アリルカが魔法に染まっていく。青く晴れ上がった空まで、森を超え、遥か彼方まで。アリルカが、彼らの大地と見做すその果てまで。
 リオンの額には、強烈な集中力ゆえの汗が浮かんでいる。それでも彼は幸福そうな顔をしていた。この魔法がアリルカを守る。そう思えばこそ。
 不意に足元が危なくなってフェリクスはぐっと腰に力を入れた。シェリが彼にだけ聞こえる鳴き声を上げて見上げてくる。
「平気」
 同じ小さな声で呟いて、細く息を吐き出した。体中から魔力を搾り取られていた。リオンの祈りと、フェリクスの魔力と。それがこの魔法を安定させていく。
 突然だった、解放されたのは。あわただしく息をしないよう心がけ、フェリクスは目を開けた。それでいままで閉じていたことを知っては自嘲する。
「まだまだだね」
 至らない。ここまできてもまだ、学びたいことがたくさんある。どこかでかすかにそう思った。思った途端に、消えていく。何のために。誰かのために。誰の、ためにだろう。
「もう、いないのにね」
 心にかける大事な人はもういない。あるのはただその幻。アリルカのためにフェリクスは魔力を供給したのではなかった。いまはいない彼がこの国を喜ぶだろうと思うがために。
「はい、お疲れ様です」
 疲労は浮かべていた。それでもリオンは楽しげだった。心からこれを喜んでいる。フェリクスには信じがたいことだった。
「リオン。いったいこれは――」
 特に疲れたわけでもない彼らは一様に不思議そうな顔をしていた。リオンはいまだ彼らになんの説明もしていないのだから、もっともなことだった。
「これは」
 言いかけてリオンが言葉を切る。目許が不意に険を帯びる。リオンにしては珍しいことだった。彼らはリオンの視線の先を自然と追った。
「え?」
 人が、倒れていた。こらえかねる頭痛に頭を抱え、うめいている。リオンとフェリクスの溜息が重なり、シェリが鋭く声をあげた。
「つまり、こういう事態を未然に防ぎたかったわけなんですが。ちょっと遅かったと言うか、敵も中々打つ手が早いと言いますか」
「リオン! もうちょっとわかりやすく言ってください」
「うん、ですからね。あれ、密偵です。二王国のどっちが放ったものかは知りませんけど」
 さらりと言われた言葉に民が息を飲んだ。湖の対岸で待つ人々にもリオンの声は聞こえている。頭痛に苦しむ者たちから民がさっと離れた。
「本来この魔法はアリルカに害をなすものがこの国に入り込めないようにするためのものです。いわば盛大な結界と言いましょうか。人口が増えましたからね、迷いの森を維持するのも大変でしょ? 一々送り迎えするのも大変ですし」
 人間がいた。アリルカに住む人間は、迷いの森を突破することが難しい。よほど勘が鋭ければ別だが、そうではない者たちには送り迎えが必要だった。
 だからリオンはこの魔法をかけることを決心した。飄々としたリオンにも重大な決心が必要なほどの魔法だとは、彼は間違っても口にしないだろう。
 それを思ってフェリクスは小さく唇を歪めた。腕の中からシェリが心配そうに見上げてきている。その額にくちづけてフェリクスは囁く。
「もう、大丈夫。いまのところはね」
 竜にだけ聞こえるよう囁いてフェリクスはリオンに視線を戻した。
「実例を見せることになっちゃいましたが、実際はアリルカに悪いことをしようと思ってる人たちはこの魔法の範囲内には入れません。肉体的苦痛のみならず、精神的にも苦痛を味わいます。まぁ、あんまり褒められたことじゃないですけど、アリルカを守る手段としては最善かな、と思うんです。私」
「リオン……」
 きゅっとエラルダが唇を噛んだ。加わっていた魔術師が呆然とリオンを見つめる。彼には、いまなにが起こったのかその断片は、理解できただろう。
「リオン師――」
「黙んな。もう魔法はかけ終わった。エラルダ、それからアリルカの民。事前説明なしでかけたけど、これ、要らない? 要らないんだったら、解除するけど?」
 声をあげた魔術師を遮ってフェリクスは言い放つ。それにリオンが奇妙な顔をした。目に留めたものは少ない。が、シェリは見た。
「いえ! とんでもない。とてもありがたいです。あなたがたが、私たちを、アリルカを守ってくださる……」
「あなたがたを守るつもりじゃないよ。ここは僕の国でもある。故郷ってやつ? だから、気にしないで。リオン、まだ言うことあるんでしょ。さっさとしなよ」
 心にも思っていないことを言った。フェリクスは内心で自分の嫌なところだけをひたすらに見つめていた。
 故郷だなどと、思ってはいない。故郷と言うのが温かな安住の地であるのなら、そのようなものは自分にはない。抱きしめたシェリが、苦しげに身をよじった。
「ごめん」
 そっと離せば、長い首を頬に摺り寄せてきた。フェリクスは息をつく。なぜか、安堵した。もしも自分に故郷と言うものがあるのならば、この竜だ、そんなことを思う。
「あ、はいはい。忘れるところでした。この魔法、鍵語魔法と言うわけじゃないんです。あ、驚きました? それはよかった。フェリクスと私とが協力した、と言うことであらかたわかっていただけるかなぁ、と思うんですが」
「神聖魔法も、ですか」
「はい、そういうことです」
