長い溜息を吐いたとき、シェリの心配そうな声が聞こえた。大丈夫だと言う気力もなくフェリクスは黙って手を振る。それにも強い疲労を覚えた。 彼の膝の上、長い杖が横たえられていた。立てればフェリクスの身長ほどにもなるだろう。真の銀の透明な輝きが神聖さすら感じさせる。 石突の部分から、途中で杖は二つに分かれた。それがねじりあいながら上に向かう。そしてそれぞれがまた二つに分かれる。螺旋を描き登り続ける杖のちょうど半ばよりも上の部分、四本の螺旋に囲まれるよう、磨き上げられた金剛石があたかも鳥篭の小鳥のよう煌く。そのまま視線を上に向ければ、螺旋は百合の花のよう花開いて旅を終える。花弁の中心にひっそりと収まるのは艶めく水晶。それがフェリクスが作り上げたものだった。 「あぁ……疲れた。鍛錬不足かな」 このような大きなものをこれほど短時間に作り上げたことはない。しかもこれはいまだ魔力付与をしていない、単なる杖だ。 「それを思うと頭痛がするよね」 リオンが戻る前に、少しでも疲労を取っておきたい。彼にこのような有様を見られるのは、絶対にいやだった。きゅう、とシェリが鳴く。 「大丈夫。平気だよ」 くるりと首を回した仕種がリオンのもののように感じられ、フェリクスは顔を顰めた。そうすることができただけ、疲れは取れつつある。 「大掛かりだよね。それでも、必要なものだしね」 シェリが本当か、と言わんばかりの非難の目を向けてきた。フェリクスはわずかに口許を緩め、杖を床に置く。空いた膝に竜を抱き上げた。 「アリルカを守りたいなんて、僕の柄じゃないけど。でもまぁ、言ってみればそんなところかな。だって、考えてもみなよ。僕が死んだあと、アリルカが崩壊するなんて、いやじゃない? 後味悪いよ、そんなの。できることだったら、しないとね。それに――」 少しだけ、言葉を切った。またもや心配そうな色違いの目。何度となく見た覚えがある。あのころは不思議さしか、感じなかった。自分はそれなりに優秀な魔術師で、魔法を習い始めたばかりの男に心配される理由などない。そう思っていた。それでも嬉しかった。いまは、喜びの名残だけが胸にある。 「あなただよ」 竜が長い首をかしげた。何を言っているのかわからない、そう言いたげな目にフェリクスは一度目を閉じる。ゆっくりと竜の額を撫でた。 「あなた、アリルカ好きじゃない? 結構気に入ってるでしょ。あなたの、歌だよね、あそこって。覚えてる?」 竜が鳴く。忘れるはずはない、聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。 かつてタイラントは歌った。異種族と交じり合って暮らすことができないはずがないと。異種族と人間の間に、なんの差があるのかと。共に喜び悲しむ地上の民。そう世界の歌い手は歌っていた。 一瞬だけ、人間はそれを信じる。彼の歌声が聞こえている間だけ、夢想する。楽園を。この世に顕現した理想郷を。 歌声が途切れたとき、夢は覚めた。それでもいいと彼は笑った。いつかどこかで俺の声が蘇る。歌がきっとどこかで芽吹く。 そう信じていた。世界の歌い手は。タイラントは。 「人間世界じゃなかったけど。でも、あなたが歌った夢が、あそこにあるじゃない。僕は、だからかな。やっぱり壊したくない」 いつの間にかきつく抱きしめていた竜は何も言わなかった。ただじっとフェリクスの胸にすがっている。 「ほんと、馬鹿だよね。やりたいこと、いっぱいあったでしょ? もっと歌いたかったよね。当たり前だよね。あなた、魔術師だったけど、でも吟遊詩人だもの。あなたが一番大事にしてたのは、歌じゃない」 不意に聞こえる竜の声。胸に鋭い痛みが走ってフェリクスは視線を下げる。シェリが鉤爪を立てていた。睨みあげてくる色違いの目に怒りを見て、我知らず動揺した。 「……違うか。ごめん。あなたが大事だったの、一番だったの。――僕だね」 自分の命より大事。言葉にすればこんなにも軽い。ただ彼は、実行した。自らの命でそれを証し立てた。たとえフェリクスが望まなくとも。 「僕は、あなたの歌、もっと聞きたかったよ。もっとずっと、聞いてたかったよ」 それを竜に言う残酷を、理解していないわけではない、フェリクスは。それでも口にしてしまった。後悔に似たものが心の奥をよぎって消えた。 「あなたの歌、大好きだったよ。あなたの歌が好きって言ったことなら何度でもあったよね。でも、あなたを好きって言ったこと、なかったね」 シェリがまた鳴く。先ほどのものとは違う哀切な声。わかっていたからいい、伝わっていたから充分。言葉にしなくとも竜の声が聞こえる。 「聞こえてる、つもりになってるだけかな。本当に僕はあなたの言葉が、心がわかってる? それとも僕は狂ってる? 色変わりの火蜥蜴を、あいつだと思い込んでるだけ? ちっちゃな火蜥蜴の声が聞こえてる気になってるだけ? 時々、怖いよ。僕は自分の正気を疑う」 最後は呟くような声だった。鋭い鳴き声がフェリクスの空想を破る。はっとして見やれば、再び竜の目が燃えている。 「また、怒った? あぁ……そうか。そうだったね。リオンが、あなただって言ったんだっけね。