アリルカ軍の完全勝利だった。勝つだろうとは思ってはいたが、これほどの勝利になるとは誰も予想しなかったほどの結果だった。 日頃、浮かれ騒ぐことのない神人の子らもどことなく楽しげでアリルカ国内は笑い声が絶えない。長い年月、虐げられ続けてきたその子らにいたっては、人生の中ではっきり笑い声を上げたのは初めてだと断言できるほどよく笑った。 そんな中、フェリクスだけが一人だった。みなが彼を宴に呼ぼうとする。彼も出席はする。そして少しばかり酒を飲んで、いつの間にかいなくなる。 民の中に困惑が広がる中、原因を知るものは少ない。フェリクスは呆けていた。怠惰に、一人でいることを好んだ。シェリだけを供として、議事堂のある湖の、人目につかない場所を選んでそこにいる。それがなぜか、理解しているものは少なかった。 「困りましたねぇ」 数少ない一人であるリオンが困り顔で頬をかく。その仕種には本気で困っている様子は窺われない。ちらりと横目でファネルを見やって笑った目も、そのとおりのことを語っていた。 「ちょっと様子、見に行きませんか」 様子を窺いに行ってもどうなるものではない、それをリオンは知っていた。だが、このまま放置はとてもできない。 「一つ聞くが」 「なんでしょう?」 「本当に、心配しているのか。それで?」 「いやだなぁ。心配してますとも。このままほっといたらフェリクス、死んじゃいそうで」 「おい」 「もうね、彼には目的がないんですよ」 むっとしたファネルを気にもせずリオンは足を進める。渋々ながらついていくファネルはその言葉に顔色を変えかけた。 「エラルダが言ったようにね、前王を殺させるんじゃなかったな、と思ってます。あの状況じゃ仕方ないですけど」 「王が生きていれば、フェリクスの苦悩はさらに深い」 「とは言え、生きる目的までなくしちゃ意味ないですよ」 タイラントを殺した王の首を獲る。それだけを生きがいにフェリクスはあの日まで生きてきた。復讐の虚しさを身をもって知るフェリクスは、果たしたあとの虚しさもまた知っている。 そう楽観していたのがこの結果だった。王の死後、フェリクスは一切の目的を失くしてしまった。そのままでは呼吸をするのすら面倒になるだろう。 「そんなことになったらカロルにあわせる顔がないですし、私」 茫洋と、とんでもないことを言うリオンにファネルは唇を噛みしめる。ではあのときどうするべきだったのか。 「フェリクスは……」 「はい」 「王を討たなければ、闇に堕ちただろう」 定命の子として生まれた彼が。それをリオンが理解していないとはとても思えない。そのほうがよかったとでも言うつもりか。ファネルの目許に険が表れた。 「それもそうなんですよねぇ。彼もあれで一応は定命の身ですし。それはそれで困るなと言うか。あんまりにも惨いなというか。ですから、あのときはあれでよかったんだと思うんです、私。でもこうなってみると、ちょっとなんとかしなきゃならないでしょう?」 「……なんとか、とは?」 リオンが言うとなんでもないようなことに聞こえる。問題が、生死にかかわるようなことだとは、とても。人間とは、そういうものなのだろうか。ファネルにはわからない。神人の子として生まれ、殺されない限り死ぬのことのないファネルには。 「ぶん殴るなりなんなりして正気に返ってもらわなきゃな、と言うことです。ほんと、自殺でもされた日にはカロルに何を言われることか。困りましたねぇ」 「……そう、軽く言ってくれるな」 「おや。失礼」 ファネルの重い声に何を見たか、リオンが笑みを深くした。ファネルはそこに何を読み取ることもしなかった。自分自身の中に沈み込んでいた、と言っていい。それをちらりと横目で窺ったリオンがどことなく面白そうな顔をした。 「あぁ、いましたね。やっぱり」 湖のほとり、ぼんやりとフェリクスが座り込んでいた。時折、手指を水に浸し、飛沫を跳ね上げる。それをシェリが翼で受けて華やかな声を上げていた。 「あれ、聞こえてるんですかね。彼は」 「なに?」 「シェリですよ。一生懸命、彼の気を惹こうとしてる。けっこう無理してますねぇ。昔からそうでしたけど」 「昔?」 なぜとなく、すぐには出て行きかねて気づけば覗き見の形になってしまっている。ばつが悪くてかなわないファネルは声を潜め、結果としてさらに罪悪感が募る。 「タイラントが生きてたころから、と言う意味ですよ。いつも彼はフェリクスの気を惹こうと頑張ってたんですけど、それがなぜかことごとく的を外しまくるんです」 「よくそれで――」 「付き合ってられたか、ですか? そうですねぇ。タイラントが何をしようとたぶん、フェリクスはどうでもよかったんですよ。