 にこりと笑ったリオンに民から感嘆の声が上がった。エラルダもその思いを隠さずにいる。ファネルが一人、どことなく不機嫌な顔をしていた。
「ですから、できれば、と言うことでお願いなんですが――」
 リオンの言葉の途中で、民から声が上がりはじめた。はじめは、なんの形もとっていなかった。それが次第に歌になる。いつの間にか引き出されていったのだろう、倒れた者たちは姿を消していた。
 フェリクスは再び竜を抱える。神人の子らの多いアリルカの歌は、言葉とは捉えられない歌詞に満ちていた。それが少しずつ人間の言葉になっていく。希望と、喜びに満ちた、歌。
「これをね、お願いしたかったんです。私が望んだ以上の形でしたけど。我が女神は、歌や物語がお好きです。ですから、一年に一度くらいでいいんです。この杖の前で聞かせてさしあげてください」
「もちろん」
 エラルダの頬が喜びに輝いていた。それを見たデイジーにも血の色が上がっていく。二人顔を見合わせるのに、誰からともなく最初の歌は二人のことに決まりだ、と揶揄が上がった。
「では、戻りましょうか」
 リオンの声にフェリクスは気力を振るって再び氷の橋をかける。こんなにつらい思いをしたのは、修行時代以来のことだった。体から、魔力がほとんど尽きていた。集めることができるだけの体力すらも失われている。
「心配しすぎだよ」
 それでも彼は何事もなかったかのよう誰にも疲労を窺わせなかった。しっかりと立って、毅然と顔を上げる。彼の疲労を知る者は、共に魔法をかけたリオンと、そして腕の中の竜だけ。
 弾むよう、みなが橋を渡っていく。その間も歌声は途切れなかった。誰もが喜びの歌を歌う。これからようやく真に自分たちの生活が始まるのだ、と。もう怯えて過ごさなくともいいのだ、と。
 歌声に、心が萎えそうだった。フェリクスは前だけを見ている。決して聞かない、歌声など。それでも耳は閉ざせない。
 彼の歌を、思い出してしまう。無駄なことだった。思い出そうとしなくとも、いつも心に響く歌。それでもやはり、まざまざと思い出すのはつらかった。
 いっそいまシェリが歌えたならば。それを口にしかけ、竜自身が最も望んでいることを察して、彼は口をつぐんだ。歌いたくて歌えない竜のほうが、自分より遥かに悲しい思いをしているに違いない。それでも望む、己の心が忌まわしい。
「そうだよね」
 ただそれだけを言ったのに、シェリは目を伏せうなずいた。だからいまは一刻も早くここを立ち去りたかった。心も体も、つらかった。不意に、眩暈が襲いかかり、体から力が抜けそうになる。それでもフェリクスは立っていた。一度きつくシェリを抱く。了承を求めたつもりの仕種に、シェリは鳴き声で応えた。
「ファネル。ちょっといい? こないだ借りたの、返すから。僕の小屋まで来てくれる?」
 一瞬だけファネルは訝しそうな顔をした。次いで無言でうなずく。無造作に歩み寄ってきて、フェリクスの隣に立った。そのことにフェリクスはまず安堵する。
「あ、ファネル。これ、この前のお礼です。受け取ってください」
 笑顔のリオンが振り返ってぽん、と小さな袋を投げた。器用に受け取ったファネルは、やはり眉を顰めただけで問いはしなかった。
「ありがたく、受け取っておこう」
 リオンとファネルの視線が絡む。それで互いに理解したらしい。フェリクスもシェリも気に留めなかった。いまは少しでも早くここから離れたい。
「行くよ」
 短く言って歩き出したフェリクスのすぐ横をファネルは歩いていた。民の間を抜け、歌い交わす人々に手を振る。ファネルも笑みを浮かべて応えた。フェリクスですら、手を上げる。彼の無表情は変わらない。だから誰も不思議には思わなかった。
「肩。貸して――」
 森に入った途端だった。膝が崩れフェリクスが倒れそうになったのは。咄嗟にファネルが支えなければ、大地に頭からのめっていたに違いない。
「おい!」
「魔力を失くしすぎ。僕らにとって魔力って言ったら、体力も同然。眩暈がするの。だから、肩貸して」
「肩ですむと思うのか、お前は」
 呆れ声で言って、ようやくファネルは顔色を変えた。彼は気づいていた。鍵語魔法のことはよくわからない。それでもフェリクスのことならば、わかる。うつむいた顔も、震える睫毛もファネルは見ていた。シェリが時折心配そうに細く鳴くのも。
「ちょっと、やめてよ」
 抗議の声に力がなかった。だからかまわずファネルは彼を抱き上げる。ほっそりとした体は力を失い、かえって重たい。彼の腕から飛び立ったシェリが鋭く鳴いた。
「ほら、妬いてる。自分がしたくてできないことを、人がしたらやっぱり嫌じゃない。それがたとえあなたでも。こいつは、嫌だと思うよ」
「わかってはいる。理解もできる。が、諦めろ、シェリ。いまは私の腕が必要だ。ただ、それだけだ」
 シェリは、わかっているのだろう。厳しい目でファネルを睨み付けてはいたけれど、理解はしているのだろう。その目は誰でもなく、自分自身を睨んでいたのかもしれない。フェリクスが伸ばした指先に、シェリは擦り寄って小さく鳴いた。




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