フェリクスの放った魔法が、廃王を貫き、その体を両断し、吹き飛ばす。ぱくりと口を開けたまま、王は何が起こったのかわからないうちに絶命した。
 上下に断ち割られた王の体に目を向けるものはいない。騎士たちが、ラクルーサ軍の兵士たちが恐ろしげに見ていたもの。それは、街の外壁だった。
 王を貫くに留まらず、フェリクスの魔法は外壁に突き当たる。強固この上もなし、そうラクルーサの国民が誇りにしていた外壁の前、白い冷気の霞が包んでいく。
 煙が晴れたとき、息を飲むことすら忘れた。凍り付いていた。何もかも一切が凍り付いていた。見渡す限りすべてが、フェリクスの魔法によって凍り付いていた。外壁も、その前の土地も。
「だから、言ったじゃない」
 フェリクスが片手を掲げた。冷気が、静まっていく。呆然と眺めていた騎士たちから、初めて悲鳴が上がった。
「僕に剣を向けるなら、勝てる算段をしろって、言ったじゃない」
 凍りついた城壁が、ぴしりぴしりと音を立てていた。氷に覆われた大地が、悶えるよう呻いていた。
「言ったじゃない。あの男は、僕を庇うんだって。僕が望んでなくったって、僕を庇うんだって」
 掲げられた手の元に、風が吹き寄せた。息を飲むアリルカの民の目の前で、風が形になる。はじめはフェリクスの冷気の固まりかと思った。それほど白い靄だった。それが次第に形を成していく。目を瞬いた時、それは真珠色の竜と化していた。
「あ――」
 シェリが、フェリクスの目の前で殺されてしまったのだと震えんばかりだったエラルダは声を上げた。呆然とリオンを見やれば、当たり前だと彼は驚いてもいない。
「一度死んでますからねぇ。もう一度殺すのはちょっと、難しいです」
 とんでもないことをリオンは飄々と言う。ようやくあれがタイラントの魂の欠片、そう表現される意味がわかった。
「人間なんて、こんなものだね……」
 己の元に帰ってきたシェリにフェリクスは頬を寄せた。竜の硬い肌。それなのにこれは実体とは言いがたい。不思議で、だがありがたかった。
「危ないじゃない。あなたは危なくないんだろうけど。でも、心配じゃない。心臓止まるかと思った。あなた、僕を殺したいの」
 腕の中に包み込み、フェリクスは竜に語りかける。決して離さない、体全体で語っていた。シェリはそんな彼の腕の中でもがきつつ彼を見上げる。精一杯に胸をそらし、けれど視線は落ち着かない。
「謝るつもりはないってこと? 別に謝れとは言ってない。心配したって、言ってるだけ」
 ようやくフェリクスの声に緩みが出た。死にはしない竜、とはいえども彼の心中はいかばかりだったことだろうか。
「人間ども」
 どれほどの思いを心に抱えていようとも、フェリクスが王国の人間相手にそのような蔑称を使ったのは、これがはじめてだった。それがわからないエヴァグリンではない。真っ白に青ざめた顔をしていた。
「まだ、やるの」
 剣を向けるならば相手になる。フェリクスは言う。その目が両断された王の死体に向いていた。ぽかんと口を開けたままの、死体。それが人間の遺体であると言う尊厳すら、なかった。
「不届き者のなしたこと。我らラクルーサ王国の意思ではありません」
「本当に? 僕ら異種族にいいようにされて、闇討ちでもなんでもしたいって思ったこと、ないの。その王がしたことに心の中で賛同した人、いないの。いるんだったら、前にでなよ。禍根はここですべて絶っておいたほうがいい。ただ、念のために言っておこうか。僕は一人であなたがたを全滅させることができる。白蹄城だけじゃない、王都アントラルを灰燼に帰すことさえ、楽なものだ。正直言って、まともな戦争するほうが、疲れるんだよ。あなたがたを皆殺しにしたほうが、よっぽど作業としては、楽。わかる? 張ったりじゃないよ。そう思っても、僕は一向にかまわないけど。それでも、やるの。さぁ、前にでな。相手はいくらでもしてやる」
 彼の言葉を疑った者はいないだろう。いま、騎士の多くは氷帝フェリクスと呼ばれた魔術師の本領をはじめて目にした。彼の背後にフェリクスと並び称される魔法の使い手、リオンがいる。半エルフが、闇エルフがずらりと並んでいる。
「フェリクス。どうか。私の意思として、決してあなたに、アリルカに剣を向けさせはしません。あなたが信じてくれるとは、思っていない。それでも、私が存命の間は、決してラクルーサとアリルカの間に戦端が開かれることはありません」
 必死のエヴァグリンに、騎士たちが感じ入った。次々に剣を大地に突き刺す。抗戦の意思を、武器を放棄した。
「それも、どうだかね……」
 いまだ険しい表情のフェリクスが、さらに言葉を重ねようとするその前に立った人影。ファネルだった。
「その辺にしておけ。多少は気が済んだか」
 これ以上は虐殺になりかねない。それを本心から望んでいるのか。言葉にしなかったファネルの問いに答えたのはシェリ。それを受け入れたフェリクスの唇から溜息が漏れた。
「……あんまり。殺しちゃったら、それまでだよ、確かに。エラルダの言うとおりだよね。気が済んだって、言うのかな。なんだかただ、虚しいだけだよ」
 そっと銀の竜の背を撫でた。何をしてもあの男は帰ってこない。復讐の無意味さなど、はじめからわかっている。それでも、もう少し心持ちが変わるかと、思わないでもなかった。否、それもわかっていた。人生、二度目の復讐。結果は、見なくとも知っていた。何もかも予想できていて、それでいて駆り立てられてしまった己を思う。きゅう、と竜が鳴いた。
