ゆっくりと神官が馬を進めてくる。フェリクスは黙って待っていた。ちらりと神官の視線が動く。その目は地を這う王を見ていた。 「お逃げになったか……」 王たる者が背中に傷を受けた。卑怯な騙まし討ちによる傷でないことはその目で見ている。神官の目に浮かんだものは憐憫ではなった。 「敵将フェリクス――」 「その前に。国王を許せと言う言葉ならば、僕には聞こえない」 すらりと剣を振った。氷の剣が日に輝く。その剣身に血の流れを見た者はいただろうか。鋭い声を上げてシェリが鳴いた。 「それは、王がお決めになる。対話の用意があるか。返答はいかに」 いかにもマルサド神の神官らしい言葉だった。否と言うならばこの場で己が戦うことも辞さない。気迫にフェリクスは剣を収める。 「聞こうか」 ゆっくりと片手を上げた。応えてシェリが肩に降りてくる。同じように応えた者がいた。 「ともに聞かせてもらおう」 フェリクスがなにを言おうが聞く耳持たない、とファネルが敢然と傍らに立つ。フェリクスは拒まなかった。 「私もご一緒しましょう」 リオンが馬を進めてきた。互いに下馬したのは今すぐ敵対する意思がないとの表明だろう。フェリクスがまた片手を上げた。 「エラルダ。あなたは出てこないで。王国の人間に信を置いてはいけない。たとえそれが神官だろうとも」 「卑怯な不意打ちを許す私だと思ってか!」 「神官殿。軍使殿。どちらでもいいけどね。あなたが何をしなくても、あなたの後ろにいる人たちは? そこの国王は? 僕はアリルカの民を危険にさらしたくない。僕は同胞を殺させたくない」 フェリクスはいま、はっきりと同胞、と言った。いままでは同じ闇エルフの子だけを同胞と言っていた彼が。その声が胸に迫ってきたエラルダは、黙ってうなずく。前だけを見つめ続けるフェリクスに見えるとは思わなかったけれど、それで彼には充分伝わる、そう感じていた。 むつりとした神官がうなずく。彼もまた、危険は感じているのだろう。納得しかねる、そんな顔もしていたけれど唇を噛みしめてこらえるにとどめた。 「国王陛下より、お言葉がある」 神官の声に傲然と顔を上げた国王に、彼は一瞥を向ける。いまだ大地を這う己の姿に気づいたのか、怒りに顔を青ざめさせた王が立ち上がる。 立ち上がろうと、した。それをとどめたのは、神官の剣だった。 「なにをする!」 かっとして神官に掴みかかる王を鞘に収めたままの剣で神官は払い落とした。そして再び大地に腰を落とした国王の腹を剣で押さえつけて動きを封じる。 「軍使殿? どういうことかご説明いただけるとありがたいんですけどねぇ」 この期に及んで茫洋としたリオンの声。神官は彼の中にある何を見たのだろうか。少しばかり引きつった顔をしてうなずき、それから振り返った。 神官の視線を受け、門から出てきた騎士たちが割れた。リオンが驚きの声を漏らす。フェリクスすらも例外ではなかった。 馬に乗った人がいた。静かに進めてくるその姿は異様なもの。粗衣をまとい、髪は無残に短く刈り取られている。紛れもない罪人の、それも死刑に処される寸前の姿。 「エヴァグリン姫?」 まさか、とリオンの目が言っていた。確かに彼女だった。ファネルはゆっくりと体を動かし、フェリクスを庇う位置に立つ。彼女のしたことを忘れてはいなかった。 「ファネル。邪魔。いいからどいて」 が、好意は無にされる。フェリクスは何を考えているのだろう。じっとその目を見れば吸い込まれそうだった。虚無に。 「新たに登極された我が女王。エヴァグリン女王である」 悲鳴がした。絶叫だったのかもしれない。大地から聞こえるそれにちらりとリオンとフェリクスが目を移す。 「なにを言っている! あれは反逆者の一味。女王だと! ここに正当な王がいると言うのに、戯けたことを!」 声を上げれば上げるだけ、卑小さが際立った。フェリクスは無言で佇んでいる。その内心を思えばいたたまれなくなるリオンだった。このような王に、タイラントを殺されたのかと思えば、言葉を失くすしかない。 「女王陛下は、国民の意思を受け王座に上られた。民はみな戦いに倦んでいる。非はどちらにあったか。そもそもは」 「それを、ラクルーサ国民の口から聞くとは、思わなかったよ」 「人間にも信ずるに足る者はいる」 「さぁ。それはどうかな。本当にそう思っているのかどうか、僕にはわからない。人間は、意味もなく殺し合いをするもの。理由もなく僕らを殺そうとするもの」 淡々としたフェリクスに神官は返す言葉をなくした。このままでは話し合いにすらならない。そう感じた彼はエヴァグリンを振り返る。 「フェリクス……いえ、敵将フェリクス」 王家の臣であった、かつては。いまはアリルカのフェリクスである。短い言葉の中に彼女はそれをこめた。フェリスが黙ったままうなずく。 「もう、充分戦ったのではないでしょうか。ラクルーサは、疲弊しています。これ以上は、戦えない。たとえ戦いたいとしても。