その目にぞっとしなかったわけではない。この期に及んで、この場所でアリルカの内訌を衆目にさらすわけにはいかない。そう考えたのではない。エラルダはただ、フェリクスを止めたかった。 「あなたにも、誇りがあるでしょう!」 彼ほど誇り高い人をエラルダは知らない。地に這った情けない王を、王位の簒奪を許した廃王を、今更殺して何になる。 「あるよ。でも、それとこれとは関係ない」 「フェリクス。その男を殺して、何になりますか」 「僕の気が済む」 ひくりとも動かない切先にさらされた王は脂汗を流し無様に視線を泳がせていた。声すら上げられない。 「……殺して、いいんですか」 「どういうこと。そのためにここまできたんだけど」 「殺すより、気が済むことがありませんか」 ゆっくりと、フェリクスが首だけを振り向けた。エラルダは目をそらしたくなる。後に下がりたくなる。いまほどフェリクスを恐ろしいと思ったことはない。 「その男を殺してしまえば、それで終りでしょう? 人間は、あっさりと死んでしまう。どれほど苦しめたくとも、すぐに死んでしまう脆い体だ。殺して、いいのですか。フェリクス」 惨いことを言っている、その自覚はある。自分がそのような提案をするとは、思ってみたこともない。それでもフェリクスを止められるならば、どれほどの無残でも為そう。それがいまのエラルダの思いだった。 それを感じ取ることのできないフェリクスではない。普段の彼ならば。 だがいまは。タイラントを殺した男を眼前に据え、今にもその命を奪おうとしている。フェリクスに宿る狂気が、エラルダを拒む。 不意に、涼しい風が吹いた。フェリクスの喉が喘ぎ声を漏らし、そして自らの声だと、あとから知った。 「どうしたの……」 肩に止まった真珠色の竜。色違いの目が、神人の子を見ている。エラルダ。竜の視線につられるよう、必死になった彼を見れば、ようやく気づく。 「なに、泣いてるの。あなた」 神人の子の白い頬に涙が流れていた。自分を止めようと、この手を汚させまいと。同胞の思いに、思わず切先が揺れた。 「生かしてやればいい。フェリクス。終生、王位を簒奪された男、ラクルーサを荒廃させた愚か者と罵られればいい。世界の歌い手を自らの欲望のために暗殺した卑怯者と嘲られればいい。そのほうが、ずっと楽しいでしょう、フェリクス!」 「……別に、楽しくないよ。殺すのだって、楽しんではいない。ただ……我慢できないだけ。どうして。ねぇ。どうしてなの。どうして僕が我慢しなきゃいけないの。僕ら異種族は、人間の横暴に、どこまで耐えなきゃいけないの」 「だからこそ! 殺してはいけない。我々は、アリルカの民でしょう。私も、あなたも! こんな人間にかかずらって、あなたが自分の魂を汚すことはない!」 自分で何を言っているのかわからなくなりそうだったエラルダの心にふと蘇る言葉。 「アリルカは、人間にかかわりたくない」 ぽつり、エラルダは呟いた。フェリクスの言葉を繰り返しただけ。それでも何かが胸に宿る。きっと顔を上げて彼を見た。フェリクスだけではなく、エヴァグリンを、廃された王を。騎士たちを、神官を。振り返って民をも見た。 「我々は、人間にかわりたくない。けれど、我々は、侵されない」 呟きがはっきりとしたものになった。エラルダは拳を突き上げ天を突く。 「我々は、侵さず、侵されない」 凛、とエラルダの声が響いた。フェリクスの剣が、緩みを見せる。不意に声が大きくなる。エラルダだけではなく、背後に残した民のすべてが声を上げていた。 「我々は侵さない」 「我々は侵されない」 「我々は侵さず侵されない」 フェリクスに聞かせるだけの声ではなくなっていた。王国の人間に向けた、怒号。自分たちが迫害されたからと言って、同じことはしない。人間と同じ場所に堕すことは決してしない。これ以上ない痛撃だった。 「我々は、侵さず侵されない。我々は――」 繰り返し繰り返し。ただそれだけを繰り返す。すっとフェリクスが片手を上げた。いまだ剣は王に突きつけたままではあったけれど。 「……僕はあなたがたを、誇りに思う」 前を向いたまま、王を憎しみの目で見据えたまま。ぎゅっとフェリクスは唇を噛んだ。アリルカの民の声が、静まった。そこに響き渡る竜の声。 「これで、いいの? あなたを殺した王を、殺したい。その気持ちは強い。とても。でも、僕は」 わかっているからそれ以上言わなくていい。そう言うようシェリは彼の頬に頭を擦り付ける。硬い竜の肌。それでも彼を思い出させた。 「フェリクス……」 エヴァグリンの戸惑いに満ちた声。彼がなぜ剣を止めたのか、彼女は、人間は一生理解することはないだろう。 「剣を、引こう」 無念そうに、フェリクスが柄を離した。氷の剣は、それだけで大気の中に溶けていく。一命を取り留めたらしい王の喘鳴が、酷く愚かしく聞こえた。 「エラルダ」 「はい」 「彼女を、アリルカとして新たなラクルーサ王と認めるの」 「え? あ、はい。