「しばらくは、それでいいってこと? ずっとかもよ。僕の命が尽きるまで、こんな気持ちのままかもしれない。それも……いいか。もう、どうでもいいね――」
 静かな声だった。虚空に吸い込まれていくかの声。それがラクルーサの騎士たちに届く。エヴァグリンを支持した者たちだった。だからかもしれない。フェリクスの声を素直に聞いたのは。前王が世界の歌い手を暗殺した非を、知る者たちゆえに。
「帰ろうか。エラルダ。ここにいるのも、馬鹿らしいね。付き合ってくれて、ありがとう。あなたが必死で殺させまいとしてくれたのにね。結局、こんなことになったね。ごめんね、エラルダ」
 振り返ったフェリクスの目の焦点が、あっていなかった。エラルダはぞっとしてリオンを振り返る。厳しい顔つきの彼が踏み出す前、ファネルが動いた。
「……どうして」
 軽くではあった。いっそ撫でたと言ったほうが正しいほどだった。それでもファネルはフェリクスの頬を打っていた。
「毅然とするのだな。お前はなにはともあれ、勝った。復讐も、とりあえずは果たしたのだろう? すっきりするはずもないが、それもわかっていたことだろう? わかっていたことで落ち込むのは、お前らしいとは言いがたいのではないか」
「……知った風なこと、言ってくれるよ」
 むっとしたフェリクスの目に怒りが宿る。それでもエラルダはほっとした。ぼんやりとしたフェリクスなど、それこそ彼らしくなくて恐ろしい。あのままでは彼が今すぐ死を選んだとしても不思議ではなかった。それを止めたファネルを感嘆とともにエラルダは見ていた。
「フェリクス――」
 背を向けた彼に、エヴァグリンが恐る恐る声をかけた。よけいなことを言えば、殺されるかもしれない。が、このままにしておくこともできない。決死の覚悟が伝わったのだろうか。フェリクスは黙って振り返っただけだった。
「前王の……父の遺体を葬っても、いいでしょうか。王家の墓所に入れることはしません、ですが――」
「勝手にしなよ。死体に興味はないよ。そこにあるのは、ただの死体だ。死体をどうしようがそちらの勝手。僕に言うことはない」
「……はい」
「忠告、しておいてあげる。収容するなら、二三日待ってからにするんだね」
「え?」
「完全に凍ってるから。触ると怪我するよ」
 言われてはじめてエヴァグリンは気づいた。父の体から、一滴の血も流れていないことに。遺体の顔が青ざめて見えるのは、失血のせいだとばかり思っていた。事実は違う。肌の上、氷が張っていた。
「……わかりました」
 惨いことをする、と非難できるはずだった。ここまでする必要があったのか、そう言うこともできたはずだった。が、エヴァグリンはそうはしなかった。不意打ちでフェリクスを討とうとしたのは、彼女の父だった。慙愧の念が彼女の口をつぐませた。
「それと、星花宮のことですが……」
 その中にいまだ安置されているはずのもう一つの遺体。はっきり口にしかねてエヴァグリンは言葉を濁す。それでもフェリクスの周囲から温度が失われた気がした。
「……死体に興味はないって、言ってるじゃないか」
 それだけを言い捨てて、フェリクスは歩いていく。非難がましい顔をした闇エルフがともに去っていった。
「エヴァグリン女王。世界の歌い手のことですけどね」
 ちらり、リオンが背後を振り返る。フェリクスは群衆の中に消えた。ほっと息をついて、そんな自分に苦笑した。
「いずれ時を見て、私が彼の葬儀をします。世界の歌い手と呼ばれた偉大な吟遊詩人でしたから。吟遊詩人の敬意を受けるエイシャ女神の神官として、私が司式します。ですから、それまでそっとしておいてください」
「お連れに、なりますか」
「アリルカに? まさか。そんなことしたらフェリクスに殺されちゃいます、私。どこに眠ってても、いいんですよ、彼にとっては。どこでも、一緒なんです。死んでしまったと言う意味において。ですから、これは私の自己満足に過ぎません。神官として、葬儀もなしに放っておくのは、ちょっとねぇ」
 半ば溜息交じりのリオンの言葉にエヴァグリンはうなずくことしかできなかった。フェリクスの思いも、リオンの感情もが理解できない。
「……メロール・カロリナは」
「改葬するか、ですか? しませんよ。あの人はあの人が愛したラクルーサで眠ればいいんです。あなたがたへの、戒めにもなるでしょうね」
 魔術師や、異種族を排したとき何が起こったのか。穏やかなリオンの声音だった。けれど告げていることはこの上もなく厳しい。
「そう、します」
 ひどく子供に返った気がした、エヴァグリンは。突如として王冠の重責を感じる。自分もいずれ父のような見苦しい真似をするようになるのか。
「いい女王になってくださいね。ごきげんよう、エヴァ」
 内心を見透かしたようなリオンの声だった。それでも彼はエヴァ、と呼んだ。かつて幼いころにそう呼んでくれたように。そしてそう呼んでは子守唄を聞かせ、お話をしてくれた吟遊詩人はもういない。
 決別だった、エヴァグリンの。それが何を意味するのかは、いまだ彼女にもわからない。子供時代への、であったのかもしれない。あるいは別の何かだったのかもしれない。粗衣を風になぶらせアリルカの軍勢を見送る彼女は、ずっと長いことその場に佇んでいた。




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