戦意を喪失したラクルーサ軍の残党がじりじりと一塊になっていく。それをアリルカも阻まない。間をおいて対峙する両軍の向こう側、開門を叫ぶ声だけがする。静かだった。
「リオン――」
 傍らにやってきたリオンに視線を向けたエラルダは唇を引き結んでいた。この後どうすればいいのかが、わからない。が、リオンはそんな彼の表情に気づいた風もなく厳しい顔をして門を見ている。
 門を、ではなかったのかもしれない。王を見つめているフェリクスを見ていたのかもしれない。それは短い時間だった。
「あ――」
 エラルダが声を上げた。フェリクスの馬が、動いた。一人で、否、ファネルだけを後に従えて彼は国王に向かって突進した。
「フェリクス!」
 エラルダの声は届かなかった。フェリクスはひたすらに前だけを見ている。ラクルーサ国王の姿だけを見ている。
 その手にきらきらと氷の剣が輝いた。肩に止まった真珠色の竜と相まって、酷く幻想的なその形。国王が、振り返る。
「ラクルーサ王――!」
 声音で人が殺せるならば。フェリクスの声には紛れもない殺気。ここにいろ、と言われたにもかかわらずついてきたファネルは背筋の震えが隠せない。
「ひっ」
 王の近臣が小さく悲鳴を上げた。おろおろと剣を構える。無様だった。国王の近くまで戦闘が及ぶはずがない、そう侮りきって出陣したのだろう。あるいは剣など握ったこともなかったのかもしれない。
 ちらりと彼らを横目で見た騎士たちが、顔を引き締めてフェリクスに向かう。その場を動かず、剣を構えた。
「邪魔だよ」
 剣の一振り。魔術師の一閃。それなのに、防げなかった。魔法ではない。純粋な剣の技術であったと言うのに。
「どけ」
 静かな声に、かえって騎士は闘志を露にした。が、フェリクスはいかにも邪魔だと言わんばかりの目をする。
 このままではフェリクスが嫌う殺戮をすることになる。思ったときにはすでにファネルは自分が動いていることを知った。
 剣風が立つ。鋭い切っ先が騎士たちを次々に襲っていく。その間にもいまだ近臣は開門を叫んでいる。門は静まり返って動かない。
「やっと、だね。国王陛下」
 すらりとフェリクスが剣を薙いだ。眼前にいるのは、すでに王のみ。近臣があわててその前に立ちはだかるのを一瞥で黙らせた。
「どかないと、殺すよ。死にたい?」
 果敢にも一人が王の前に立つ。その足が震えていた。
「よく見るがいい、ラクルーサ王。あなたの身代わりになって死のうとする臣下は一人だけだ」
 その一人を排除しようとするファネルを、フェリクスは手で制した。ゆっくりと馬を進めた。肩の上、シェリが鳴く。
「忠臣だね。でも、邪魔だよ」
 淡々と告げ、フェリクスは軽く剣を払った。咄嗟のことだった。避けるつもりなどなかったはずだ。それでも臣下の体は動いてしまった。背後に隠したはずの王を露にして。
「死にたい?」
 剣の腹で相手を馬から叩き落す。見下ろしたフェリクスの顔は、逆光になって見えなかった。
「無様だね、国王」
 いつの間にか飛び立ったシェリが国王の邪魔をしていた。臣下を見殺しにして自分ひとり逃げようとするラクルーサ王の周囲を飛び回り、決して逃がさない。
「おいで」
 あとは自分がする、と腕を差し伸べた彼の肩に、シェリは戻らなかった。色違いの目が、国王を見ている。
「そうか、あなたにとっても仇だものね。自分を殺した相手だものね」
 好きなようにすればいい、とフェリクスは腕を引く。騎士たちを排除し終わったファネルが傍らにやってきた。
「邪魔、しないでよ」
「誰がだ?」
 そのような言い方でファネルは同意する。フェリクスはゆっくりと肩から力を抜いた。
「ラクルーサ王アレクサンダー」
 静かに馬を進めた。青黒い顔をした王は、己が恐怖を感じている、と気づいていないのだろうか。今更ようやく剣を抜く。
「あなたのすべてを剥ぎ取る。僕はそう言ったね」
 フェリクスがまた一歩、馬を近づけた。着実にやってくる死のような足取り。彼のそばを飛ぶ銀の竜が日差しに輝く。
「いまだなにも失ってはいない!」
 甲高い声だった。震えを隠そうとすれば、そうなる。それでも王は自身の恐れを決して認めない。
「ここで貴様を殺せば――」
「できるの。国王陛下。僕がいままであなたを殺せなかったとでも、思ってるの。愚かな。僕は魔術師だ。あなたが嫌いぬいた魔術師だ。僕らはあなたの寝所に密かに転移して、あなたを暗殺して誰にも見咎められないうちに脱出するくらい、造作もない。なぜしなかったか? 僕は、あなたと同じことは決してしない。あなたは世界の歌い手を暗殺した。ならば僕は正々堂々あなたを戦場で殺してやる。あなたは世界の歌い手を殺した。愚かしい自尊心から、魔術師を嫌った、ただそれだけで」
 フェリクスは感じていた。門の向こう側、人々の息遣いがあるのを。息を殺して国王軍とアリルカ軍の対峙を見ているのを。この会話を、聞いているのを。
