リオンが塔に戻ったとき、シェリとフェリクスはテーブルについて食事をしているところだった。食事、と言っていいのだろうか。一匹の竜と闇エルフの子が、共にテーブルを囲んでいる。
「おや、ご飯……ですか?」
 言い淀んだリオンにフェリクスが嫌な顔をした。それを見澄ましでもしたようシェリが情けない声を上げる。
「ご飯のつもりだけどね。こいつもどうもそう思ってはいないみたい。癪だよね」
 慌ててシェリが大きく鳴いた。そんなものに惑わされはしない、とフェリクスが顔を顰める。自覚は、あるらしかった。
 フェリクスはいまだかつて料理の腕前を褒められたことがない。食事とは食べられればいいのであって、食感だとか香りだとか、まして味付けだなど考えたこともない。
「ま、あなたのご飯じゃシェリもつらいでしょうねぇ」
「ちょっと。どういうこと?」
「いえいえ。そのまんまですよ、他意はありません」
「そう言うの、他意だらけって言うの。知ってた?」
「実は」
 にっこりと笑ってリオンは肩から旅の埃を払い落とす。そのような必要はないはずだった。星花宮から魔法で転移しただけなのだから。
「ねぇ。そういうこと言うと、僕の作ったご飯、食べさせるけど?」
「あなたねぇ。自分が下手だって知ってるんじゃないですか。努力をしたらいいでしょうに」
「そんな暇も余裕もないね」
 いくらでもあるはずの時間をフェリクスは一蹴する。今となっては、復讐も終わった。アリルカも当面は心配がない。彼はどのようなことでもできるはずだ。
「やりたくないだけですかねぇ」
 背中を向けて小声で呟くリオンに、フェリクスは答えない。リオンも知っていた。やりたくないのではない、やる気になれないのだと。
「アリルカ、戻るの」
 咳払いをしてフェリクスが問う。だから一応は何事かを感じては、いるのだろう。感じつつ、何もできない自分を彼は知っているのだろう。リオンはそんな彼がいたたまれなくてならなかった。
「いまからですか? ちょっとのんびりしたいなぁ、私。明日でいいんじゃないですか? とりあえず向こうからは何も言ってきてないでしょう?」
「弟子どもが慌てふためいて接触してくるなんてことはとりあえずは起こってないね」
 だからと言って何も起こっていない保証はなかったけれど、少なくとも緊急に自分たちを呼ばなければならない事態にはなっていないはずだった。自分たちの手に負えない、と判断するくらいの力量は弟子たちにもある。
「では明日と言うことで。それからフェリクス?」
「なに」
 まだ何かあるのか、と嫌そうな顔をすれば皿に顔を突っ込んだままシェリが笑った。
「そんな格好で笑わないで。飛び散るじゃない。ほら、顎についてる」
 何かの煮込み状のものがシェリの顎についていた。それをフェリクスは一見ぞんざいな、その実優しい手つきで拭ってやる。
「いやぁ、シェリの首飾り、可愛いなぁと思って。あなたの手首とお揃いですか」
 言った途端だった。フェリクスの指先がひくりと痙攣する。それからゆっくりと目を上げてリオンを見た。
「うるさいよ」
 それだけを言った。弟子たちならばその場で逃げ出しただろう。エラルダたちならば、一歩を退いただろう。リオンはにっこりと笑った。
「作ったの、あなたですよね。シェリとお揃い。とってもいいです。シェリが青であなたが緑って言う選択も、素敵ですよ、フェリクス」
 フェリクスの手首には、リオンが言うとおりの物が飾られていた。シェリの首飾りの石だけを緑に変えたもの。さらさらと涼しい音を立てていた。
「……うるさいって言ってるのが聞こえないの」
「生憎と都合のいい耳をしていまして、私。突然聞こえなくなるんですよねぇ」
「ほんと、最低。信じらんないよ、カロルの趣味の悪さが」
 文句を言ってフェリクスは肩から力を抜いた。それまで入れていることにすら気づいていなかった自分に彼は舌打ちをする。きゅう、と竜が甘えた声を上げる。その背をゆっくりと撫でてフェリクスの心も静まった。
「……こいつに、作ってあげるだけのつもりだったんだけど」
「シェリもあなたに作ってあげたかった?」
「そうみたいだね。でもこの前脚じゃ無理だし」
 前脚、と言った途端にシェリが鳴く。抗議の声にリオンは頬を緩ませたけれど、フェリクスは変わらぬ無表情。それでも気配がぬくもりを帯びた。
「お揃いにしろって、うるさいんだもん。悪趣味じゃない、こんなの。どこの馬鹿って感じじゃない? 僕は凄くいやなんだけど、こいつが、うるさくって。だから、好きでしてるわけじゃない。こいつが、うるさいの。わかった?」
 いつもの淡々とした口調ではなかった。照れているのだ、と気づくまでさすがのリオンも数瞬かかる。そしてフェリクスはついにそれを理解しないだろう。ちらりとシェリを見やればそれでいいのだと竜の目が言う。リオンの唇から小さな溜息が漏れた。
「悪趣味ですかねぇ。仲良しさんでいいなって思いますけど。私の銀の星もこれ作ってくれましたしね。お揃いでしたよ?」
