アリルカは安寧に包まれていた。急激に増えた人口のため、建築はあわただしく行われている。それでもこの国にあるのは安らかさだった。 「落ち着きますねぇ。帰ってきたなぁって感じです」 リオンが朗らかに言って肩に担いだ長い物を揺すれば、シェリが同意するよう鳴きたてる。あまりにも長閑でフェリクスは言葉がなかった。 「お帰りなさい!」 目敏く見つけて駆け寄ってきたエラルダの頬には切り傷があった。うっすらとしてはいるが、神人の子らの特性を考えれば今できたばかりの傷だろう。 「はい、ただいま帰りました。どうしました、それ?」 にこにことしつつリオンが指差す。照れたよう笑ったエラルダはそっと頬の傷に指を滑らせた。 「家を作る手伝いをしていて。やっぱり力仕事は苦手です。それより――?」 「あぁ、これですか?」 そう言ってリオンは担いだものをおろした。布でぐるぐる巻きにされているせいで、中身の想像がつかないでいるのだろう。エラルダの表情は好奇心にあふれている。にんまりとリオンが笑った。 「ちょっと、いいものです」 「また内緒ですか。ずるいと思うのは、いけませんか。リオン?」 「いえいえ、とんでもない。いま、人集められます?」 「ちょっと、リオン」 「なんです? さっさと片付けちゃいたいです、私」 止めようとするフェリクスにリオンは柔らかな表情で答える。が、フェリクスはそこに焦燥を見て取った。 否応なしに長い付き合いをしてきている。リオンが何を意図してそのような顔をしたのか読めないフェリクスではなかった。そっと溜息をついてシェリを抱えた。 「ちょっと一息つきたかったんだけどね。僕は。まぁ、いっか。するべきことをやっちゃって、それからのんびりする? あなた、どうする?」 問いかけなのか愚痴なのかわからないものにシェリは明るく鳴くことで応えた。それをフェリクスがどう感じたのかは誰にもわからない。目を上げたときには決然とした顔をしていた。 「やろうか」 「はい。では、エラルダ。議事堂前に手の空いてる人……いえ、できれば全員集めてください」 「全員?」 リオンの言葉にエラルダがはっとする。いまからなにが起ころうとしているのかはわからない。それでも何か重大なことが起こるのだということだけは、わかった。 エラルダが振り返って指示をする。すぐさま駆け出していく人々の表情は、それでも明るい。リオンの目に切迫感がないのを見ていたのだろう。 「行くよ、エラルダ」 シェリを胸に抱いたままフェリクスが言っては歩き出す。説明を求めたい気持ちでいるのだろうエラルダは、それでも黙って二人に従った。 議事堂前の湖のほとりで待つ彼らの元、次第に民が集まり始めた。二王国に比べれば少ないとは言えそれなりの人数がいる。すぐさま恐ろしいような混雑が起こる。 「集まったようですよ、リオン」 それでも混乱が起こらないところがアリルカのよいところだった。興味深々と見つめてくる人間たち。好奇心いっぱいの魔術師たち。ひっそりとした神人の子ら、おずおずとしたその子ら。 「では、先にちょっと一仕事。あなたがします?」 「リオンの仕事でしょ。あなたのほうが適任だ」 「ま、それもそうですね」 フェリクスに笑みを見せ、リオンは背後を振り返る。そこには静かな細波に揺れる湖があった。リオンが一つ息を吸う。 呼吸の音が、重なった。民たちと。リオンが一息する間に湖は盛り上がり、そして小さく割れる。盛り上がったものがすぐさま何かわからない。 「……島?」 それは確かに小さな島だった。人が五人も立てば窮屈なほどの小島。リオンが片手を振った。民が小さく声をあげた。 たったいままで濡れた土の盛り上がりでしかなかったものが緑に覆われる。鮮やかな草が芽吹き、根を下ろし、息づく。 「こんなものでどうでしょ?」 「いいんじゃない? 手入れはあとですればいい」 「では、フェリクスの同意も得たことですし、ちょっと皆さんの手が必要です」 「リオン、フェリクス……なにを……」 「うん、ちょっとここを、アリルカを守りたいなって。そのために必要な手を貸してもらえますか、エラルダ」 「もちろんです!」 今更だった。アリルカを、自分たちの安寧を得るために、どれほどのことをしてきたか。それを確実にしたいとリオンが言うならば、それはまた民の意思でもあった。 「神人の子らと、その子ら。人間と魔術師。それぞれ一人ずつ選んでください」 「あぁ、エラルダ。あなた自身は除いて。あなたには別の役目があるから」 「なんです? 別に、かまいませんが……」 戸惑う彼に向かってシェリが朗らかに鳴いた。それでエラルダの心は決まったのだろう、きゅっと唇を噛んで民に向かう。 「人間は、誰がいいかな」 問いに手が上がる。見れば無理やり仲間たちに腕を持たれて上げさせられているらしい。嫌そうな顔をしてはいるが、選ばれることへの戸惑いであって、義務を嫌がっているわけではないだろう。 