「魔術師は、確かにあまり好かれてはいない。それならそれでかまわない。僕らはたいして気に留めない。が、どうだろう。世界の歌い手は? 彼は、とても愛されていた。誰からも愛されていた。それほどいいやつじゃなかったけどね。僕は一人の男としての彼を知っているから、そう思うのかもしれないけれど」
 竜が、鳴いた。似ても似つかない声。それでもフェリクスは彼の声を聞いた気がした。
「あなたは、世界の歌い手を殺した。あの男があなたになにをした?」
「貴様を葬ろうとしただけだ! 世界の歌い手を……」
「愚かだね。実に愚かだ」
 攻撃する気のないフェリクスの剣。王の剣に当たって弾かれる。威嚇にもならない。それでも王は震えた。
「僕を殺そうとした? いいだろう。それは。でもね、国王陛下。それを口にするか。衆人環視の中で? あなたは王たる資格を自ら放棄したに等しい。それに……あの男が、僕が殺されようとしているそのときに、僕を庇わないわけがない。僕より弱いくせに。僕よりずっと脆いくせに。僕が傷つけられるのはいやだからって、馬鹿じゃないの。死んじゃって。そっちのほうがよっぽど――!」
 己の言葉に激高したよう、フェリクスの剣が鋭くなった。今度こそ、本気で王を殺そうと。否。いまだそれでもなぶっている。
「フェリクス!」
 いたたまれなくなったファネルの声に、フェリクスは答えない。王の髪を、頬を、袖を。フェリクスは少しずつ切り裂いていく。そのたびに上がる忌々しげな声。剣で防ぐこともできず王は仰け反った。その拍子に驚いた馬から振り落とされる。
「剣を取れ」
 自らも下馬したフェリクスが、王に剣を向けた。舌打ちをしたのか、それとも口中に入った泥でも吐いたか。国王に相応しい品位を欠片も持たなくなった王が剣を構えた。
「あなたは何もかも失って、死ねばいい。たかが一介の魔術師に、剣で殺された不名誉を後世まで伝えられればいい」
 だからこそ、魔法は使わない。そうフェリクスは言う。確かにフェリクスも剣の腕は悪くはない。リオンに仕込まれた剣は、騎士たち程度ならば充分相手取ることができる。が、魔術師の言として、それは侮辱だった。
 それを感じ取ることができるほどの王ならば。このようなことにはならなかっただろう。ファネルは立ち直りつつある騎士たちを牽制しつつ、彼らを見る。
 フェリクスが踏み出すごとに、小さな血の雫が飛んだ。足場の悪さに、王がよろめけば、すかさず切り裂かれる。それで、致命傷はおろか、手傷と言えるほどのものは与えていない。
「さぁ、僕を殺してみろ。憎い魔術師がここにいる。あなたを殺そうとしている男がここにいる。できないのか、腑抜け」
 フェリクスが罵った。相手を煽り立てているとしか思えない言葉に、淡い疑念を感じ取ったのはファネルだけだった。
「フェリクス……。死ぬ気か」
 ぽつりと零された言葉。飛び回っていたシェリが振り返る。色違いの両目に、睨まれた。
「違うと、言いきれるか」
 激しい剣の音がしているにもかかわらず、ファネルの問いはシェリに届く。戸惑ったよう竜の顔。死なせる気か、と重ねて問うファネルに竜は動かない。
「お前が死なせてもいいと思っていても、私は死なせたくないな」
 するり、と動いた。竜もそれを咎めなかった。背後に迫る騎士たち。我が身を挺して、とまでは思っていなかった。が、背中が疎かになったのも事実。けれどファネルの背は安全だった。
「フェリクスを頼みますね、ファネル」
 リオンがいた。いまここでなにが起こっているのか理解していないのではないかと思うほどにこやかな温顔。ファネルは苦笑して片手を上げる。決着が、つきかけていた。
 フェリクスの剣。切っ先が王の喉下にある。いまこそ逃れられないと知ったのだろう王が、初めて恐怖を感じた顔をした。あと一歩。
「死ね――」
 フェリクスの右手に、力が入った。ぷつり、喉に血の珠が浮かぶ。つるりと、一筋流れた。そのときだった。
 重々しい音を立て、門が開いた。はっとして振り返った王は、自らの行為で傷を深くする。門の向こう、少数とは言え完全武装した騎士たちがいた。
 王は身をひるがえす。戦いに臨んだ臣下のことなどすべて王の脳裏から消えた。その背を、フェリクスの剣が襲った。浅く。薄く。決して致命傷にはしない。楽には死なせないとばかり。声が響いた。
「敵将フェリクス。剣をひかれい。ラクルーサ王よりお言葉がある!」
 騎士たちの前、見覚えのある顔がいた。フェリクスは剣をそのままにその男を見つめる。不意に思い当たった。アリルカを訪れた、マルサドの神官だった。
「……礼を以って軍使殿に従おう。が、おかしなことを言うね。ラクルーサ王はここにいる。あなたは誰の言葉を持ってきたの」
 たらたらと流れる血に気づきもせず、王は何事かを叫んだ。その醜悪さに新たな騎士たちが顔をそむけたのにも気づかず、王はうわ言のよう叫んでいた。




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