 何事もなかったかのようリオンは笑いながらそう言う。掲げた指先には飾り気のない単純な銀の輪がはまっていた。
「あなたがたのそれはどっちかって言ったら誓約の指輪じゃない? 男二人で結婚の誓約してどうするのって思うけど。……って、だから、別に否定してるわけじゃないの、僕の言いたいことくらいわからないわけ? わかってる、絶対わかってる。そうでしょ。だから、そんな泣いたふりしてもだめ。騙されない」
 きっぱりと言ってシェリの泣き顔からフェリクスは顔をそむけた。それでも横目で窺うあたり、意外と可愛いところもあるとリオンは心のうちを見せない笑顔で思っていた。
「あれ、知りませんでしたっけ? 私たち、最愛のエイシャの祝福を受けてますよ?」
「……知ってて忘れたい事実がずいぶんあるものだって僕は学んだの。思い出させないでよ」
 苦々しげな言葉にリオンは大きく笑った。すぐさまシェリが続いて笑う。フェリクスが言っていることはリオンとカロルのことではない。
 ある意味では、そうだった。かつての幸福だった時間。和やかな星花宮。カロルがいてリオンが割り込み、そしてタイラントが現れた。
「ずっと続けばいいのにって思うことほど、そのときには壊れてるもんだと思わない?」
 言い捨ててフェリクス立ち上がる。するりとシェリの胴の下に腕をまわして抱き上げる。いまは竜の温もりでしかない、幻の男の体温を求めているように。
「いつまでも、心には残っていますよ」
 リオンの言葉が彼らを追いかける。一度足を止めたフェリクスだった。答えはない。そのまま扉を抜けていく。
 それが、フェリクスの答えだった。心にあったはずのものすら失ってしまった彼の。温かい思い出も、血の色に染め抜かれた。
「いつか、癒える日がくるんでしょうか」
 リオンは呟く。彼の女神に問うたのかもしれない。そしてリオンの問いを知ればフェリクスは一言の元に拒絶するだろう。
 癒える日などこない。その必要を感じない、と言って。それが予測できてしまうリオンは、不意にシェリを思った。
「とっくに、わかっているってことですかねぇ」
 生々しい血を流し続けるフェリクスの魂をその目で見たかのよう、シェリはいつも彼のそばにあった。そのためだけにシェリは存在していた。
 その傷が生涯にわたって癒えることがないと、タイラントは知っていたのだろう。自分を失った苦しみからフェリクスが解放されることをタイラントは望んだのだろうか。
「望まなかった気がして仕方ないのは、気のせいですかね」
 ぽん、と疲れたよう肩を叩いた。不器用な二人だったのは、今に始まったことでもない。いつも喧嘩ばかりをしていた二人。リオンとカロルはずっとそれを見てきた。
「愛しい人を傷つけるのは、本意じゃないでしょうに。それでも望んだんですか、タイラント」
 いまはいない吟遊詩人にリオンは語りかける。フェリクスを最も愛し、そして最も苦しめた世界の歌い手に。
「わかる気は、しますけどね。忘れて欲しくない。ずっと覚えていて欲しい。わかる気は、しますよ。でも」
 癒えない傷をつけてまで。理解が及ばないことだと首を振りかけたリオンの動きが止まる。
「確かじゃないことに、賭けられなかったんですね、あなたは……」
 自分は、神官だ。いずれこの世界に再び魂が戻り、そしてカロルと会うことができる。そう確信を持って言える。
 タイラントは違う。次を、信じられなかった。あるかもしれない。ないかもしれない。自分に確かめようのないことだと、彼は考えていたのかもしれない。
「だからって、極端ですよ、あなた」
 そう言ってリオンは長い溜息をついた。自分の魂を破壊してまで、少しでも長くフェリクスの元にとどまろうなど。自分には取ることのできない手段だ、とリオンは思う。
「まぁ、私はあなたじゃないですし。あなたのしたことは理解しにくいですが、評価はしますよ。フェリクスが大事なんだなって、それだけは」
 それからリオンはくすりと笑った。自分がしていることの愚かしさにも似た一人語りに。対話ではない。シェリに話すのでもない。とっくに逝ってしまった、なくなってしまった彼の魂に向けて、語ることの愚かさと懐かしさ。
「あぁ、あなたの竪琴。もう一度聞きたいですねぇ」
 ぼんやりと仰向いてリオンは呟く。耳の中、過去の音楽を思い起こしながら。
 フェリクスは、客間に下がって現実の音を聞いていた。少なくとも、フェリクスにとっての現実を。アリルカの地で彼が作り上げた水の竪琴をシェリが奏でていた。
 ほろほろと水が滴る音がする。それだけではない、フェリクスには紛れもない音楽。そして耳は違うものも聞く。
「聞きたいと、思ってるわけじゃないんだけどね」
 独り言にシェリが顔を上げた。小さく首飾りが揺れる。それに首を振り、竜の長い首をそっと指先で撫でた。
 フェリクスは聞いていた。聞こえてしまった。現実より生々しい、彼の声を。心に宿るタイラントの歌声が、シェリの竪琴にあわせて、聞こえていた。




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