ファネルがフェリクスを寝台に横たえる間もシェリはずっと彼を睨んでいた。そのあまりにも切なげな凝視にフェリクスは指を伸ばす。
「おいで」
 きゅう、と一声鳴いた竜が胸元に飛び乗ってくる。その重さにフェリクスはうめいた。ぎょっとしたようファネルがシェリを引き剥がせば、竜の口からもうなり声。
「ファネル。平気だから。いいから、大丈夫。こっちきて。ほら、ここがいい」
 片手をずらし、脇腹に竜を引きつければ温かい。ようやくほっとしたようシェリが体の力を抜いた。
「お前は――」
「それより、さっきのリオン。あれ、絶対お茶が入ってる。淹れて」
「茶?」
「そう。疲労回復に効くやつ。あいつの腹立つところだよね。僕があなたになにを依頼したか、わかってる。そういうところ、本当に嫌い」
 言い捨ててフェリクスは竜に寄り添う。口調は普段と変わらないもののいつになく顔色が悪かった。あの戦争のときですらここまで青白くなったことはない。
「茶、か」
 皮肉に言ってファネルはリオンに投げつけられた小袋を開く。本当に薬草が入っていたのには、驚いた。
 フェリクスはリオンが自分の意図を読みすぎると言って怒るけれど、彼も同じではないか、とファネルは苦心して表情に表さないよう心がけつつも笑い出しそうだった。
 眠ってしまったのかと思うほど無言のフェリクスを背中に感じながらファネルはゆっくりと薬草茶を煮出していた。
 呼吸の仕方で彼が眠りに落ちていないのはわかる。眠れないほどの強い疲労だと言うことも同時に。そして思う。リオンは、なぜ。
「茶ができた。……起きるな。眩暈を起こす。シェリ! 他意はないと言っているだろう。私相手に妬いてどうする。どういうかかわりか、知っているだろう、お前は!」
 またもやうなり声上げた竜にファネルは怒鳴り声を上げた。珍しい激高にシェリの色違いの目が開かれる。きょとんとして、次いで恥ずかしそうに伏せられた。
「あなたと僕の関係? そんなものどこにあるの」
 さも嫌そうにフェリクスは呟いたから、本心ではそうは考えていないのだろう。ファネルはそう思ってシェリを見やった。竜は実にもっともらしげな顔をしてうなずく。
「ちょっと。なに急に機嫌直してるわけ? いつからあなたがた仲良しになったの。……はじめからファネルには懐いてたか。そのあたりも気に入らない。もうちょっと元気になったら、絶対締めるから。あなたを締め落とせるのは、知ってたよね?」
 言った途端、フェリクスは顔色を変えた。自分の言葉で自身を傷つけたのだろう。それがなににきざすのか、具体的にはわからない。ただ過去の思い出に繋がるのだということくらいはファネルにもわかる。
「そのつもりならば、熱いうちに飲め」
「わかってるよ。だけど、これなに」
「スプーンだ。見てわからないか」
「わかってるから聞いてるの。これでどうしろって言うわけ? ちょっと、ファネル!」
「起き上がれないだろう? 横になったままどうやって熱い茶を飲むつもりだ。だから、シェリ。うなるな。ただの看病だ。お前がしたいのはわかっている。が、どうにもならんだろうが」
 呆れて言うファネルにそれでもシェリは拗ねていた。唖然として言葉もないフェリクスの口許に、ひと匙ずつ茶をすくって飲ませる。あまりにも信じられないことが起こっているせいだろう、フェリクスは素直に飲んだ。
「こんな風に」
「なんだ」
「……あいつを看病したことあったな、と思ったの。だからやりたかったんだよ、こいつ」
「ほう、そうか」
「うん。僕は丈夫だからね。寝込むほどの病気なんかしたことあったかな」
 ぽつりと言ったフェリクスにファネルは相槌以上のものを打っていなかった。シェリもそれを感じたのだろう。まるで自分の指が匙を持っているかのよう視線を動かしては茶を勧める。また一口、飲んだ。
「聞きたいことがある。いいか」
「いいけど? 返事は期待しないでよ」
 それでいいとばかりファネルはうなずき、最後の茶をフェリクスの喉に流し込む。ゆっくりと体が温まっていくだろう。薬草が、すぐに効くとは思えない。
「回りくどいことは苦手だ」
 だから直截な表現で聞く、とファネルは断る。それになにを思うのかシェリが笑った。その額をフェリクスが指先で弾く。
「可哀想に……。いや。リオンのことだ。なぜ、お前にだけ負担を強いた?」
 言われていることがフェリクスは理解できなかった。先ほどのシェリのよう、きょとんとしてファネルを見返す。闇エルフの目はいつになく厳しいものだった。
「あぁ……あなた、そんな風に感じたんだ」
「感じた? 事実だろう。私は鍵語魔法には詳しくないがな。神人の血を引く者として生まれた以上、ある程度の魔法はこの身のうちに持っている。さっき、お前だけが魔力を供給していたのも、見えていた」
「なるほどね。そっか、見えてたんだ」
「だから、問う。なぜだ。返答次第によっては――」
「リオンをぶん殴る? やめてよ、みっともない」
