知らせを受けたファネルはとるものとりあえずリオンの小屋へと駆けつける。ひっそりとした小屋には、薬草の匂いが漂っていた。
「リオン……」
 寝台に横たわる彼の他は誰もいない。そっと微笑を浮かべたリオンはとても死を間近に迎えている姿には見えなかった。ファネルは言うべき言葉を探し、口をつぐむ。
「見舞いに来てくれたんですか。嬉しいなぁ。座ってください」
 普段と変わらない声音の中、終焉が潜んでいた。ファネルの背筋に這い登る不吉なもの。もうすぐ彼が逝ってしまうのを如実に感じた。あまりにも早い。だが杖を奉じて以来、十余年が過ぎていた。
「見舞い、と言うのかな。他には――」
 自分でも不器用だと感じる態度でファネルは寝台のそばに椅子を引っ張っては腰を下ろした。身動きするたびに己が立てる音が癇に障る。
「入れ替わり立ち代り、けっこうきてくれましたよ。神人の子らは死に慣れてないんですねぇ。今更ですけど、慌てなくっていいんですよって、言わなくちゃなりませんでした、私」
 にこにことした優しい顔。これがもうすぐ失われてしまう。フェリクスが言っていた言葉が蘇る。失われて、記憶から消えてしまう。ファネルは覚えているだろう。エラルダも、他の神人の子らも、きっと。
 それでもリオンはこの世から消え、そしていつしか忘れられていく。それが人間の間では常識だ。それがこんなにも、恐ろしい。
 自分が知っていた誰かが世界から失われ、そして記憶がどこかに溶けてしまう。確かにここにいるのに。確かに存在したはずなのに。
「なにを言っていいのか、わからないものだな」
 いつの間にか握り締めていた自分の拳にファネルは視線を落とした。自嘲しても、どうにもならない。それでも、そうとしかできない。無力な己を感じたのは久しぶりだった。
「フェリクスはきていないのか」
 不意にファネルは尋ねた。彼がなにを言ったのか、聞きたいと思ったのかもしれない。仲が悪いと言いながら信頼の絆で結ばれてきた二人の魔術師は、一方の死を前にしてなにを語り合ったのだろう。
「彼がくると本気で思ってるんですか、ファネル」
 悪戯めいた目で、笑われた。それにファネルは驚きを感じる。リオンからは衰えた生命の炎を感じていた。それなのに彼はこんな顔をして笑う。
「こないはずはないと、思うんだが――」
「まだですよ。私がくたばりかけるときまできませんって」
「そんなことは」
「そう言う人なんですよ、彼は。いやなんです、寂しいと思う自分を見るのが。私たちは仲がよいとは言えませんでしたけど、長い付き合いですしね、臨終には立ち会ってくれるかなぁ、と思ってますよ」
「それで……」
「いいんです。ファネル、あなたは知ってますか。フェリクスは、本当はとても寂しがり屋さんなんですよ。そんなこと、彼の耳に入ったらその場で殺されますけど、私。でも、本当にそうだと思うんです。だからこそ彼は」
 ふっとリオンが息を吸った。話し疲れたとでも言うように、そしてファネルを見て少しだけ笑った。
「世界の歌い手の死に、耐えられなかった?」
「はい。誰も、耐えられないと思いますよ、最愛の人の死には」
 神人の子らならば、わかるだろう。寿命を迎えての死ではない。タイラントは彼の目の前で殺されたのだ。リオンは言葉にせずにそれを言う。
 長い話をするだけの体力がないのか、ふとファネルは気づいていたたまれなくなる。まるで変らないリオンなのに。
「不思議ですよね。見た目は変わってないでしょう、私?」
 まるでファネルの内心を読んだようなことを言ってリオンは笑みを浮かべた。ファネルは黙ってうなずく。
 はじめて会ったときから、一日たりとも年をとったようには見えなかった。確かに神人の子らは定命の子の年齢を計ることが苦手だ。それを差し引いたとしても、リオンは変らない。それなのに、死に逝こうとしている。
「昔の、真言葉魔法の使い手たちは、見た目を魔法で変えた、と言うか補助していた、と言います」
「若く見せていた、と言うことか?」
「はい。ですが、鍵語魔法の使い手は、そんなことはしてないんです。する人もいますけどね」
「では、なぜ……」
 尋ねてしまってから、話し続けさせていいものかファネルは迷った。こんな他愛ないことを話すためにここにきたのか、そうではなく何か言いたいことがあったのか。それすらわからなくなる。
「予測ですけどね。鍵後魔法の使い手は、成長する力、これには年老いる力も含めますけど、そういうものをすべて魔法に捧げてしまうんだと思います。フェリクスを見てください。彼、とっても若いでしょ? むしろ、幼いって言いたいくらいに。人間の年で言えば二十代の半ばにもならないくらいで止まっちゃってるんです。だから彼の魔法は凄まじい力を持ってる」
「そこまでして。なにが。得られるものは、あったのか……?」
 リオンはただ笑みを浮かべただけだった。得られるものなどなくてもいいのだと、ファネルは悟る。ただ、魔法に惹きつけられた。それだけだった、彼ら魔術師は。