それくらい彼のことが大切で、彼に泣かされようが傷つけられようが、彼のことだけが、好きだったんです」 「おい」 「タイラントも、ですよ」 にっとリオンが笑った。フェリクスだけではない、タイラントも彼のことを心の底から愛していたのだとリオンは言う。 「不器用、だったんでしょうね。二人とも。似た者同士ってやつです」 正にフェリクスは自身の半身を失った。魂の半分を奪われた。その彼の魂の欠片を手元において今、フェリクスは何を思うのだろうか。 「とりあえず、殴りにいきますか」 「ちょっと待て」 「なんです、ファネル?」 「……私が、行こう」 苦い声だった。それをリオンは微笑んで見ている。訝しげに彼を見やったファネルは長い溜息をつく羽目になった。 「実はそう言ってくれるんじゃないかなぁ、と思ってたんです。よかったよかった。もし怪我したら言ってくださいね。治療役は引き受けますから」 「……殺されないよう祈っててくれたほうがありがたいな」 肩を落としてファネルが足を進めた。本気で言っているのならば止めなくてはならないが、リオンにはそうは聞こえなかった。にっこり微笑んでリオンはさっさとその場を後にした。 背後からリオンの気配がなくなるのをファネルは感じていた。再び、溜息をつく。見捨てられたと言うより今後の展開を読まれている、そんな気がしてならない。 「……フェリクス」 すぐそばまで来た。声をかけた。呼んでも、反応がない。もう一度呼ぶか、と思ったとき、のろりと彼が顔を上げた。 「なに」 ぼんやりとした声に、ぞっとする。確かにリオンが言うとおりだろう。このまま放っておいては命にかかわる。ファネルが感じたことを切実に感じ取っているのはシェリのはずだった。真珠色の竜を見やれば、慌てふためいて尻尾を振っていた。 「シェリが、困っているようだが」 「そう?」 「フェリクス。単刀直入に聞こう。死にたいのか」 「って言ったら、どうするの」 「本気なら、手伝ってやってもいい」 リオンが聞けば、どう思うだろか。エラルダが聞けば卒倒するだろう。それを思ってファネルは内心で密やかに笑った。 「……また、闇に堕ちるようなことをするつもり。やめときなよ。僕は別に、どうでもいいんだ」 「見るに見かねた、と言うところだな。私のことならば、かまわん」 声音に、何を聞いたのだろう、フェリクスは。少しだけ目に色が戻った。傍らにいるシェリを膝の上に抱き上げて、彼はその背を撫でた。 「闇に堕ちたいとは、思えないけど? 何か、したいことがあるって言ってなかった、戦争が終わったら」 「言ったな」 「終わったら、話すとも言ってたよね、なんか、色々と。話す気があるの」 「そもそも聞く気があるのか? あるんだったら、話すが」 ファネルにとっては賭けだった。聞きたくない、興味がないと言われれば、話の接ぎ穂を失ってしまう。 救ったのは、シェリだった。膝の上からフェリクスを見上げ、いかにもわざとらしく色違いの目をきらきらとさせてフェリクスを見つめる。 「……聞きたいの、あなた。僕は、どうかな。なんだか、いろんなことがどうでもよくって」 ゆっくりと、フェリクスはシェリに向かって話しかけていた。そばにファネルがいることも忘れたよう、竜と会話するフェリクスに改めてファネルは危うさを見る。 それが会話ではない、とは言いきれなかった。フェリクスには竜が考えていることがある程度はわかるのだろう。 それでも独り言の延長にあるようなそれが、フェリクスの孤独をさらに深めていることは確かだとファネルは思う。 「やっぱり、殺すんじゃなかったかな」 「殺したかったのだろう? 死なせないほうが、楽だったか」 「どうなんだろうね。殺さなきゃ、とても僕は生きていけない。そう思ってた。じゃあ、いまはどうなんだって言われたら、ちょっと困る。生きる目的を失ったなんて、言うつもりはないよ。生きてるのなんか、偶然だ。僕もあなたもリオンも、誰もかも、この世に生まれたのなんか、ただの偶然じゃない。偶然なら、死ぬまで生きればいいんだ」 投げやりな言葉ではあった。が、その芯に信念がある。ファネルは一概に彼の言葉を否定できない自分に気づく。 「昔……ずいぶん前だね。カロルに言われたことがあるよ。生きて生きて生き抜いて、それから死ねって。なんとなく、そのときはわかった気がしたんだ」 「いまは?」 「わかってたら、こんなところで呆けてないと、思わない?」 その言葉が口から出る分、本気で自らの死をフェリクスは考えてはいない。ファネルは確信する。体中の力が抜けるほど、安堵した。 「どうしたの」 いまだぼんやりとした声。その中にわずかな興味をファネルは感じ取った。リオンが自分を選んだことをいまは考えないことにして、ファネルはフェリクスの横に腰を下ろした。 |