 フェリクスは無表情だった。代わりにシェリが嬉しそうな顔をする。互いにその関係を公然と認めはしない。それでもここに確かな何かがある。
「難癖つけて喧嘩に引きずり込む程度のことはしてもいいはずだが」
「あのね、ファネル。勝てる喧嘩だけしたほうがいいと思うけど? 忌々しいけど、リオンは強いよ。それに、あなたは知らない」
「なにをだ」
「リオンがなにを供給したのか。供給って言い方はおかしいか。あの魔法にあいつがなにを提供したのか」
「なんだ」
 それが他愛ないものならば。いまのフェリクスの負担より軽いものだったならば。ファネルの目はあからさま過ぎるほど次を語っていた。それにフェリクスは小さく溜息をつく。
「……あなたの口から他の誰かに漏れることはないと思っていいね?」
「誓えと?」
「そう。必要ならばあなたが大切にする何かにかけて誓ってもらう。リオンはこれを知られることを望んでいない」
「誓おう。我が子にかけて」
 冗談ではない、とフェリクスが声をあげようとした瞬間、ファネルの真摯な表情が目に入る。思わずシェリを見やれば、竜もうなずいた。彼にとって、それが最も大切なものだと言うのか。いつの間にかフェリクスはシェリを抱きしめていた。
「……誓ったね。僕にとっては意味をなさないものでも、あなたにとっては、大事な誓いだ」
「無論」
「……リオンは、自分の命を賭けた」
「なに――」
「あいつが魔法にこめた……違うか。女神への誓願に捧げたのは、自分の命だよ。十年分くらい、女神に差し出すことになる、そう言ってた」
「おい」
「あいつもあれでけっこうな年だからね。あとは長くないよ。今にもくたばるってわけじゃないけど。それでも、二十年は生きないね」
 闇エルフのファネルは言葉を失った。定命の子らの、果敢ない命が消えていく瞬間をまざまざと思い描いてしまう。あの、リオンが。そしていつかフェリクスも。
「気がついたみたいだね。僕もいつかは死ぬんだよ。できればとっとと死にたいけど、中々そうもいかないし」
「そんなことを言うな!」
 ファネルの叫びと竜の叫びが重なった。フェリクスは両者を見やって溜息をつく。
「そんな風に驚かれたらおちおち冗談も言えやしない。別に今すぐ死ぬとは言ってないし、自死の道を選ぶ気もない。いまのところは。ただ、覚悟はしておいてって言ってるの」
「……なんのだ」
「僕とリオンはそうだね、だいたい十歳くらいしか年が違わない。今回のことであいつの命が短くなったとしてもね、ファネル。あいつが死ぬのと前後して僕も寿命を迎えるってことだよ。僕は魔術師だ。長生きだけど、定められた命の時間がある。それがいつかなんかわからない。もしかしたらリオンより先に逝くかもしれない。そんなことは誰にもわからない。そのときのアリルカのことを考えて」
 自分たちの死後、ここになにが残るのか。自分たちがいなくなったあと、アリルカは平和でいられるのか。フェリクスの視線がファネルを貫いた。
「僕は、正直に言ってここに執着はない。人前で言うことを信じないで」
「そうだろうとは思っていたがな」
「それって皮肉? 別に事実だからいいけど。僕はただ、ここが心配。大事だからじゃない。こいつが――」
 言葉を止めたフェリクスの視線がシェリを見つめる。険しかった目許はかすかな和みを見せ、指先が額を撫でた。
「この国、好きそうなんだよ。本当のところはわからない。あいつだったら、好きだっただろうな、と思うの。こいつは好きそうなんだけど、あいつもそうかはわからない」
 決して名を言うことはない。それでもファネルには誰のことを指しているのかがはっきりわかる。だから黙ってうなずいた。
 逝ってしまった伴侶が望んだかもしれないことだけを、フェリクスは胸に抱いてここまできたと言うのか。誰のために戦ったのか、問えば彼は自分のためだと答えるだろう。それでもファネルは思う。もしもアリルカがタイラントの望んだような国になる可能性を秘めていなかったならばフェリクスはきっと一人で戦ったことだろう、アリルカの参戦を求めず。
「できるだけ、努力はしよう。だが、お前は忘れていないか」
「なにを?」
「私はいつ最後の旅に出てもおかしくないぞ」
 胸によぎった様々な思いを伏せてファネルは笑った。感づいたシェリが鋭く鳴く。嫌がるかもしれない、そう思ったときには竜の額を撫でていた。
「それだったら旅に出る前にそれとなく誰かに僕の頼みを引き継いでよ。それくらいできるでしょ。それにしても、なんであなたの手は嫌がらないかな。他の人には触らせないくせに。――答えるなよ、二人とも」
 忌々しげに言ったフェリクスを、闇エルフと竜は顔を見合わせ笑った。その声を聞くうち、ようやく効きはじめた薬草がフェリクスを眠りに誘う。かすかな抵抗をし、彼はシェリを抱き寄せて眠った。眠る自分のそばからファネルが離れないだろうとどこかで感じつつ。




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