ラクルーサ左翼が壊滅に追い込まれたのはフェリクス率いる右翼の力のみではなかった。アリルカには、神人の子らがいた。
 魔術師たちの猛攻にさらされた敵軍が足元を乱したとき、彼らは一斉に声を上げた。
「おいで!」
 アリルカの本陣から神人の子らの涼しい声がした。一陣の薫風のごときそれが、敵に達したとき、彼らの馬が暴走した。
 その背にある暴戻な乗り手を、過酷な主人を、己を所有物と見做す不届き者を振り落とし、新たな友の待つ場所に駆け出そうと。敵将の中、馬の背から振り落とされないで済んだ者はごく少数だった。
 いかにも嬉しげに疾駆してくる馬を厳しい目で見つめつつエラルダは傍らを振り仰ぐ。デイジーがいるはずの場所が、いまは開いていた。
「前進」
 静かに告げて本陣を動かす。何も告げられてはいなかったけれど、今では大体フェリクスの考えることがわかるようになっている。
 彼は敵陣を突き抜け、その背を襲うつもりだろう。デイジーもまた。ならば本陣を進めその助けがしたい。
 ぴったりと意識が重なるようなその陣の動かし方に、ラクルーサは浮き足立つ。薄い、紙のような包囲陣。それでも恐怖が先に立つ。
「破れ!」
 恐れ、とは感じていないだろうラクルーサ王の声だった。蒼白になり、声も震えている。それでも彼は認めないだろう。
 王の周囲を守る騎士たちが揃って槍を立てる。敵に突進するのではなく、今は王を守ること、それのみを考えていた。
 その動きを、フェリクスのみならずデイシーも見ていた。傍らに走り込んできたフェリクスを横目で認め、にやりとする。
「どうするよ?」
「追って」
「追う?」
 訝しげな顔をするデイジーに、わからないのかと侮蔑も露な視線。フェリクスとしては愚か者扱いしたつもりはないだろう。少なくとも彼の表情はまったく動いていない。だがデイジーはそう解釈した。
「うるせぇな。わかってるよ。やりゃいいんだろうが、やりゃ!」
「わかってるならさっさとやって」
「フェリクス――」
 とっくに配下を引き連れて走っていってしまったデイジーを視界の端に収めながらファネルが問うた。肩の上からシェリは飛び立ち、辺りを警戒している。
「撹乱。してもらってた」
 それでどうするのか、とは聞かなかった。立ち直りかけた敵が向かってきている。フェリクスのため、時間を稼がなければならない。
 当のフェリクスは本当に物理攻撃手が必要なのか、と首をひねるほどの速さで魔法を紡ぎだしている。彼が護衛を必要としないと言っていたのは見栄でも煩わしさからでもなく単なる事実だった。正確で、誰よりも速い魔法。そして確実に殺傷せず戦闘不能に追い込んでいく。
「遅い!」
 その上で文句まで言っていた。シェリが聞きとがめて一息入れろ、とでも言うよう彼に代わって魔法を発動させる。あたり一面、風が乱舞した。まるで細かい刃のようそれがラクルーサ兵を襲う。
「なにを待っている、フェリクス!」
 それでも掻い潜ってくる敵に剣を向けつつファネルが怒鳴る。とっくに刃毀れがしていた。
「リオンの馬鹿。遅い。遅すぎる。あいつ、僕を殺す気なの!」
 シェリに片手を振って見せ、フェリクスはまた魔法を放つ。不安そうな竜の眼差しに、ファネルは彼の体力の限界を思う。
 定命の身としては考えられない、驚異的な体力だった。フェリクスは人間ではなく、確かに神人の血を引いている。それでも定めに縛られた身は、確実にこの地上のもの。神人の子らのよう、半ば魔法的な存在であるのならばこの驚異にもうなずける。それだからこそ、彼は恐るべき偉大な魔術師と言えた。
「殺させは、せん!」
 魔法を放った一瞬の隙をついた敵に剣を突き出す。まだ若い兵だった。神人の子のファネルから見れば、幼いほどの兵。その命を奪うことにためらいがないわけではない。それでもフェリクスを死なせたくない。
「勝手に殺すな! まだ生きてる」
「リオンがどうのと言ったのはお前だろうが」
「うるさいな!」
 フェリクスの苛立ちそのもののような魔法。氷の礫があたりかまわず散乱する。あるいは顔を覆い、あるいは腹を庇い、敵兵が怯む。そのとき歓声が聞こえた。
「遅い!」
 リオンの疾駆を片目の隅に捉えたフェリクスはまたもや罵り、手を伸ばす。心得たシェリが降りてきた。
「危ないからね。引き離されたら、困るでしょ」
 君がな。そう言った声が一瞬聞こえた気がしてフェリクスは息を飲む。そのようなはずはない。あの男の声などどこにもない。
「フェリクス!」
 彼が呆然としていたのはほんの瞬きの間だっただろう。が、敵の剣が伸びてくるには充分だった。
「なにを――」
 している。ファネルの声が宙に途切れた。シェリの甲高い鳴き声。フェリクスは咄嗟に彼に手を伸ばす。
「なにやってるの! それはあなたでしょ! 馬鹿じゃないの。僕を庇ったりしないで。そんなもの、見たくない!」