でもね、リオンが嘘ついてないって、僕にわかるのかな。僕に死を選ばせないためなら、あいつは嘘くらいつくよ」 竜の鉤爪が肌に傷をつける。ぎゅっと食いしばった牙の間から、呻き声が漏れた。フェリクスは淡々とその額を撫でていた。 「あなた、怒ってるの。あなたじゃないよ、信じられないのは。あなたがあいつだってことは、たぶん間違いないんだよ。それは理解してるんだよ、僕だって。僕が信じられないのは、たぶんね、僕なんだよ」 目の前で見た。この竜が形作られる瞬間を。タイラントが自らの魂を砕き、自分のそばに形見を残した瞬間を。 シェリはタイラント。理解はしている。納得が、できないのかもしれない。単に認めたくないのかもしれない。二度と、彼の魂がこの世界に戻ることがない事実を。 「未練たらしいね。僕はこんなにぐずぐず言う男だったかな。笑っちゃうね。ほんと、笑っちゃうよ」 きゅっと竜を抱きしめて、フェリクスは唇を吊り上げた。こんなときには笑うものだと、心は忘れても体が覚えていたとでも言うよう。それでも笑みにはならなかった。笑みに似て笑みではない表情の動きから竜は目をそらさない。 「うん。やっぱりあなた、あいつだね。今更だけど。わかってるんだけど。あいつだったらこんなとき、僕から目をそらしたりしない。うん……そうだったよね」 天井を見上げた。どこでもよかったのかもしれない。タイラントがそらさなかった視線。フェリクスはいつもそらした。思い出すだけで、やはりどこでもない場所を見たくなる。そのまま長い溜息をついた。 「さぁ、遊ぼうか。ねぇ、あなた。どれを選んだの?」 きょとんとした顔のまま竜がじっと見上げてきた。次いでにたりと歯をむく。笑ったのだろう。それもタイラントのしていた表情だと思えば、また目をそらしたくなる。強いてそのままフェリクスはシェリの背を撫でた。 「僕が仕事してる間、遊んでたでしょ。あれ。どれが気に入った?」 その言葉に竜の目がきらきら輝く。フェリクスはその目ばかりを見ていた。どんな宝石よりも美しい色違いの目。あまりにも陳腐で口にはしがたい。そう思ってしまう自分だからこそ、一度も彼を好きだと言えなかった。 宝石箱に歩いていく竜が、フェリクスの溜息に反応して振り返る。なんでもないと手を振って、フェリクスは自分でそちらににじり寄った。 「これ? ふうん、緑じゃないの?」 風の魔法が彼の属性。てっきり緑色の宝石を選ぶものだとばかり思っていた。フェリクスは一粒取り上げ光に透かす。 「綺麗だね。ラクルーサの氷河の青だ」 乳白色とも淡い青とも言い得る宝石は正に解けることのない氷の色。フェリクスの手の中で柔らかな輝きを放つ。 「他は、いいの? この色だけでいい?」 フェリクスが何をしようとしているのか竜にはわからないのだろう、首をかしげて彼を見る。その仕種に目許を緩ませてフェリクスは言った。 「あいつにはね、なんにも作ってあげなかったから。なんだかこのままだと死んでから後悔しそうじゃない。今だって後悔ばっかなのに、死んでも死に切れないなんて、いやだよ、僕は。だから、あなたに何か作ってあげることにしたの」 途端に竜が抗議の声を上げた。先ほどまで疑っていたのが嘘のよう、竜の言っていることがわかる。今の体調で物を作るなど無理だと叫んでいる。 「わかってるよ、そんなこと。だから、手仕事。僕が器用だって、忘れたの?」 言いつつフェリクスは片手を振った。今までなかったものがそこに出現する。小さな炉と、坩堝に小箱。非難の声が聞こえた。 「……こんなものは魔法のうちに入らないってば」 いまだ疲労は取れてはいないはずなのに、無茶苦茶をする。そうとでも言っているような竜にフェリクスはそっぽを向く。 「僕は、やりたいの。平気だから。ね?」 どこかを見たまま言うフェリクスの膝に竜が擦り寄ってきた。和解なのだろうか、それとも監視なのだろうか。無茶をするようだったら止める、見下ろした竜の目はそう言っていた。 「わかってるよ。心配しないで。リオンが戻ったときに倒れてるなんて無様、ごめんだよ、僕だって」 冗談じゃない、と言いたげに苛立った竜の叫びをフェリクスは煩わしがりはしなかった。黙ってその目の間を撫でている。いつになく和んだ目をしていた。 「さぁ、はじめるよ」 炉に火を入れ、坩堝に小箱から取り出した銀の塊を放り込む。膝の上によじ登ってきたシェリが首を伸ばして見ていた。 「僕の趣味に真の銀を使うわけにも行かないしね。まぁ、使っちゃったらそれはそれって許してもらえそうな気もするけど。甘えっぱなしもいやじゃない?」 誰に甘えるというのだろう、フェリクスは。最後の旅に出たメロールにかもしれない。死んだカロルにかもしれない。あるいは、リオン。 自らの思いにフェリクスは皮肉に口許を歪める。認めたくはなかったが、一面の真実でないとも言いがたい。 「ちょっと、暴れないで。これくらい大丈夫だってば。こんなもの、全部手作業でやったらどれだけ大変だと思ってるの。ちょっとくらい手抜きさせてよ」 そう言いながら全部を魔法で片付けるつもりではないか、疑わしげに見上げてくるシェリを抱き寄せフェリクスは竜にくちづけた。 |