湖が、きらきらと光を放っていた。静謐で、長閑で、あまりにもそぐわない。二人と一匹で黙って水面を眺めた。
「死を、望んではいないんだな」
 これだけは確かめておきたい。無理に生き続けるつらさを、闇エルフのファネルは知っている。知るからこそ、闇に堕ちた。
「……どうだろうね。死にたいかって言われれば、そうだねって言うよ、そりゃさ。でも僕はなにはともあれ、定命の身だ。いずれ、生まれ変わっちゃうかもしれない。わからないけど。そのとき、いつどこで生まれたって、僕は二度とあいつに会えない。だったら、いまここで欠片を抱いてるほうが、いいじゃない? それに……」
 淡々とした声のまま、フェリクスはシェリを膝の上で抱いていた。背を撫でる手がわずかに震える。励ますよう、竜が鳴いた。
「僕はずっと、自分の命は自分の物だって、思ってた。自分のものなんだから、最後には勝手にしていいじゃないって思ってた。どうしようもないくらいつらかったら、死んじゃうのも自分の選択だって。でもね、ファネル。僕はあいつに庇われた。僕の代わりにあいつが死んだ」
 竜の背の上で彼の手が握られた。シェリが気づいて首を伸ばしては彼の指先をそっと舐める。それに小さく息を吐いてフェリクスは続けた。
「僕の命は僕の物って、言い切れないじゃない、今は。これは――」
 片手を離し、フェリクスは己の胸に手をあてる。ファネルにはわからない。そこはタイラントの返り血を浴びた場所だった。
「僕の命だけど、あいつからもらったもの。あいつがくれた命なら、捨てちゃうわけには行かないでしょ。どっかで会えるって言うなら、なんの未練もないよ、すぐ行きたいよ。でも、僕らは二度と会えない」
 だから、死なない、そうフェリクスは言う。言葉にするうちに自らの覚悟となったのだろう。少しずつ顔が上がってきた。
「……つらいか?」
 無駄な問いだと、わかっていてあえてファネルはそう言った。シェリの咎める視線も気に留めず、ただフェリクスの横顔を見つめる。
「つらいよ。たぶんね。よくわからないよ。わかるくらいだったら、きっとこんな風になってない」
「それくらい、つらいと言うことだろうな。わからないでも、ない。そう言えばお前は怒るだろうが」
「わかってるなら、言わないでよ」
 シェリの背中を見つめたまま彼はそう言った。熱のない口調はいままでと変わりはない。それでも根本的に温度がない。それがファネルを恐怖させていた。
「生まれたことを、後悔している?」
「どうしたの、ファネル。質問ばっかだね。別に、いいけど。後悔? どうだろう。してないと思うよ。別に生きてても楽しいことばっかじゃないし、嫌なことのほうが多いくらい。でも、カロルが言ったよ、昔。つらいことばかりの人生だけど、生きてればたまにいいことがあるって。ほんと、そのとおりだよね」
「カロルと言うのは、お前の師だな。なんというか、私が言うのもおかしなものだが、お前にとっては父親のようなものなのか」
 神人の子に親と言う概念はない。彼らは父を知らず、自己の意識が明確になるころに母もないのが普通だと言う。だからこそファネルはそのようなことを言う。身近に半エルフのいたフェリクスは納得したよう少しうなずいた。
「そうだね、変だよ。……父親、ね。どうかな? そうでもあるし、そうでもない。まぁ、お父さんってあんな感じなのかなって思わなくはないけど、僕も父親ってのを知らないしね。……あぁ、もしかして、それが言いたいの?」
「それ?」
「僕が闇エルフの子だから。言ってみればあなたの同胞の子だから。生まれたことを後悔してるかって、そういうことじゃないの。僕は親って言っていいのかどうか知らないけど、父親を恨む気はないよ。母親もね」
「……そうか」
 答えたファネルの肩から、何かが抜けた。フェリクスは気づかなかった。彼にしては珍しいことだった。が、いまの状態を考えれば無理からぬことだったかもしれない。代わりにシェリが目敏くファネルを見る。
「なに、どうしたの?」
 膝の上の竜の仕種に目を留めて、フェリクスは結局ファネルに視線を移した。
「ファネル?」
「……闇エルフの子を、できるだけ手助けしたい。そう願っている」
「唐突だね。それがあなたの、戦争が終わったらしたいって言ってたこと?」
「まぁな。おかしいか」
「別に。……ねぇ、ちょっと聞くけど。答えたくなかったらいいけど。あなた、子供がいたりするの」
 少しだけ、フェリクスに興味が宿った。そのぶん生気が蘇った。ファネルより、シェリが喜ぶ。
「いたら悪いか」
「そんなこと言ってないじゃない。手元に置いたわけではなさそうだね?」
 闇エルフの性情を考えればそのようなはずはない。それでもフェリクスはそう言った。闇エルフは、心の内で死を望む。だからこそ残虐をなし、殺されようとする。人間の女と愛し合うことなど、できようはずがない。生まれた子がいるならば、その原因は容易に想像がつく。
「それができるくらいなら、堕ちてはいなかったということだろうよ」
「まぁそうだよね。でも珍しいね、子供がいるってはっきり知ってること自体が。珍しい。普通、できたかどうかも知らないんじゃない?」