 ファネルの左腕から滴らんばかりに流れ出す赤い血。ぞっとしてフェリクスは自分の上着の裾を破ってきつく結んだ。じとり、と縛ったばかりの布に血が滲んでくる。
「この程度では死なん」
「そう言う問題じゃない!」
「私に怪我をさせたくないのなら、こんなところでぼうっとするな、愚か者」
 あえて言ったファネルの言葉に、意外なことにフェリクスがうなずいた。ファネル自身、罵り言葉の一つや二つ、返ってくると思っていたが、フェリクスは従容とうなずいただけだった。否、従容と、ではない。毅然と。脆さと裏腹の彼の強さにファネルは背筋を冷やした。
「平気? 平気だったら、続けるよ。今度はリオンの馬鹿が、危ない」
「無論だ。この程度、かすり傷にも入らんな」
 恐怖を振り払うようあえてにっと笑って、ファネルは馬の鬣を掴んだ。神人の子らは馬具を必要としない。鬣を掴み、両足だけで馬を乗りこなす。乗せてもらっている、そう言ったほうが正しいのかもしれない。馬は友を背にともに戦うことを選んでいるのかもしれない。
 駆け出していく二人に、フェリクスの配下が続く。本陣から前衛に立ち敵陣へと進んでくるリオン、敵の背後から包囲を狭めていくフェリクス。語り合ってなどいない。それでも呼吸はぴったりだった。
 その内部にあって、もっとも危険な位置にいるのがデイジー率いる隼たちだった。敵陣を内側から撹乱している。騎馬で縦横無尽に駆け回る。驚くほど機敏で負傷者すら少ないのが、さすが歴戦の傭兵隊といえた。
「王がいたぞ!」
 どこで叫ぼうと、もしかしたら小声で囁こうと、フェリクスには聞こえる。そうデイジーは信じていた。剣を掲げ、王旗の下へと隼を殺到させる。必ず、フェリクスが突進してくる、そう思っていた。
「こっちまでやられかねねぇな」
 いまのフェリクスの勢いならば。王を撃った流れ矢とでも言うべき魔法にあたって仲間が死にかねない。ほんの短い言葉を交わしただけだったが、デイジーには押し殺されたフェリクスの怒りの大きさが感じられていた。
「散開!」
 王を追い詰めるのは、自分の役目ではない。発見し、陣を乱せば充分。浮き足立ったあとこそが、隼の本領でもある。
「隊長!」
「旗から目ぇはなすなよ。しっかり見てろ!」
「隊長、王旗が」
 言ったそばから王旗が移動し始めた。デイジーは舌なめずりして馬を駆る。
「悪いな。もうちっと働いてくれ。な」
 アリルカで得た馬は、いままで乗っていたものと同じ生き物か、と思うほど素晴らしい馬だった。それでいて、デイジーはその馬に乗ってきていない。かつてと同じ自分の愛馬にまたがっている。逞しい首をぽん、と叩けば一声嘶いて若駒のよう疾駆した。
「追え! 逃がすなよ、逃がしたらおっかねぇ魔術師さんにこてんぱんに叩かれんぞ!」
「隊長がね! 俺ら、しらねぇもん」
「薄情なこと言うんじゃねぇやい」
 軽口を叩きながらも隼は鋭かった。その隊名の由来となった鳥のごとく一直線に駆けていく。王旗が揺らいだ。
「なに――?」
 逃げているだけに見えた。王旗は、相変わらず動き続けている。だが、そこに異変を感じたのはデイジーの眼力と言える。
「伝令!」
 一声叫び、デイジーは配下をフェリクスの元へと走らせた。時をおかず、自分もまた彼の元へと走る。苦々しげな凶相だった。
「すまん」
「なにが」
「逃げられた」
 口中一杯、この上なく苦い薬でも含んだかのようなデイジーの声に、フェリクスはそっと唇を吊り上げた。
 デイジーは自分の背が粟立つのを感じた。凄まじい悪寒がする。それが恐怖だと気づいたとき、デイジーの手は知らず剣の柄を握り締めていた。フェリクスの、笑みに似て笑みではない、その表情。それがデイジーほどの強者に恐れを感じさせたものだった。
「いいんだよ、デイジー。それでね」
「おい」
「逃げた? 王が、ね。臣下をおいて、一人で逃げ出したって、ことだよね」
 王旗の下、国王はいなかった。少数の側近だけを引き連れて、戦線を離脱した。アリルカが気づいたくらいだ、すぐさまラクルーサ軍も気づくだろう。案の定、敵軍が浮き足立った。
「国王は、信頼を失った」
 ぞっとするようなフェリクスの声。実際腕に浮かんだ鳥肌をデイジーは気づかないうちに撫で静めている。
「国王は、国民の敬意をも失った」
 フェリクスが腕を差し伸べる。それを伝って肩から手首へと降りてきたシェリを、フェリクスは投げ上げた。
「見える、ねぇ?」
 竜が、高らかに鳴いた。その声が合図でもあったかのよう、すう、と敵味方の陣が割れた。包囲が解けたというのに、逃げ出すラクルーサ兵はいない。呆然と、街の外壁を見ていた。
 必死になって開門を叫ぶ王の近臣と、為す術なく佇む王の姿を。そして開くことのない門を。しんと静まり返った門は、断固として国王の入城を拒んでいた。




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