とてもリオンの見舞いに行く気になど、なれなかった。はじめから彼のほうが先に逝くのはわかっている。それでも認めたくない。 「……違うか」 特別に親しい、と言うわけではない。単に長い付き合いであるだけだ。そう何度心に言ってみても、虚ろに響く。 「ねぇ」 呼びかけてフェリクスは舌打ちをする。肩に今は重みがなかった。シェリは、行かれない自分の代わりにリオンを見舞っている。 あの竜は何を思い、そして何を見てくるのだろう。リオンに何を語るのだろう。それを彼は受け取ってくれるのだろうか。 シェリはあの水の竪琴を咥えてフェリクスに小首を傾げて見せた。リオンに弾いてもいいか、と尋ねているつもりだろう。フェリクスは拒まなかった。 多少は、不愉快ではある。自分以外の誰かが、たとえリオンであれ、あの音楽を聞くのかと思えば胸がざわつく。 が、フェリクスの懸念は別の場所にあった。リオンは、あの音を聞くことができるのか。聞かれることが不快だと思うフェリクスは笑えるものならば笑っただろう。 いまだかつてシェリが奏でる音楽を聞いた者はいない。誰もが小さな竜が水遊びをしている、と言う。シェリは湖で、小川で、水の竪琴で、音楽を奏でていたというのに。 「聞こえるの、あなた」 リオンに聞かせたことはない。あるいは聞こえるのかもしれないとどこかで思っていた。思うからこそ、聞かせたくなかった。 あれは、自分だけのもの。シェリが、伴侶の魂の欠片が自分のためだけに奏でてくれるもの。 「仕方ないか」 最後だから。リオンが逝ってしまう前のひと時、彼を慰めたいとシェリが願うのならば、フェリクスは拒めない。 聞こえて欲しい、とフェリクスは思う。シェリのために、リオンが聞いてくれればいいと願う。彼の竪琴の音色を知っていたリオンが、その魂の欠片が奏でる音を耳にして何を思うか、尋ねてみたい気もした。 「できないね」 言ってみてなぜできないのか、と思う。ふらふらとアリルカをさまようフェリクスはいつになく頼りない心持ちでいた。 シェリがいないせいだ、と思う。リオンが病床についているせいだとも思う。そんな自分を認めたくなくて、何もかもをも拒みたい。 ふと目を向けた先に、吟遊詩人がいた。アリルカにも吟遊詩人はいる。この国が確固として立つようになってから、彼らもまたアリルカを訪れ、あるものはここを故郷とした。 「当代第一、と言えばやっぱり――」 竪琴を爪弾きながら彼らが話をしている。その周囲に仕事を終えた人々がいつしか集まりだして音楽を待っていた。 彼らは口々に名を上げる。黄金の喉を持つ誰それ、銀の指を持つ某、イーサウで名をなした者、二王国で名高い者。 「……ないんだ」 そこに彼の名はない。フェリクスはぞっとする。とっくに、タイラントは忘れ去られているのではないか。彼が存在したことすらないかのよう、忘れられていく。ぎゅっと肩先を掴んだ。 「あ――」 風を切る音。まるで自分の心を聞きつけたかのよう、シェリが戻った。腕を差し伸べれば、いまだ水の竪琴を咥えたまま必死になって降りてくる。 「おかえり」 ぎゅっと抱きしめた。肩にあげることはせず、腕の中に抱きすくめる。苦しそうに動く竜に頬ずりをして、額にくちづける。竜はここにいる。彼もだから、ここにいる。実在した。決して自分の妄想ではない。 「そうだよね。いたよね」 シェリに向かって呟けば、なにを言っているとばかりに睨まれた。フェリクスの腕に水の竪琴をぽとりと落とし、シェリは伸び上がる。頬に、額に、唇に、竜の吐息を感じる。吐息だけではないものも感じる。髪をついばみ、耳を食まれた。 「痛いよ」 痛みがある。だから、シェリはここにいる。真実、実体とは言いがたい竜だけれど、シェリは確かにここにいる。痛みがそれを思い出させる。 「もう、平気」 言えばまた睨まれた。フェリクスは首を振り、シェリを肩に上げる。掌で水の竪琴を弄んだ。その手の鎖がさらさら揺れる。 竜の視線を感じていた。言いたいことは、わかっているつもりだった。彼がここにいたならばこう言ったことだろう。 「君が平気って言うとき、とっても信用できない。何度そう言った? いっつも全然平気じゃなかったくせに!」 そう言ってあの銀色の吟遊詩人は怒っただろう。同じ思いを竜の視線から感じていた。フェリクスは竜に聞こえるよう、呟く。 「ほんとだよ。ほんとに、平気。なんでか? つらいって思うことも、忘れちゃったよ、僕は。なんでか? わかってるでしょ」 あなたがいない。心にだけ、そう言った。それでもシェリには聞こえてしまうだろう。聞こえてしまうからと言って、口には出せない。彼の魂の欠片を、悲しませたくはない。 「悲しいでしょ。悲しいだろうな、と思うの。でも、それが僕の中にはもう見つけられない。昔そんな風に思ったこともあったな、と思うの。感情の記憶って言えばいいのかな。思い出とは言いたくないな。