別に、誰が国王でもアリルカには関係ないですから」 きょとんと目を丸くしてエラルダが言うのは、間違いなくフェリクスの平静さがもたらした虚脱からだった。 「そう。エヴァグリン女王。あなたはラクルーサ国王として、アリルカをどうするつもりなの。僕は、ラクルーサの反逆者らしいね」 剣を引いたフェリクスの意を汲んで、マルサドの神官が廃王の襟首を掴む。金切り声を上げて抵抗する彼に一瞥も与えず、拘束した。 「反逆者? なんのことですか。そのような事実はありません。また、ラクルーサはアリルカ共和国に友好を求めこそすれ、剣を向けることはありません」 「友好? 冗談じゃない。僕の話を聞いてなかったの、あなた。アリルカは、静かにしてたいんだ。陽だまりの猫みたいに、のんびりしてたいだけなんだ。ただ、自分たちが生きる場所が、人間に殺されないで済む場所が欲しいだけなんだ。僕たちに、かかわらないで。そっとしておいて。友好なんて、とんでもない。ほうっていて。それで、いいよね、エラルダ?」 「もちろんです。我々は王国の人間と親しくしたいとは思いません。……人間の中には、信に足る者もいます。私はそれを知ってはいます。が、すべての人間を信用することは、とてもできません。エヴァグリン女王。我々に、かまわないでいただきたい。王国が、我々にかかわろうとするならば、いつでも受けて立ちます」 ちらり、エラルダは視線を動かした。きっといたたまれない思いをしているに違いないデイジーを探す。視界の端で片手を上げた彼はにやりと笑って気にしていない、そう言っていた。 「エヴァグリン女王。僕らに挑む気ならね、勝てる算段をしてからきてよ。見なよ、馬鹿じゃないの。魔術師を排除して、異種族を排斥して、人間だけで軍旅を起こした結果がこれだ。僕はこれで大量虐殺は趣味じゃないんだ。勝てない戦いならば、しないで」 「剣は向けない、そう言ったはずです」 「さてね。僕は人間の言葉なんか信じない。あなたがた王国の人間が、いつ剣をとるか楽しみにしてるくらいだ。だから、王の、前王の、と言い換えたほうがいいね。その男がどうなるのかも、聞かない。どうせ僕らがいなくなったら、ちやほやするんだろう?」 「しません。いつ見にきていただいてもかまわない。父は……この男は、あまりにも国民を殺しすぎました。あなたの言うよう、勝てる見込みのない戦いに民の命を散らしすぎました。北の塔に入れるくらいでは生温い。そう思っています。それでは民が納得しない。違いますか」 「僕は王国の事情なんか、知らないよ。勝手にしなよ。もう……どうでもいいよ。馬鹿馬鹿しいね。とても、馬鹿馬鹿しいね。こんな男に、世界の歌い手は、殺されたんだ。それを思うと、とても、馬鹿馬鹿しい」 肩のシェリに手を伸ばす。きゅうと甘えた声を上げ、竜は降りてきた。腕の中に抱きかかえ、フェリクスはまるで竜に囁いているようだった。一つ大きな溜息をつく。 「エヴァグリン女王。あなたの口からミルテシアにもアリルカの意思を伝えてもらいたい」 「もちろんです。盟約を、いたしませんか。三国で」 「しても無駄だと思うけどね。どうせあなたがたは約束なんか破るんだから。それでも一世代くらいは持つかな。どうする、エラルダ」 「約束が破られることは自明のことです。が、多少の効果はあるのでは?」 まったく信用していない、それを露にする二人にエヴァグリンは唇を噛む。悔しい思いはもちろんあった。そっとリオンを見る。人間の彼は、二人の言こそ正しいと笑顔で聞いていた。同族ですら、そう思うものか。エヴァグリンは小さな拳を握り締めた。信用されるはずがない。今すぐ叶うことではない。が、いつか。 「これより帰還する!」 すべてはあとのことだった。まずはミルテシアと会談を持たなければならない。エヴァグリンの前途は多難だった。歓声を上げて引き上げていく異種族の民。不思議と種族の差異から来る恐怖は感じなかった。 「――誰が許すか!」 歓声に、叫び声が紛れていた。咄嗟にフェリクスが振り返る。そのときには、遅かった。廃王の手から放たれた剣が飛んでくる。力の限りに投げられたそれが、フェリクスに迫った。 「フェリクス!」 ファネルが遅れた。常に傍らにあったというのに、このときになって、フェリクスの盾になることができない。恐怖に青ざめた。 悲鳴。それは誰のものだったのだろうか。フェリクスの喉から絞られたものではなかった。彼だけは、違った。 「シェリ!」 ファネルは呆然と竜を呼ぶ。エラルダは声すら上げられず竜を見ていた。その身をもってフェリクスを庇った竜を。消えていった竜を。そこにいたはず。それなのに、シェリは霧散していた。剣に貫かれ、淡い風になったかのように。剣が落ちた重たい音。奇妙に遠くまで響いた。 冷風が、吹いた。はっと気づいたのはリオンが最初だった。フェリクスが黙って佇んでいる。その唇の中、声はなかった。それでも。 「どけ、よけろ!」 リオンの絶叫。機敏に動いたマルサドの神官が、女王を庇い、廃王の背後にいた騎士を引き倒す。そのときだった。大地が揺れたかと錯覚するほどの轟音。 |