「はっきり言うやつだな。自分の生まれでもあるだろうに」
 苦笑するファネルにフェリクスは肩をすくめて見せた。
「一般的なことに対して僕がどうこう言ったって仕方ないじゃない。生まれたものは生まれたもの。親を恨んでも世界を怨んでも虚しいってのを、僕は知ってるんだよ、もうね。知ってても、同じことの繰り返しだけど」
 積極的な諦念でもあるのだろう。が、それはわずかばかり希望を含んでいるような気がした。ファネルは彼の名を思う。おそらく師がつけたに違いないフェリクスと言う名。希望を持つことのできる幸福を意味する彼の名を。
「ファネルの子供って、幾つくらいなの。いるんだったらつれてきちゃえばいいじゃない、アリルカに」
「どれくらい前かな、生まれたのは――。百三十年ほど前だと思うんだが」
「……それって、もう生きてないと思うけど?」
 訝しげにフェリクスがファネルを見た。見つめ返して、苦笑した。それにフェリクスの目が細められる。
「……なるほどね」
「今更、名乗るつもりもないんだが、同じ境遇のお前には生まれてきたくなかったかどうか、聞きたくってな」
 フェリクスの目が段々と険悪になってくる。両手を掲げて言い訳をするファネルは少しだけ逃げたくなってきた。が、踏みとどまる。ラクルーサ軍に対してフェリクスがしたことを思えば逃げ出しても誰も責めなかったはずだが、彼は留まった。
「……僕は生まれてきたことを後悔は、してない。あいつに、逢えたからね。生きてるからあいつを失ったけど、生まれなかったら逢えなかった。だから、僕は生まれてよかったと、思ってる。……あなたの息子もそう思ってるんじゃないの」
「……息子だとは言ってないが」
「そうだね、僕の失言と言うことにしておいてあげるよ」
 鼻を鳴らしてフェリクスはそっぽを向いた。シェリが膝の上でくつくつと笑い声を立てている。あれほどそぐわなく見えた湖の風景が、いまはぴたりとした美しさだった。
「僕も、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「あなた、自分の子供、なんて呼んでた?」
 不意の問いにファネルは面食らう。まじまじと横顔を見れば問いの意味がわかった。
「真の名で、と言う意味か」
「そう。僕、自分の真の名、知らないんだよね。物心ついたときには売られてたし、売られた先でつけられた名前も、いまの名前も、ちょっとした悪口もあるけど、真の名だけは、知らない。好都合だって、思ってたよ。僕は魔術師だから。自分で知らない名前なら、誰に握られることもないでしょ」
 真の名を知られることは運命を操られることに等しい。まして魔術師ともなれば、敵に真の名を知られることは死と同義だ。
「……あいつを、僕の弟子にするときにね、だから聞いたんだ。その名前は通称なのかどうかって」
 庶民も、真の名は持ってはいる。が、普通はさほど隠しはしない。だからこそ自ら名乗っている場合もある。
「吟遊詩人の師匠についてしばらくしてからつけられた綽名だって、言ってた。そのとき、なに考えてるんだろうね、あいつ、馬鹿じゃないの。僕に真の名を教えた。普通、する?」
「それだけ――」
「言わなくっていいよ、僕だってわかってる。いいの、ちょっとほっといて。……そのとき、僕は答えられる名前がなかった」
 早くに売られたフェリクスは、自分の真の名を知る機会がなかった、と言う。そもそも名づけられたのかどうかも知らないと言う。惨い話だった。ファネルは彼に隠して拳を握った。
「あいつの名前、綺麗だったよ。本人、死んでるからいいよね。アルビレオって言う」
 死者ならば、これ以上運命は変わりようがない。ならば口にしてもかまわない。間違ってはいないが、他人相手にすることではなかった。
 ファネルはそれをどう理解したのか表情には出さない。代わりに視線を宙に投げ考える顔をした。しばしののち口を開く。
「金銀に輝く者、二様に美しい者。二面性?」
「あぁ、神人の言葉由来だからね。きっと元々の意味はそんなところだと思うよ。ぴったりだと思わない?」
 シェリの顎先に指をかけ、嫌がる素振りをした竜を無理やり仰け反らせた。牙を剥き、溜息をつき、竜は致し方ないとばかりファネルに目を向ける。色違いの金銀の目。
「ファルド」
 呼吸のような音だった。それが何を意味するのか、聞かなくともわかる、フェリクスはそんな気がする。絡まりあった視線に緊張したシェリが小さく鳴いた。
「なに?」
「ファルド、と言うのが最も近い音だろうな。孤高、自ら立つ。己の力で進む。そんなところだな」
 じっとファネルを見ていたフェリクスの唇から、息が漏れた。そっとシェリを抱き上げる。
「あいつには、教えてやれなかったけど、あなたが聞いたから、まぁいいことにしておこうか。ね? ところでファネル。あなた、どうしてこんな話しする気になったの」




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