そんなものだけがあって、他には何もない」 伸び上がって顔を覗き込んだ竜が、平衡を崩して落ちる前、フェリクスは掬い取る。胴の下に手を回し、抱きしめれば温かい。 「こんなにあったかいのに。あったかくって嬉しいなって思うことももう、ないんだ。昔こんなことがあって嬉しいって思った、そう思うだけ」 シェリが鳴いた。泣いたのかもしれない。涙も流さずに。フェリクスは詫びることもできず、黙って竜を抱きしめる。 「あなたはずっと一緒にいてくれてる。あの誓いを僕なんかのために守ってくれてる。それが嬉しいはずなんだよ、本当に。でも――」 何を言っても言葉では伝えきれないものだった。こんなときフェリクスは彼から音楽の奏で方を習っておくのだったとつくづく思う。 「あなたのために竪琴が弾けたらよかったね。リュートでも、笛でもいい。あなたに伝えられるなら、なんでも」 吟遊詩人たちの楽しげな音楽が遠く風に乗って聞こえてきた。ゆるゆると歩くフェリクスを止めるものは誰もいない。竜に語りかけ、竜だけをともにして。 「あぁ、いたね」 それからしばしのあと、フェリクスが人影を見つけて歩み寄る。シェリが訝しそうな顔で見上げてきた。ただの散歩だと思っていたらしい。 「ちょっとね、聞きたいことがあって」 竜に向かって言えばぱちりと目を瞑ってうなずいた。何かしたいことがあるならばそれでいいのだと言うように。 「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。いい?」 するりと歩みを進めてきたフェリクスに彼は驚いたらしい。それほど言葉を交わしたこともないせいだろうか。それとも、いまの自分は驚かれるほど酷い顔をしているのだろうか。一瞬、迷ったけれどどちらともわからなかった。 「かまいませんよ。なんです?」 彼はイーサウとアリルカを行き来していた。単に旅が好きなのではない。イーサウとアリルカの間で行われる売買の、その多くを彼は担っている。 「イーサウで、世界の歌い手の話、聞こえてくる?」 口にするまで少しためらいがあった、フェリクスには。それを感じ取れない男ではなかったけれど、聞き流し、そして肩をすくめる。 「だったら、二王国では? 噂は聞こえてきてるでしょ。あるにしてもないにしても」 「聞こえてきますよ、ないほうが」 「きかせて」 「……と言っても、ないほうですから。困ったな。何か? あぁ……、またぞろ戦争がってのは困るなと思っただけで。そうじゃないんだったらいいんです。忘れたいんですよ、人間は」 「どういうこと」 きらりとフェリクスの目が光る。咄嗟にシェリが止めようとしたのが遅かった。フェリクスは身を乗り出すようにして男の話を聞いていた。 「あの戦争、相当に怖かったって話ですし。俺? 後方にいて、戦闘は見てないんでなんとも。人間の、本能ですかね。忘れて、やり直したい。だから、戦争の直接の原因になったタイ……いや、世界の歌い手のことも、忘れたい」 「あなたも?」 「正直に言えば、そうかもしれません。ちょっとわからない」 そう言って男は困ったように眉を下げた。彼を問い詰めたいわけではないフェリクスは片手を振って気にしなくていいと告げ、礼を言って背を向けた。 「こんなもんだよね、人間なんて」 外では、タイラントの名が忘れられていく。せめてアリルカでは覚えていて欲しいと願う。シェリがきゅうと甘えて鳴いた。 「忘れるのは定命の身の定めだし、恩寵ともリオンは言うよね。ずっと覚えてるのは、つらい。それはわかる気もするんだ」 けれど、覚えていたい。願わなくても忘れられない。彼の血に染まった自分の体。その熱さ。 「ほんのちょっと覚えていてって言うのも、無理なの。どうしてこんなに簡単に、忘れるの。自分が楽になりたいから? 償いは済んだとでも、思ってるの。人間どもめ」 吐き出してフェリクスは遠くを見る。遥か彼方、二王国があるほうを。睨み据え、長く息を吐く。 「……呪ってやりたい」 あいつらのせいで、彼は死んだ。自分の前で殺された。吐き出したとき、ぽっと心に火が灯る。それは、憎悪と言った。 「すべての感情をなくした気がしたけど」 まだ恨むことはできる。呪うことはできる。憎むことも。シェリの悲しげな声に、彼はそれを望むか、不意にそう思った。 「望まないね。わかってる。わかっては、いる」 差別されてきたタイラント。差別をしたタイラント。どちらも経験した彼は、人々がありのままにあり、誰もがそれを受け入れられればいい、そう歌った。 タイラントは望まない。自分が怒りに染まり、人間を呪い尽くすなど、望まない。シェリが軽く耳を噛む。 「もう復讐は終わった。確かにね。でも、ねぇ。忘れて、何もなかったことにするより酷いことが、ある?」 そう言いつつフェリクスは感じていた。自分は何もしないだろう。この肩にシェリがいる限り、誰かを呪ったりなどせず済むだろう。少なくとも、いまは、決して。 |