アリルカに最初の子供が生まれたのは、それから数年後のことだった。アリルカは人口の半数以上を神人の子らが占めている。そのせいで女性が極端に少なかった。 神人の子らは女性体では生まれない。数少ない女性はその子らと、そして傭兵だった。いずれも男性との交際をそれほど楽しみにはしていない。半エルフの子らはまだいい。が、闇エルフの子らは誰しもが一度はその身に暴力を経験している。傭兵たちは剣を取ることに慣れ、戦場の暴力をまた知ってる。 彼らの心が和らぐのを、誰かが待っていたわけではない。誰もがこの国を作り上げることに必死だった。 おそらくは、それが良かったのかもしれない。気づけば女性も男性も、そこにいるのが過去の誰がではなく、悪夢でもなく、人だと知った。 それから赤子の泣き声が聞こえるようになるのはすぐだった。神人の子らはみなが赤子を喜んだ。まるでその目で目にした初めての子だとでも言うように。 母となった女が抱きかかえ子に乳をやる。それを神人の子らが見守った。入れ替わり立ち代り、ついには他の女に追い払われるまで。 子の誕生を見てようやくアリルカは一つの国として立った、そう言う者もいた。そこかしこで赤子の泣き声が、子供の遊ぶ声が聞こえる。 「とは言え、いきなり大きいのも増えたもんだね」 いたたまれない思いを隠そうと言うのだろう、苦々しい顔をしたデイジーにフェリクスは言う。隣でエラルダが笑っていた。 「気にならないの」 「とくには。気にしても仕方ないことでしょうに」 「ふうん。そんなもん?」 デイジーの娘がアリルカに現れたのは、はじめの赤子が生まれてから数年後のこと。十代もはじめと思しき少女は、面差しより気性がデイジーに似ていた。 「チェイスって呼んで。あたしもここに住むから」 時折アリルカに住みたいといって現れるものがいるが、人間の少女となれば珍しい。興味津々の神人の子らに胸を張って言ったチェイスはちらりと視線を巡らせる。 「あぁ、そこにいたの、父さん」 にっこり笑ったチェイスの目に、デイジーが一瞬怯んだのをフェリクスは思い出す。ひと騒動もふた騒動もあったが、結局チェイスはアリルカに住んでいる。なにを考えているのか、エラルダとも巧くやっているらしい。 「わからないもんだね」 理解したいと思っているのかフェリクスにはわからない。肩の上のシェリに語りかけ、その背を撫でれば温かい。 「なんて、平和なんだろう」 呟いてみてぎょっとした。まるで戦乱を望んででもいるようだ。 「そんなこと、ない」 のんびり暮らせる場所ができた。異種族が、迫害されずに暮らせる場所。新たな故郷となる場所。きっと、彼も喜ぶだろう国。 「それでも――」 不意に、人々の喧騒が聞こえなくなった気がした。たった一人、この場所に立っている気がする。遥か昔、ミルテシアの王都で感じた孤独を思い出す。 「いまは、あなたがいる。そうだよね。違う、あのときとは」 去っていったタイラントを追いかけたあのとき。死んでしまった彼の魂の欠片を肩に乗せたいま。 どちらがましなのだろう。フェリクスは心の奥底で密やかに思う。シェリに、気づかれたくはなかった。隠そうとしても竜はきっと気づいてしまう。それでも隠したいことだとわかって欲しかった。 「……ごめんね」 首に巻きついた竜の尻尾が、力なく垂れ下がる。シェリがシェリであっては駄目なのだと、竜は知っている。それでもいい、とはフェリクスには言えなかった。 「フェリクス。ちょっと傷薬くれない? 擦っちゃった」 チェイスだった。アリルカに来た当初は幼さを残していた面立ちもいまはすっかり大人びている。父親が可憐な名を持ち、娘が勇ましい名を持つ。逆ではないのか、と思うもののなぜとなく相応しい気もした。 「リオンのところに行けば。あっちが本職」 「いいじゃない。あんたがここにいるのにわざわざ行くの面倒くさい。ファネルを捜そうかなぁとは思ったんだけど」 「それが物を頼む態度? もうちょっと言いようはないわけ?」 「うるさいなぁ。あんただっていつも偉そうじゃん。あたしとたいして年かわんないでしょ。なんでそんなに偉ぶってるわけ?」 むっとして言い返す少女を、かつてのフェリクスだったら笑ったかもしれない。今は笑うことを忘れて久しい。 「僕は魔術師だ」 すべての説明がそれでつく、と言いたげなフェリクスをシェリがたしなめるよう鳴く。首に巻いた尻尾に生気が蘇った。 「君と年が変わらない? なに馬鹿なこと言ってるの。僕と年が変わらないのは、君の曾爺さんだと思うけど? もっと上かもしれないけど」 淡々と言うフェリクスにチェイスの目が丸くなる。初めてそれが魔術師だ、と言うことだと知ったのだろう、少女はぽかんと口を開け、手から弓を落とした。 「狩りに行ったの」 「うん。そう……」 「それで怪我? ちょっとは気をつけなよ。お父さんが泣くよ」 そんなことを言うとは自分でも思っていなかったフェリクスは、己の言葉に唇を噛む。チェイスが瞬きをし、シェリが朗らかに鳴く。 