「あぁ、デイジーならいいね。みんな納得する」 「だからデイズアイだって言ってんだろうが! いい加減に覚えろ、くそ魔術師!」 「覚えてるよ? だからと言ってそう呼ぶかは別の問題。違う?」 怒鳴られたフェリクスが何事もなかったかのよう言い返せば笑い声が民から上がった。その間に半エルフの子が一人、そして魔術師が一人と選ばれていく。 「神人の子らからは、ファネルを推薦したいけど、どうかな」 エラルダが言えばそろって民が賛同した。リオンはそれを心が震える思いで聞いた。闇エルフ。そう呼ばれた彼が、いまここで神人の子らの代表として民から選ばれる。 「いい国になりますねぇ」 呟きは歓声にかき消された。それでも聞きつけたシェリが鳴く。色違いの目に薄く涙があった。 「ちょっと。なに泣かせてるの。やめてよ、苛めるの」 ぎゅっとフェリクスが竜を抱きかかえれば、身をよじってシェリは彼を見上げる。その言葉が本心ではない、と気づいたのだろう、ほっと力を抜いた。 「では、皆さんこちらへ。エラルダもですよ」 四人とエラルダを伴ってリオンは小島に渡る。無論、フェリクスもあとを追った。小島に渡るための橋を形作ったのは、フェリクスだ。氷作りの橋を誰もが恐れることなく渡りきる。 「狭いですねぇ。まぁ、いまだけのことですからちょっと我慢してくださいね」 誰にともなく言いリオンは微笑む。そしてまた担いで持ち運んでいたものを下ろし、布をはずした。それは、フェリクスが塔で作り上げたあの長い杖だった。日差しの中で真の銀と金剛石が、そして水晶が眩く輝く。 「それは……なんて、綺麗」 「フェリクスの労作です。綺麗でしょう? この人、こういうの上手なんです。私より」 「あなたが下手なんだよ」 むっつりと言ってフェリクスはシェリを抱えなおした。ひしめき合っているこの場所が嫌だった。決して民を嫌っているわけではないのだが、肩がぶつかりそうなほど近くに誰かがいると言うのは生理的な嫌悪感を誘う。 「これは、四つの元素、と言うことですか?」 エラルダの問いに小島に渡った者のみならずみなが耳を傾けていた。杖を形作っている四本の螺旋をエラルダは指差していた。 「違うよ」 フェリクスは一度言葉を切る。本当は、このような説明は自分がするよりリオンがした方がいい。ちらりと心の中によぎったもの。本当に自分はこれにこめた意味を信じているのか。シェリが励ますよう、鳴いた。 「定命の者。定められた時を持たない者」 フェリクスの指が、杖の下部を指し示した。二つに分かれた螺旋がねじりあう。 「定命の者から、人間と魔術師が生まれる」 一方の螺旋が、二つに分かれて絡み合う。フェリクスの指がもう一方を指す前、誰もが答えを知っていた。 「わかるよね、こっちは、神人の子らとその子らだ。だからこれは、アリルカだよ。この国が、そうあるべき姿だ。異種族が、調和して作り上げていく、アリルカだ」 フェリクスが杖に触れた。そしてリオンが力強く微笑む。両手で杖を天に掲げ、そして小島に据えた。フェリクスは感じ取っていた。その場の魔術師も。 杖は小島に強固この上なく融合した。湖の底にまで達し、いかなる者が試みようとも決して動きはしない。大地そのものに根を張った。 「……かつて、世界の歌い手は歌った。違いは違いとして認めればいい。恐れることはない。誰もがみな違うのだから。いかなる差別も、愚かだ。人は調和することが必ずできる。そう歌った」 人。そうフェリクスが言ったとき、誤解した者はいないだろう。人間も神人の子らもその子らも、魔術師すらも含めて彼は人と言う。 そして今フェリクスが世界の歌い手と口にした。彼の腕の中にいるその魂の欠片。注目を浴びて居心地悪そうにシェリが身じろいだ。フェリクスがなにを意図して世界の歌い手、と言ったのかわからないまま、民は熱狂していく。 リオンの言葉にしない指示の元、選ばれた四人が杖に触れる。それをフェリクスとリオン、エラルダが囲んだ。 「あなたは、見届け人ってとこだね。何もしないでいい。ただ承認してくれればいい。この国があるべき姿でいられるよう、願ってくれればいい」 こくりとエラルダがフェリクスの言葉にうなずいた。厳粛でありながら、頬が希望に熱く染まっている。 「では、はじめましょうか」 リオンが周囲を見回し、対岸にいる民に向かってにこりと笑う。両手を掲げ、祈りを捧げた。彼の女神に。 「じっとしてて」 途端にフェリクスを襲った急激な眩暈。事前に聞かされてはいたものの、シェリは慌てた。それをきつく抱きしめたフェリクスはじっと杖の周りの人々を見ている。振り返って見やった民は彼らと同じ、明るい希望に染め上げられていた。 フェリクスは耐えていた。まるでシェリにすがってでもいるかのよう、竜を抱きしめながら。情熱にも希望にも染まりきれないフェリクスは、不意に奇妙なほどの静謐を感じていた。 |