「フェリクスの魔力の高さは、確かにあなたがた神人の子の血を引いてることにも由来してます。でも、それだけじゃないんです。彼の努力があったから。そして彼が魔法に選ばれたから。そんなこと言うと運命なんて大嫌いだって、怒られちゃうんですけどね」
「フェリクスの努力の成果だ、と言っておこうか」
「そうしてください。ねぇ、ファネル」
「なんだ」
「お願いがあるんです。聞いてもらえますか」
 死に逝くリオンの願いを拒めるはずがあるだろうか。苦笑することでそれを伝えれば照れ笑いが返ってくる。
「フェリクスを、一人にしないでやってくれませんか」
「私が? 一度は見捨てた私が?」
 苦い声だった。リオンはじっとそれを聞いている。そしてゆっくりうなずいた。
「タイラントも、です」
「なに?」
「彼もそうでした。一度フェリクスを捨てました、彼。それから大喧嘩の挙句帰ってきたのが四年後くらいだったかなぁ」
「だったらよけいに」
「だからこそ、です。あなたがたの関係を持ち出すつもりはないですし、フェリクスだって見た目はあれでもいい年です。今更父親にべったりって言うのも変でしょ。そうじゃないんです。ファネル、あなたはフェリクスに信頼されてるんです、友人として」
「そんな、馬鹿な」
「本当にそう思います? よく思い出してください、ファネル。アリルカにきて以来、フェリクスの寝顔を見たのってたぶん、あなただけですよ。違いますか」
 言葉に詰まった。確かにフェリクスは誰にでも打ち解けてはいない。むしろ、誰も親しくそばに寄せはしない。
 そのフェリクスが自分を頼ったことが何度あっただろう。戦場で、背中を預けてくれた。魔力を失った体を保護することを許された。守りの杖のときにもそうだった。眠るフェリクスのそばにいた。
「ね、そうでしょ? だから、フェリクスの友人として、もう一人の友人にお願いです。彼を一人で死なせないで。フェリクスの最期はあなたが看取ってください。うっかり先に死んじゃいますから、私」
 首を振ることしかできなかった。拒絶したい。リオンの死ですら、これほどまでにつらい。彼がこの世から、自分の目の前から消えていく。考えるのもいやだった。
 それなのに、別の死を考えろとリオンは言う。フェリクスの最期の吐息を思えと彼は言う。自分の腕の中で、彼が失われていくのを見ろと言う。
「……わかった」
 拒めようか。リオンの頼みでなくとも、いずれはそうしていただろうことをすでにファネルは気づいていた。
「よかった。それだけが心残りで。私の銀の星にフェリクスを一人にしないって約束したんですけどねぇ。よくよく考えてみれば私のほうが年上なんですもん。無茶言いますよね、あの人も」
 定命の身には遥かな過去。去っていった伴侶を見つめるリオンの目は柔らかだった。彼の目は天井を越え、空を越え、時間を越え。
「ファネル。悲しまないでくださいね。私はカロルに会いに行くんです。ここからいなくなりますけど、それでも悲しいことじゃないです」
「残される身には、つらいことだ。お前は考えたことがないのか。我々は、いつも定命の子を送るばかりだ。それがつらくないとでも思っているのか」
「メロール師も同じことを言ってましたよ。うん、嬉しいな。ファネル。あなた、一度は闇に堕ちましたよね。でもいま、ちゃんと還ってきてるじゃないですか。それを目の当たりにできたことが、とても嬉しいです。メロール師の孫弟子として。神官として。なにをおいても、友人として」
 にこりとリオンが笑った。胸に迫るものを抑えかね、ファネルは目をそらす。人々の喧騒が窓から流れ込む。うるさくはないのか、と思ったけれどリオンはそれを聞きたいのだと気づいた。
「友人の頼みだ、誓って違えまいよ。なにに誓おうか?」
 口にしてみて、なんと温かい言葉なのかとファネルは思う。自分でも陳腐だと思った。が、事実だった。去っていくだけではない。出会えたこと。一人の友人ができたこと。決して忘れまいと願う。記憶の薄れない神人の子が。
「なににも。あなたの言葉で充分です」
 目と目を見交わし、笑みを交わした。澄んだ風が、窓から入り込む。薬草の匂いも、病床の匂いも吹き流された。と、風を切る音。
「あぁ……」
 リオンの目が窓に向けられて、そして微笑んだ。すでに巧く動かないのだろう、動きにくい腕を上げ、差し伸べる。
「シェリ!」
 竜が飛び込んで寝台のそばに止まった。ファネルを見上げ、リオンに視線を向ける。
「一人できたんですか? ありがとう、シェリ」
 決してフェリクスの傍らを離れようとしない竜がリオンを見舞った。フェリクスが作った水の竪琴を咥えて飛んできた。彼が作った首飾りを煌かせ、水を奏でる。
 一心にシェリは弾いていた。リオンにこの音を届けたいと、シェリを知る者ならば誰もがその顔から読み取ったことだろう。
「うん。素敵です。嬉しいなぁ」
 ファネルはただ黙っていた。シェリの弾く音が、ファネルには聞こえなかった。リオンの言葉が嘘だとも思わなかった。こんな自分がリオンの願いを果たすことなどできるのか、そればかりを考えていた。




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