「あれが泣く? そんなわけないじゃん。そんなの、岩が泣いたってほうが信じられるって」 言ってけらけらとチェイスは笑った。明るい少女の声が、喧騒の中に響く。アリルカの国は、いつの間にかずいぶんと建物が増えていた。人間用の地上に建てた家。神人の子らが好む樹上の小屋。公共の建築物に、その間を走る道。すっかりと、国家の形になっていた。広い、けれど元の森の形を損なわない道を神人の子らが優雅に歩き、人間たちが闊歩する。どこにもない、タイラントが夢見た国。不意に時の流れを感じた。そこで少女は顔を顰めた。 「あのさぁ。ここ、笑うとこなんだけど?」 言われてもフェリクスは言葉を返せない。一度ゆっくりデイジーと話をする必要がある。あるいは、エラルダと。 「僕は、笑い方を忘れた」 言い捨て、フェリクスは背を返す。思い出したよう、懐に持っていた傷薬をチェイスに投げた。受け取ったのだろう、掌にあたる乾いた音がする。フェリクスは振り返らなかった。 「そんなもんだよね」 フェリクスが抱えてしまったものをいつまでも覚えている人間はいない。神人の子らは忘れない。単に、種族的な特性だ。フェリクスの思いを共有しているわけではない。 「いつまで――」 タイラントのことを覚えていてもらえるのだろう。かつてこの世界には世界の歌い手と呼ばれた偉大な吟遊詩人がいた、そんな伝説になってしまうのだろうか。 「あなたが、いた」 確かにいたはずだ。自分はどれほど彼を愛したか。その思いまで幻になってしまいそうな、そんな気がしてフェリクスは立ちすくむ。 「いたよね」 引きずるようにしてシェリを胸に抱えおろした。ぎゅっと抱きしめれば上がる竜の声。励まされているのかもしれない。そう思うのだけれど、ふわふわと足元が頼りなかった。 「おい」 腕を掴まれ、フェリクスは目を上げる。なんとも言いがたい顔をしてファネルがそこにいた。 「どうしたの」 「それは私の台詞だ。何かあったのか」 「別に」 「……と言う顔ではないが」 それではじめてフェリクスは自分の表情が変っていたのを知った。怒る、憤る、機嫌を損ねる。そんな感情からすら遠くなってどれほど経つのだろう。 タイラントの敵討ちをする。そう思っていたころは、アリルカの国を確かなものにすると決めていたころは、腹を立てたり怒りを爆発させたりしていた。 「珍しいね」 「自分で言うか」 「うん」 あらゆる感情をどこかに忘れてしまった気がした。それでも胸の中に何かがある。ぽっかりと空いた何か。 「ねぇ。僕のこと、どこまで知ってるの」 初めてフェリクスはファネルにそれを問うた。一度きつく腕を掴まれた。腕の中から竜が首を伸ばす。シェリを見下ろし、フェリクスは頬ずりをする。 「知らん。ほとんど」 「……そう」 「本当だ。歩くぞ。ここでは、話しにくい」 道の真ん中で、人目があるところでする話ではなかった。特に隠すべきことでもないのだが、今更どちらも認めにくかったし、公言するなどもっとしにくい。 「お前のことを知ったのは、気づいたのは、と言い換えたほうがいいか? いずれにせよ、アリルカにきてからだ」 「そう。知らなかったんだ」 ファネルはぎゅっと唇を噛む。この期に及んでなにを責められているのかわらかない。責められているのかすら、わからない。 「……こいつのこと、知ってた?」 ふと、気づいた。フェリクスの腕の中のシェリを見やる。必死な顔をしてこちらを見ていた。 「顔をあわせたことはないが、陰から歌を聞いたことはある」 闇エルフが人前に姿を現せば殺されかねない。そんな時代があったのだと、いまはそれさえアリルカでは夢のよう。噛みしめるようファネルは言った。 「――夜明けの歌だ」 「世界を寿ぐ歓喜の歌?」 「知っているのか」 驚くファネルにフェリクスは否定する。それからゆっくりと首を振り、自分は当然聞いたことはない、そう言った。 「メロール師だよ。僕のそばには半エルフの魔術師がいた」 彼は言っていた。タイラントの歌は世界が歌う歌だと。この世界が存在するすべてのものを喜ぶ歌声に、とてもよく似ている、そのものだと。 「そうだな。あれは本当に、世界の声だった。憎悪が洗い流され、新たな憎悪になった。それでいて、憎しみは別のものだった」 「わかる気がするとは言わないよ、あなたのことはね。でも、僕自身のこととしては、理解できる」 「いい歌だった」 「そう……。そうだね、あなたは、覚えてる。あいつがいたことを、覚えてる」 「銀の髪に色違いの目。派手な吟遊詩人もいたものだと思ったものだ」 彼を派手野郎と罵った師はいない。彼もいない。彼を覚えていてくれる人が、日に日に少なくなっていく事実にフェリクスはぞっとする。 「それでも、あいつは実在したんだね」 シェリが鳴いた。ただ、鳴いた。そこになんの色合いもないことにフェリクスは目を瞬く。詫びることもできずじっと竜を抱きしめる。 そんな日、リオンは床についた。病ではない。定命の身に生まれた、定めだった。 |