシェリを捉まえて腕の中に抱きかかえる。温かい竜の体があることに息をつき、自分が思いもよらず心細い思いをしていると知った。
 リオンが優しい顔をしていた。戯れる自分と竜を見つめているその表情を、忘れたくてもきっと忘れられないだろうとフェリクスは思う。
「邪魔しないほうがいいような気がするけど? もう行こうか」
「いいです。できれば――」
「くたばるの、見ててあげようか」
 罵言すれすれの言葉にファネルは息を飲む。この期に及んでなにを言うのか、とフェリクスを見据え、次いでリオンを見る。二人ともが平静な顔つきをしていた。
「はい」
 そしてリオンがにこりと笑った。最後の瞬間は、フェリクスに看取られたいと。
「そう。じゃ、いてあげる」
 淡々と言ってフェリクスは椅子を引っ張ってきては腰掛ける。今まで立ったままでいたファネルは呆然としながら彼に倣った。
「本当は、あなたを残していくの、心配なんですよ」
 そっとリオンが手を伸ばしてきた。何気ない手で自分の手をとるのをフェリクスは感じる。自分自身は何も感じないのに、体はすくんだ。腹立たしくなって舌打ちをすれば、膝におろしたシェリが心配そうに見上げてきた。
「なに馬鹿なこと言ってるの」
 言いながら、手を引き剥がしてもよかった。フェリクスはそうしなかった。逆に、しっかりと彼の手を握った。初めて握ったリオンの手は、乾いて温かかった。
「だってカロルにちゃんとそばにいてやってくれって頼まれましたから、私」
 それが果たせないことのほうが残念なのだ、とリオンは言う。嘘だとフェリクスにもわかる。それでも、何も言わなかった。
「……初めて、あなたを羨ましいと思うよ」
「フェリクス?」
「あなたは生まれ変わってもう一度、何度でも、カロルの魂を持った誰かに会えるじゃない。僕にその望みはないもの」
 膝の上に目を向けず、フェリクスは何度もシェリの背を撫でていた。竜もじっとうつむいたまま涙をこらえていた。
「――空は裂け、星は墜ち、月が砕け散ろうとも。そう歌ったのは彼じゃなかったですか、フェリクス。あの歌、とっても好きだったんです、私」
「いくら歌ったって、あいつの魂は砕け散ったの。それが事実だ」
「いまの事実、だと思いますよ、私。今現在はそうかもしれません。でも、あなたにはシェリがいるじゃないですか。シェリを抱いて逝けばいいじゃないですか。生まれ変わり死に変わり、何度も何度も繰り返して、彼の魂を集めればいいじゃないですか。必ず、会えます。何度でも、何度となく」
 リオンの言葉にフェリクスは黙ってうなずいた。納得したわけではない。リオンの言葉を無下に払うことができなかっただけ。
 リオンだとて、わかっているはずだ。タイラントの魂は砕けて消えた。この世のどこにも彼の魂はない。集めようのないものをどうやって。フェリクスは問わなかった。リオンも言い募らなかった。
「必ず、会えますよ」
 繰り返したリオンにフェリクスはうなずく。鋭くシェリが鳴き、リオンを覗き込む。
「ほら、シェリだって言ってるじゃないですか。いつかもう一度、いえ、何度でも。彼があなたを一人ぽっちにするはずはないんですよ、フェリクス」
 フェリクスは言わない。そのタイラントが自分を連れて行かなかった。彼一人で死んで、己の魂を打ち砕いて。いま、ここに一人だ、と。
「会えるかな」
 いまわの際のリオンに向かって。今日がこんな日でなかったならば、フェリクスはきっと言わなかった。
「会えますとも」
 死に瀕したリオンの力強い声。繋いだ手が、きつく握られた。誓いのように、祈りのように。二人の繋ぎあった手の元に、シェリが飛び乗る。鉤爪のついた前脚を、そっとそこに乗せた。
 ファネルは笑わなかった。じゃれつく獣の愛らしさを微笑んでもよかったのに、笑みの欠片も浮かばなかった。はじめてみる厳粛な情景。二人の人間と、一匹の竜。否、三人の人がそこにいる。そう思った。
「あいつ、酷い男だったよね。そう思わない?」
「カロルの言葉を借りれば、最低な派手野郎、でしたね」
「反論できないのが、一番むかつくんだよね。喚くな、そうじゃない? あなた、どれだけ僕を泣かせたの。最期まで僕を泣かせっぱなしじゃない。あなたなんか捜さなくっていいような気がしてきたよ、僕は」
 酷い、とばかり鳴きたてる竜にフェリクスは反対の手を伸ばし額を弾く。それから抱き上げて額にくちづけた。
「それでももう一度会いたいって思う僕はなんだろうね。あなた以上に最低な大馬鹿だと自分で思うよ」
「そんなものですよ、なんと言っても伴侶のことですし。私だってカロルに会いたい」
「……趣味、悪い」
 何度も星花宮でしたやり取り。ファネルにはわからなかったけれど、口を挟んではいけないのも、戯れなのもわかっていた。
 ゆっくりと、リオンの息が細くなっていく。繋いだ手に、力がなくなっていく。フェリクスはその手を決して離さなかった。
「そろそろですかねぇ。それじゃ、お先に」
 嘘のようにこりとリオンは笑った。不意にファネルは進みだし、リオンの反対の手をとる。両側に友を置き、リオンは微笑む。
「じゃあね。カロルによろしく」
 その言葉をリオンは聞いていたのだろうか。微笑みながら目を閉じたリオンは、それきり息をしなかった。
「眠ってるみたいだね」
 ぽつりと言ったフェリクスに、誰も言葉を返さなかった。ただじっと、ファネルはリオンの手をとり続ける。定命の子の、あまりにも安らかな顔を見ていた。一声鳴いたシェリが、リオンの頬を鼻先でつついた。




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