そのようなことは望みませんが」 エヴァグリンは、おそらくアリルカより帰還してすぐさま北の塔に入れられたのだろう。処刑を待つ日々の中、姫に心を寄せる国民が刻一刻と増えていった。その末の王冠奪取だったのだろう。目の中に深い苦悩があった。 「充分? それは、何に対して充分なの。世界の歌い手が殺されたことに対して?」 「復讐はなにを呼ぶのでしょうか。殺し合いは、明日を呼びません」 「エヴァグリン。あなたがたった一人心を傾けた伴侶を殺された後に同じことを言ったら、僕はあなたを心から敬おう」 聞く耳は持たない。復讐に限度などない。少なくとも、他者から決められる限度などない、フェリクスはそう言う。 「あなたは、何を望むのでしょうか。この国を荒廃させることでしょうか。罪科のない国民の最後の一人まで、殺し尽くすつもりでしょうか」 「できるならそうしたいね。アルハイド大陸を破壊してしまいたい。こんな世の中、壊れてしまえばいい。……長い人生だよ、定命の身としてはね。それでも同じことを二度も言う羽目になるとはね」 嘲笑めいた声だった。エヴァグリンを笑ったのではなく、フェリクスは己を嘲っていた。 「……ただ、それをやると僕の同胞が困る。だから、破壊はそこそこにしたい。全部ではなくてね」 「ならば――」 「僕の望みは何か、あなたはそう問うた。決まってる。国王の首一つ。僕はラクルーサ王を殺したい。アリルカの望みとは別に」 「国王の首……。それは。もう、ここまで無残なのです。あなたが手にかける必要が――」 「必要は僕が認める。僕が復讐したい。それが理由だ」 「あなたの手が汚れるだけでしょう。それを世界の歌い手が望みますか」 「望むに決まってるじゃない。僕がしたいことをさせない男だとでも? 僕の気が少しでも晴れるなら、惨殺しようがなぶり殺しにしようが文句を言う男じゃないね」 「フェリクス……どうか」 「ねぇ。エヴァグリン。聞きたいことがある。あなたは僕に我慢しろと言う。手を引けと言う。どうして? あなたがた王国の人間は、僕ら異種族を好きなように殺すのに、どうして僕は正当な復讐を我慢しなくちゃいけないの。人間様はそれほど偉いの。そう思ってるの。僕らに壊滅させられたくらい弱いのに?」 「貴賎の問題ではありません!」 「だったら、理由は? 僕を納得させられるだけの理由を言いなよ。国王のことだけじゃない。アリルカが立った理由を教えてあげよう。アリルカは、あなたがた人間に迫害されるのも我慢の限界だった、気づいたんだ。わかる? 何もしていない、ただ船に乗り合わせただけの僕の同胞を、異種族だからって殺したのは人間だ。異種族だから、何をしてもいいと思ってる。搾取して、虐げて。挙句に殺してもなんの呵責も覚えない。それが人間だ」 「……その話は、聞いています。それだけではないことも、理解しています。今後、二度と再び同じことが起こらないよう努めます。謝罪もしましょう」 「今更詫びなんか、聞けない。たとえ王が詫びようともね、エヴァグリン。僕は許さない。許すだけの理由がない。それにね、詫びるくらいだったら、はじめからしなければいいんだ。それが、何かを為すときの覚悟って言うものじゃないの。責任取る気もないくせに、世界の歌い手を殺した。責任取る気もないくせに、僕の同胞を遊び半分で殺していった。人間に信を置く? 無理だね。僕は国王の首が欲しいだけだ。アリルカは、ただ静かに暮らしたいだけだ。人間にかかわりたくない。殺されたくない。ただ、それだけだ。どうしてその程度のことをこんなに必死に願わなきゃならないの。人間がいるからじゃないの」 激高するわけではない。静かに語られる言葉だけに誰の心にも重く響いた。静まり返った中、フェリクスは再び剣を取る。目は退位させられた国王を見ていた。 「フェリクス――」 咄嗟に走り出てきたエラルダが、彼を止めようとする。エヴァグリンを信じたのではない。が、彼女の言うことに理を認めなかったわけでもない。たった一つ、言葉に正当性を見た。彼の手を汚したくない。 「よせ、エラルダ」 「けれど、ファネル!」 「フェリクスの好きなようにさせろ。強すぎる哀しみは、混沌を呼ぶ。私はフェリクスを堕としたくない」 はっとして伸ばした手を引いた。闇エルフの子が、定命の身でありながら闇に堕ちるなど、あまりにも痛ましすぎる。ファネルを見つめるエラルダの目に薄く涙が張った。ぼやけた視界の向こう側、剣が輝く。それでも。それだからこそ。 「フェリクス。いけない。殺してはいけない!」 叫び声に一瞬彼の剣先が動いた。ただ、それだけ。 「邪魔するなら、あなたから殺すよ、エラルダ」 同胞に向ける言葉ではない。ファネルの言葉通り、彼の強すぎる悲哀がフェリクスにそのようなことを言わせる。エラルダはそれを感じるからこそ聞き流す。 「フェリクス……」 どう何を言えば彼を思いとどまらせることができるのだろうか。ファネルを見ても彼は答えないだろう。邪魔をするならば、自分がエラルダを手にかける。そう彼の目は言っていた。 |